大峰南奥駈、前鬼-行仙岳-貝吹金剛 (2005.5.19-24)

☆期日/山行形式: 2005.5.19-24 5泊6日(民宿2泊、無人小屋3泊) 単独縦走

☆地形図(2万5千分1): 釈迦ヶ岳(和歌山4号-1)、池原(和歌山4号-2)、大沼(田辺1号-1)、
                                   十津川温泉(田辺1号-3)、瀞八丁(田辺1号-2)

☆まえがき
    吉野から熊野本宮大社真近かの七越峰まで、延々と連なっている大峰の頂稜を辿る奥駈道は、1300年の歴史を持つ山岳信仰の修験の道であるとともに、国内屈指の縦走ルートだ。
  山の高さがやや物足りないのと、なんとなく抹香臭い雰囲気に違和感があったのとで足が向かないでいたのだが、たまたま一昨年の秋に山上ヶ岳と大杉谷にツイデ山行をする機会があり、その峻険な頂稜と、深い険谷に惹かれた。

  昨年5月に弥山から釈迦ヶ岳までの奥駈道核心部を歩いたときは、温暖湿潤な気候に育まれて生命の息吹溢れる森に触れ、われわれ日本人のメンタリティーのルーツが分かったような気がした。
  是非、奥駈道の全区間を歩いてみたいと思うようになったので、9月に北奥駈道北部の大部分、11月に南奥駈道南部を歩いた。

  年が変わって春も深まり、ようやく天気図が落ち着いてきたので5度目の大峰山行を行い、残った未踏部のうちで最大部である南奥駈道北半分をトレースすることにした。

  釈迦ヶ岳南方の太古ノ辻を始点として、天狗山から行仙岳、笠捨山、地蔵岳を経て、貝吹金剛までの区間は、奥駈道の中で最も歩き難い部分だ。
ルート上に食事付きで宿泊できる施設がなく、地元のボランティアグループによって設置・維持されている無人小屋での泊まりを重ねなければならない。
  これらの小屋は主に修験道行者の泊まり場として良好な状態に維持され、水場も整備されいるので安心して利用できるのだが、食料と燃料は担ぎ上げなければならない。
さらに深仙ノ宿には毛布などの備え付けがないから寝袋とマットも必要で、年々担荷能力が落ちてきている老体にとっては少々覚悟が要るザックの重さとなる。

深仙ノ宿小屋前広場の眺め。 左端に潅頂堂、右手遠くの山は大台ヶ原

  中低山とはいえ、かなり起伏のある頂稜を辿る縦走ルートを、どうやってバテずに歩き切るか、情報集めと地図読みをしながらあれこれ考えた。

最後に纏まった行動計画は、あらまし次のようなもので、5泊6日の長い山旅プランとなった。
まず初日は新幹線で京都に行き、近鉄に乗り継いで大和八木へ。  さらに奈良交通バスに乗り継ぎ、奥吉野の湯盛杉の湯経由、下北山村池原まで行って民宿に宿泊。
  二日目はタクシーで前鬼車止め(610)まで入って歩き出し、前鬼(810)から二ツ岩(1330)を経て太古ノ辻(1450)に上がり、稜線を1Km ほど北上した深仙ノ宿(1500)の避難小屋に宿泊。
 三日目は、太古ノ辻(1450)まで戻った所から南奥駈道トレースを開始。 石楠花岳(1472)、天狗山(1536.8)、嫁越峠(1345)、地蔵岳(1364)、剣光門/笹ノ宿跡(1195)、涅槃岳(1375.9)、証誠無漏岳(1301)と、順次南下し、持経ノ宿(1055)で宿泊。
  四日目は引き続き、平治ノ宿(1035)、転法輪岳(1281.2)、倶利迦羅岳(1252)と南下して行仙岳(1226.9)に登頂。  天気、体調にもよるが、頂上南肩から国道425号線に下降。 車道を歩いて下北山村の浦向(285)に途中下山し、村の旅館(松葉館)に宿泊。
  五日目は、タクシーで白谷トンネル手前の登山口(830)に上がって奥駈道(1160)に復帰。
佐田辻行仙宿山小屋(1085)から笠捨山(1352.3)に登頂。  さらに葛川辻(1140)、地蔵岳(1250)、香精山(1121.5)、貝吹金剛(920)を経て塔ノ谷峠(900)まで歩いて昨年11月のトレール始点に接続。
上葛川(500)に下山して民宿うらしまに宿泊。
  最後の六日目は、十津川村村営バスで田戸(タド)の瀞八丁瀞峡探勝船発着場へ。
ウオータジェット船で上瀞/下瀞を観光したあと志古に出て新宮行き路線バスに乗り継ぎ、JR紀勢本線の特急で名古屋に出たあと新幹線に乗り継いで帰ろう、という物であった。

  ひどい低効率 "カタツムリ縦走計画" で、人に呆れられるかも知れないが、せっかく遠くの山に行くのだからなるべく長い時間山の中に留まって森の霊気に浸りたい、という目的には合致する。

  週間気象情報を参考に組み立てた計画で、もし日程の最後の部分で天気が悪くなってきたら、行程を中断し、浦向から熊野市に出て帰ることができるようにしていたのだが、幸い、予想していたより天気の変化が早く、しかも風雨が弱かった。
お陰で、途中下山せず稜線上の小屋にとどまることとなり、体力的に楽な上にコストも節約して行程の最後の部分を消化できた。
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☆行動記録とルートの状況
月19日
<タイムレコード>
: 宮崎台[10:08]=(\150)=[10:15]あざみ野[10:21]=(\260)=[10:37]新横浜[10:50]=(ノゾミ#73 \6130+指5220)=[12:53]京都[13:20]=(近鉄特急#1319 \860+870)=[14:06]大和八木[14:30]=(奈良交バス\2900)=[16:20]湯盛杉の湯[16:30]=[17:57]池原{もりなか \6000}

◆ 半年振りの長旅で、ジパングクラブの割引を利用した。
昨年11月の大峰山行で年会費の元が取れているので今シーズンは出かけただけ得が増える勘定になる.
ただひとつ面白くないのは、のぞみ特急券が割引の対象外だということだ。
これには苦情を寄せる人が多いようで、広報誌に言い訳が掲載されたりしているが、口喧しい年寄り達の悪口を封じて企業イメージが損なわれないようにした方が得なのではないだろうか?

  京都駅で近鉄線へ乗り継ぎ、大和八木駅ではバスへの乗り継ぎもあるが、もう勝手がわかって手際良く通過した。
  八木駅では、バスの待ち合わせの間に柿の葉寿司を仕入れた。
山国のものらしく、柿の葉でしっかり包んであって潰れにくいだけでなく酢が利いて日持ちが良いので山中最初の夕食にできる。

  バスは奈良盆地を南下、飛鳥を過ぎると山間に入り、トンネルを抜けて吉野川谷に降りた。
大淀バスセンタの先で左折、上流に向かって進むと僅かな距離で急激に地形が険しくなってゆく
湯盛杉ノ湯のターミナルで上桑原行きバスに乗り移り、更に谷奥に分け入って行くと地形はますます険阻となり、よくもこんな所に道を作ったものだと呆れるような道路が通じている。
膨大なコストが掛かったと思われるループ橋からトンネルを抜けると和佐又口だ。
去年の9月、和佐又の小屋に泊まってここに降り、八木に出て家に帰った。
和佐又口から前鬼口までは今度はじめて通るので興味深々だ。
最奥の人家がある天ヶ瀬で、行者還トンネルを抜けて天川河合に通じる国道309号線が分岐している
トンネル西口の先が昨年の大雨続きで崩れ、通行止めになっているという。
"一年のうち何日通れるかと言う道なんですよ" とバスドライバーが笑う。
すぐ下手の西原には民宿がある。  行者還岳へはむしろこちら側からアプローチした方が良いのかもしれない。
上北山中学校、上北山温泉、河合と、順次通り過ぎるとまもなく池原ダム湖の水面が見えてきた。
やがて見覚えのある前鬼口を過ぎた。
下北山村池原集落の入口の道路分岐点にある民宿 "もりなか" は、昨年5月の北奥駈道縦走から下山してきた時に泊めてもらった所だ。
バース釣りの池原ダム湖の釣り宿として有名なようで、いつも首都圏から来た釣り人が泊まっている。

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月20日
<タイムレコード>
: 池原[7:20]=(民宿送迎車)=[7:45]車止手前(7:50)-前鬼車止め(8:07)-前鬼(8:45/9:05)-約1050m 地点(9:55/10:00)-二ツ岩(10:35/45)-小休止(11:25/30)-太古ノ辻(11:50/12:10)-深仙ノ宿(12:45/15:00)-釈迦ヶ岳(15:55/16:05)-(16:45)深仙ノ宿{無人避難小屋}

前鬼へのアプローチはタクシーを利用する積もりにしていたが宿の主人が車で送ってくれるという。
ありがたいサービスだった
前鬼付近も昨年の大雨でいろいろ被害を受け、不動七重滝も滝壷が岩塊で埋まってしまった。
前鬼への道も、途中で崩落し、それ以上車が入れない。

  車を降りた所から約15分で車止め手前の広場を通過。
引き続き車道を進んで前鬼小仲坊宿坊前に着いた(左)。
  ここには億の金が掛かったという公衆トイレがある。  深仙ノ宿にはトイレがないので、少しでも山を汚さぬための努力をした。
杉林の中を進んで行くとすぐに自然林になる。
谷の中のやや混沌とした地形の中だがコースサインは非常に親切に設置されている。
  ソロソロと思われるところで小休止したあと歩き出すと、すぐに木製階段が連続する急登になった。
縦材に半割丸太のステップをはめ込み、ボルトで固定した贅沢な造りの階段道だ。
山道の階段としては登りやすい方なのだが、所々でステップ幅が変わるようで時々調子が外れ、躓きそうになる。
  久し振りの重荷にあえぐ身体を騙し騙し押し上げているうちに二つ岩に着いた。
急登はここまでで終わるのでほっとしてザックを下ろす。
  時々鳥の声が聞こえてくるだけで静かなものだ。
暫く休んで落ち着いてきたらなんとはなしの気配を感じた。
後ろを振り返って見上げると頭の上の斜面で数株のアズマシャクナゲが、大ぶりの濃紅色の花を満開に咲かせていた。
  二つ岩から先は尾根の北斜面に入って巻き気味に斜上してゆく。

  右手の谷向かいに幾つもの岩塔が林立しているのが見えた。
ソロソロ登り続けているとまわりが笹原に変わり、やがて前方が開けて、太古の辻の鞍部に上がった。

  ゆったりした広い笹原で、数本の自然石の柱が立っている
その脇に立つ道標には、"これより南奥駈道" と記してある。
  右に折れ、1Km ほど北にある深仙ノ宿に向かう。
小高い所に上がると前方に釈迦ヶ岳が現れた。

弥山の方から眺めたようなすっきりした姿ではないが少し傾いた三角形が良い形をしている。
  大日岳の肩のトラバースを抜け、もうすぐ深仙ノ宿と思うあたりではヤシオツツジが花盛りになっていた。

向こうから歩いてきた熟年ハイカー数組と出遭った。
マイカーで来て旭口から登ったが釈迦ヶ岳だけでは物足りないので大日岳へ行く所だという。

  奥駈道の重要な行場になっている釈迦ヶ岳も、横手から登れば、手軽なハイキングの対象であるらしい。
   一旦稜線の右側を通り、また左側に戻って下ってゆくと深仙ノ宿で、小屋の屋根と灌頂堂が見えてきた(左)。
一年前に来た時には壊れていた入口のドアは修理されていて、内部も綺麗になっていた。
床をザァッと箒で掃いてお店を広げ、水汲みに出た。

  香精水は釈迦ヶ岳よりの岩峰の裾の割れ目から滲み出している水だ。
法螺貝の練習に来ていた行者3人のうちの二人が水を汲んでいたが、今年は涸れ気味で極く僅かしか出ていない。
ペット瓶一本を満たすのに大分時間が掛かっているようだった。
  焦っても仕方がないことなのでとりあえず飲む分を汲んだあと、小屋にあったペット瓶で漏斗を作り、笹の葉を伝わって滴り落ちる水をポリタンクに集める仕掛けを作った(左)。

  集水装置が完成し、放って置けば水を貯められる見込みが立ったので、日が落ちる前に釈迦ヶ岳頂上に行ってくることにしたした。

  グレープジュースを入れたテルモス、中判銀塩とデジカメだけを持って頂上に向かう。
暫くの間、やや急な登りを続けると正面に釈迦岳を見上げる前衛ピークの上に出た。
  稜線上に生えている疎らな潅木の間に円環を背負って立っている釈迦如来像が見える。

  笹原の中をもう一度やや急に登って稜線に上がると、旭口からの登山道に出合う。
右に折れて約10分で釈迦如来像の足元に着いた。
ちょうど一年ぶりの再会だ。
大正年間に名うての強力が担ぎ上げた銅像だと言うが、今日も青空を背に荘厳な姿で屹立している。

  釈迦如来像の脇から北の方を望むと、北隣の孔雀岳から仏生ヶ岳、弥山が、更にその先には山上ヶ岳が見えていた(下)。

昼間来ていた人達はみな山を下って行き、あたりは静寂そのものだ。
Kita Okugakedou Mountains
(クリックすると拡大します)
南の方には南奥駈道の山々が連なっている(下)。
北奥駈側に比べて標高は低いし、ひとつひとつの山は小振りで低いが小刻みな起伏が数多く、そんなに楽に歩かせてもらえそうもないな、と思った。
  釈迦如来像と、北奥駈道の山々との1年振りの再会を果たし、南奥駈ルートの概観もできたことに満足して小屋への帰途に就いた。

深仙ノ宿に戻るとまず、香精水に仕掛けた集水装置の様子を見に行った。
期待通りに働いていて、頂上を往復していた約2時間の間に6リッター程の水が溜まっていた。
これだけあれば潤沢に使っても後から来る人に残してゆける。
念のためほかの容器に移し、空になったポリタンクはあらためて元の仕掛けに戻した。
夜通し水を集めて満タンになるだろうから次の土曜日に登ってきた人達が喉を潤すのに役立つだろう。

  前回この小屋に泊まった時は日暮れ前に京都の学生が登ってきた。
今度は誰も来ず、一人で寝ることとなったが、入口のドアが修理されていたおかげで居住性がよく、早い時間に就寝して翌朝の明け方まで熟睡した。
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月21日
<タイムレコード>
: 深仙ノ宿(6:30)-太古ノ辻(6:55/7:00)-石楠花岳(7:10/15)-天狗山(8:15/25)-奥守岳(8:50)-嫁越峠(9:10/15)-地蔵岳(9:45)-小休止(10:00/10)-小休止(11:00/10)-剣光門/笹ノ宿跡(11:20)-涅槃岳(11:50/12:30)-証誠無漏岳(13:00)-トサカ尾(13:20)-阿須迦利岳(13:45/55)-(14:15)持経ノ宿{無人避難小屋 \1000 水場林道200m}


やや雲が多いが穏やかで暖かい朝になった。
今日の行程は持経ノ宿小屋まで、半日あまりで行き着ける。
恒例のコーヒ、朝食のあと、行動着に着替え、パッキングと、山の朝の定番作業をノンビリこなす。


  まず太古の辻に戻った。

  南奥駈道の出発点に相応しく、道標には、玉置山まで29Km 16時間、本宮備崎まで45km 24時間などと記した腕木が取り付けてある。

  これから辿る未知のルートへの期待に胸を膨らませながら、新緑の南奥駈道に入った。
  暫く歩いて露岩が増えてきた所で石楠花の群落に遭った。
温暖湿潤な気候に恵まれて葉が大き目で樹勢が強く、どの枝もびっしり花を着けている。
この先のピークには石楠花岳という名がついているくらい石楠花が多く、いずれも満開になっていた。
  南奥駈道の初めの部分の稜線は東側の傾斜が強く、崩壊気味になっている所もあるがルート自体は至って穏和で、ちょっとばかり荷が重い稜線漫歩になった。

  ひと登りで天狗山の狭い頂上に上がった。
この頂上は南奥駈ルートの最高点で、三角点標石がある。
一番高い所が僅かながら主稜の東側に張り出し、その北側の木が伐られているお陰で釈迦ヶ岳方面の眺めが良い。

  前方に南奥駈の山並みを眺めながら天狗山から下って行くと広々した草原に出る。
山中の別天地だ。(左)
"天狗の稽古場" と記した標識が立っている。
"飛翔術" の練習でもするのだろうか?
それとも "天狗踊り" の練習場か?

  次の日が雨模様になって展望が得られなかったせいもあるが、天狗山から地蔵岳(子守岳)を越して般若岳あたりまでが、ルート沿いの景観と所々で得られる展望の点で、南奥駈北部の最も美しい部分だと思った。

地蔵岳の南面は、ルートを遮るように倒木が横たわっているため、道が分かりにくい。
皆右の方に行きかけて戻るため、迷い道の踏跡が濃いが倒木の向こう側を良く見れば道の続きが分かる。
  清楚な白ヤシオツツジ(ゴヨウツツジ)の花を見て般若岳に近づくと稜線の西側を巻く道に入る。
進んで行ってみたら頂上の南側が崖になっていて、巻き道はそこを避けるためだったことが分かった。

  小ピークを越して行った所に滝川辻の標識が立っていた。

  大峰では道が交差する所をすべて "辻" と呼んでいる。
この辻では西側に派生する尾根上を花瀬へ下降する踏跡が分岐していた。
  小ピークを越して剣光門へ下ってゆく所でも大木のシロヤシオが満開で、新緑の涅槃岳をバックに美しかった。(左)
  涅槃岳への登りのはじめは緩やかだが途中からかなりの急登に変わる。
息を切らせて登り上げた頂上には三角点標石があったが、回りを樹木に囲まれ、至って地味な頂上だった。(左)
  頂上から下ってゆく所はこれまでと大分雰囲気が違って左のように密生した中木の間の道になった。
所々に枯れた大木が立っている様子から以前山火事があったのではないかと思った。
  暫く下り続けて緩い鞍部を過ぎ、上り返すと証誠無漏岳の頂上に着く。(左)

  背の高い笹に囲まれた小広場で、中八人山方面に行くルートの入口と思われる隙間があったがそのことを示す道標は見えなかった。
  証誠無漏岳の南側の下降路には "トサカ尾" と呼ばれる露岩の通過がある。
最初の所では西側にトラバースしたあと5、6m のクサリ場を下降する。
笹の間を暫く進むと今度は同じような感じのクサリ場の登りがある。
稜線の西側を少し進んで7、8m 程のガリー状のクサリ場(左)を登りきるとすぐに阿須迦利岳の頂上だ。

  阿須迦利岳の頂上は樹木と笹に囲まれた地味な場所で "持経ノ宿跡へ25分" と記した道標が立っている。
現在の持経ノ宿小屋はそれより手前の鞍部にあって15分程で行き着ける。

笹の多い藪っぽい所を進んで行くと持経ノ宿小屋が見えてきた(下左)。
幅10m弱、奥行き4m弱の大きさがあって、 下手な管理小屋は真っ青というくらい整備が行き届いている。
  下の合成ステレオ写真のようにふたつの囲炉裏があり、左側の壁にはいろいろな備品、右側のカーテンの中には毛布や布団が収めてある。

すぐ前に林道が来ていて、そちら側が開けているため、 小屋の内部は明るい。
あまり広いので左側半分だけ箒で掃除してお店を広げることにした。
炊事と寝る場所を作り、一服したあとで水汲みに行った。


広く整備が行き届いた持経ノ宿小屋の内部
  10リッターのポリタンクが2個、入口近くに置いてあり、その向かい側の白板に水汲み日誌が記してある。
一方は4日前に汲んだ水が3リッターくらい入っていたがもう一方は空になっていた。
空のポリタンクと柄杓を持ち、林道約400m と記した道標に従って水場に向かった
水量はある程度あったのだが岩床をなめる様に流れていて汲みにくい。
4、5m 上がれば直接ポリタンクに汲めそうだったが足場が不安定だ。
あたりを見回したら、長さ20cm あまりのビニールパイプが近くの砂利の上に転がっていた。
小石と組み合わせて簡単な "集水装置" を作り、15分かそこらでポリタンクに6分目ほど汲んだ。
林道の帰り道は緩やかながら上り坂で、ポリタンクが重い。
欲張って満タンにしなくて良かったと思いながら運んだ。

水を確保したあと、囲炉裏で火を焚く準備をした。
こんなに広い小屋に一人で寝れば寒いだろう、と思ったからである。
小屋の下の林道脇から枯れ笹を集めて持ち帰り、新聞紙と組み合わせた焚き付けで囲炉裏を燃やせる準備をした。
準備作業がひと通りできたので、ガスストーブで湯を沸かしてコーヒーを淹れ、お茶菓子を摘んでいたら熟年の単独者が着いた。
葛川トンネル近くにある21世紀の森のキャンプ場から歩いてきたという。
あとの話で分かったところでは、大阪近郊に住んでいる人で、現役時代には地図測量の仕事をしていたプロの山屋さんだということだった。
大峰山域をホームグラウンドにしていて、頻繁に通って小屋の水場の整備などをやっているという。

  深仙ノ宿の小屋のドアーもこの人が直したのだそうだ。
そういえば合板の一枚板を使ったドアが風で煽られて壊れにくいよう、内開きにしたのは良いものの、土間にある囲炉裏の縁と干渉して半分しか開かないのはどうしてなのか、訝ったが素人のボランティアの仕事だったのなら止むを得ないし、感謝しなければならない。


  昨夜は一人だったが今夜は二人になるのかなぁ、と思っていたら大型ザックの熟年男が着いた。
こちらは横浜磯子区の人で、釈迦ヶ岳の北、2時間ほどの所にある楊子ヶ宿から歩いてきたという。
お互い神奈川県の隣町からはるばる大峰まで出かけてきて同じ小屋に泊まることになったのは何かの縁だということで打ち解けた。
"定年退職記念行事” として50cc バイクを購入し、本州の海岸線をグルリと一周したというタフな "アウトドア冒険オジサン" で、あちこちの山も登っているのだが、今回の大峰は一年がかりで準備をして奥駈道の一気通貫に来ているのだと言う。

  この夜はこの三人で泊まることとなったが、地元のプロ級山屋さんと、超冒険オジサンとと一緒になったお陰で、いろいろ興味深い話が聞けた。
とりわけ、近いうちに泊まる事になると思っている行者還小屋の水場の近況を詳しく聞けたのが良かった。
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5月22日
<タイムレコード>
:
持経ノ宿(6:15)-平治ノ宿(7:20/25)-転法輪岳(7:55)-クサリ場(8:20)-倶利迦羅岳(8:40)-小休止(8:25/30)-怒田宿跡(9:55)-行仙岳(10:15/30)-(10:20)佐田辻行仙宿小屋{無人避難小屋 \1000}

◆ 明け方前に小屋のトタン屋根に当たる音で目が覚める位の雨が降った。
出発前の週間予報より一日早く気圧の谷が来たようだ。
夜が明ける頃から小降りになってきたが、結局曇り時々霧ションで雨具を着けなくても歩けるくらいの状態に落ち着いた。
明日の天気次第では、浦向に一時下山するため、雨の中の長い車道歩きをするより、手近な稜線上にある行仙宿山小屋に泊まった方が良いかもしれないと思った。
いずれにしても時間的にはたっぷり余裕のある楽な行程だ。

  楊子ヶ宿小屋まで行くという地図屋さんは夜明け時に起きだし、早々に出て行った。
磯子オジサンの方も今日は行仙小屋泊まりの休養日だと言ってはいたが、こちらがノンビリ飲み食いをしながらぐずぐずしているうちに出発して行った。
  パッキングを調整し、 いつでも雨具を出せるようしやすいようにしたザックを背負って小屋を出た。
  小屋の前の林道が少し先で稜線の西側に乗越している所に奥駈道の入口がある。(左)
尾根上を10分ほど進んだ所に小さな木製のお堂があり、その軒下に "持経宿..." と刻んだ看板が掛けてあった。
昔はここに持経宿があったらしい。

  ミズナラの大木(下左)が林立している森の中を進み、ひと山越して下っていった所に平治の宿山小屋があった。(下右)
一時的に本降りになったので雨宿りを兼ねて小屋に入ってみた。
こじんまりした小屋だが良く整備されて清潔な所は持経ノ宿と同じだった。
  ひと登りで転法輪岳頂上に上がった
"平治ノ宿跡20分、倶利迦羅岳60分" と記した道標が立っている。(左)
空模様は大分良くなって、もう少しで薄日が射すのではないかという位になったが時々思い出したようにパラパラッと来る。
頭の上を覆っている樹木の新芽が水を吸ってくれるため傘を差さなくてもほとんど濡れてこない。
  所々でツツジが咲いている。
シロヤシオの落ち花が花絨毯になり、泥靴で踏みつけるのをはばかるような所もあった。

  濡れて瑞々しい若葉の黄緑の中で咲いているアカヤシオがゾクッとするほど艶めかしかった。(下)
  倶利迦羅岳の頂上には20m 程のクサリ場を通って上がった。
なんとなく雑然とした感じの小ピークだ。

  このあとは起伏が少なくなり、霧で視界を閉ざされたこともあって単調になったがそのうちに怒田宿跡の鞍部の下をトンネル抜けている国道425号線を走る車のエンジン音が聞こえてきた。

  小ピークから怒田宿跡の鞍部へ下りかかる所で行仙岳頂上のアンテナが見えた。(左)

鞍部から頂上までの標高差は150m 程だからたいしたことはないのだが今日最大の登りだ。
小屋に泊まるにせよ、浦向に下るにせよ、ここが今日最後の登りである。

小休止してあまり経っていなかったので、疲れたら登りの途中で休めばいいと考え、そのまま行仙岳の登りに掛かったが、この判断は誤りだった。
  取り付くとすぐに細丸太階段の急登になり、休む所もないまま頂上の鉄塔まで登り続けることとなった。
アンテナ鉄塔のすぐ後ろが三角点標石のある頂上だった。(左)
  雨を避けて大木の根方にザックを下ろす。
アンテナがあるからということで "携帯" を出し、スイッチを入れたがここのアンテナは関係ないようで高く差し上げるとやっと "2本" 立つ位だったが、局地天気予報は何とか読み出せた。
  明日早朝までは曇り時々雨だがそのあとは回復に向かい、晴れてくるだろうという嬉しい予報だ。
浦向に降りず、行仙小屋に泊まることに決めた。
旅館にキャンセルの電話をしようとしたら携帯の電池が上がそうなアラーム出たので中止。
  頂上から5分ほど下った所に国道下降点の分岐を示す道標(左)があったがそれを見送って直進。
約25分で佐田辻の行仙小屋に着いた。

  この小屋は手前から管理棟、母屋、権現堂と3棟の建物から成り立っている。
母屋は持経ノ宿小屋よりふた周りくらい大きく、12×6m 位はある。(下左)

  小屋に入ったのは10時半前。
まだ昼前も良いところだったが先着した磯子オジサンはすっかり寛いでいた。
こちらも床に上がり、奥手の程よい加減の場所を選んで居間兼食堂兼寝室を設置した。
  沢山の毛布が備え付けられているので持経ノ宿とこの小屋に泊まるのだったら寝袋もマットも要らない。
ただこちらは水場が少々遠くて下り10分という。
天気が良かったら背負子とポリタンクを持って汲みに行く所だったが時々降っては止むぐずついた天気に意欲が湧かず、二日続けてきた水奉行はお休みにした。
  持経ノ宿からたっぷり水を運んで来た磯子オジサンから幾らか貰えたし、自分で担いで来た分も1リッター弱はある。
  その外は、小屋のポリタンクと釜の中に残っていたのを沸かせば十分間に合うだろうと思った。
   さらに戸口の脇の雨水貯槽は満タンで樋から流れ落ちる雨水があふれ出していた。
顔や手を漱ぐのはこれで十分だ。

  窓の脇の壁にはこの小屋が建設された時の模様を記録した写真アルバムが貼ってあった。(左)
新宮山彦クラブをはじめとする地元のボランティアを中心として、平成2年から翌年まで掛かって建設されたということだ。
信仰登山の支援が主目的とはいえ、長大な縦走路と避難小屋が民間ボランティァ主導で維持されているのは、白馬から親不知に抜ける栂海新道と似通っている。
この夜は磯子オジサンと二人だけの泊まり。
夕方から冷えてきたので久し振りの焚き火をした。
屋根に煙抜きがあってもかなり燻され、窓を開けないと居られないのだがそれなりに暖かくなった。
揺らめく炎を見ていると何となく心が和んでくる。
石器時代の洞窟の中から引き継いでいる遺伝子のなせる技か?
囲炉裏の脇で磯子オジサンの冒険談を聞いたり、あちこちの山歩きの話をしたり、楽しい夜だった。
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月23日
<タイムレコード>
: 行仙宿小屋(7:45)-P1(8:35/40)-笠捨山(9:45/55)-葛川辻(10:25/30)-地蔵岳(11:20/30)-前玉置山(11:50)-東屋岳(12:05/30)-上葛川分岐(12:55)-香精山(13:10/15)-塔ノ谷峠(13:50/55)-小休止(14:30/35)-(14:55)上葛川{民宿うらしま \6500}

明け方目が覚めたときにはまだ霧が流れていた。
天気の回復は予報より幾分遅れ気味のようだ。
山上の小屋に泊まったお陰で今日も楽な半日行程だから慌てて出発する必要はない。
玉置山まで行くという磯子オジサンを見送ったあと、ゆっくり支度を整えた。
ほかにすることがなくなったてサァそろそろ出掛けるかと、小屋を出たら単独者と二人組に出遭った。
  いずれも昨夜、平治ノ宿に泊まったそうで、二人組は浦向に下山、単独者は玉置山の方へ行くのだと言う。
玉置山の方は宿泊を断られたので、どこに泊まろうかと思っているという。
水場はないがカツエ坂の手前の園地には東屋があるよと話す。
あとで聞いた話だが、玉置山宿坊での宿泊には十津川の温泉宿から苦情が出ているため、遠来の奥駈道縦走者は受け入れるが近在からの短期登山者は断っているらしい。

  小屋のすぐ下手は佐田辻で、左のような道標が立っている。
  緩やかに下って行って送電線鉄塔の脇に出ると前方に笠捨山の頂上が見えた。
まだ大分先だ。
地形図を見ると、大きな所だけでも4個のピークを越して行った先でようやく本峰の登りになる。

  ともかく、上葛川まで昼過ぎの程よい時間に行き着けれけばよいのだから焦ることはない。
三日の間重荷を背負って疲れが溜まった身体を苛め過ぎないよう、ゆっくりペースで進んだ。
  ふたつ目のピークには幹の根方が逆L字形に折れ曲がった珍しい形の木が生えていた。
  4個目のピークに上がると電波反射板のある笠捨山頂上が正面に立ちはだかるように見える。
左側が崖になってやせ細った連絡尾根を辿って本峰の登り口に取り付く。

  登降差は150m 足らずなので暫くの辛抱なのだが、ややザレ気味の急な斜面を直登してゆく形となり、なかなか厳しい登りだ。

  やがて傾斜が緩んできて三又路に着く。
左に行けば蛇崩(ジャクエ)山方面、右に2、30m で笠捨山頂上だ。

  昨夜のうちに、上葛川の民宿に確認の電話を入れることになっていたのができていないのが気になっていた。
携帯を取り出し、一か八かトライして見たら電池は1/3、アンテナは "2本" で何とか繋がった。
留守番電話だったのを幸い、手早く宿泊確認を知らせてスイッチを切った。
  笠捨山の頂上は明るい広場で、北と南への視界が開け、これから行く隣の槍ヶ岳、地蔵岳あたりは良く見えたが、大気が湿って霞み、期待していた遠望は得られなかった。 
三角点標石や祈祷のお堂などもあるがなんとなく雑然とした雰囲気でもあった。

  一服して葛川辻への下降路に入った。
道は悪くないがかなりの急降下だ。
途中からややザレ気味になっていて、立ち木に掴って下りる形となった。
  降り着いた葛川辻は杉林に覆われた暗い鞍部で、左へ5分下ると水場、と記したサインがある。
前途に槍ヶ岳から地蔵岳の険路が控えているので一服して英気を養う。

  葛川辻からひと登りで、送電線鉄塔の周辺が伐採されている所に出る。

  前方に槍ヶ岳の尖峰が突っ立っているが高度は下がっているし周囲の雰囲気も里山ムードだ。

 送電線鉄塔の脇から北の方を望むと、遠く釈迦ヶ岳からこちらへ、延々と連なっている南奥駈の連峰が縦観できる。(下左)
 カタツムリのようなスローペースではあったがよくここまで歩いてきたものだと、自分に感心する。
  伐採地から杉林に入り、ひと登りした所からクサリ場の急登が始まった。
  潅木の中なので高度感はないがとにかく急な登りだ。
急ぎようもないのでボツボツ登っていたら後ろに人の気配がしたので振り返ると佐田辻で遭った玉置山男だ。
葛川辻の水場に下りてみたが涸れていて汲めなかったという。
先に出たがったので道を譲り、離れていないと危ないからサッサと行ってくれと頼む。
男の姿が見えなくなるまで待って登高を再開。
  ひと登りで槍ヶ岳の頂上に上がったがザックを下ろせるような所ではない。
引き続き鎖場を下ると狭小な鞍部があって "槍ヶ岳" と刻んだ石柱が立っていた。
  鞍部の先から地蔵岳への鎖場が始まる。
こちらの方がさらに "悪い" 感じで、雨の日に重荷を背負って通過するのは避けた方が良いと思った。
  鎖取り付け作業中に亡くなった医博の慰霊碑を見て頂上に上がる。
直径3m 程で精精2、3人が休めるくらいの場所だった。(
)
  地蔵岳からの下りは登りと同様の険路だが所々で南方の展望が得られ、香精山から玉置山方面への連なりが見えた。(左)
  上葛川側を鎖に掴ってトラバースし、割り丸太の梯子で露岩の隙間を渡ったあと、10m あまりの垂直に近い鎖を下り切るとようやく普通の登山道に戻る。
  下の方で人声が聞こえていたので誰か来ているなと思いながら降りていったら鎖場のすぐ下で行者姿の大パーティが待機していた。
 道を譲ってくれたことに礼を言いながら脇をすり抜けさせてもらった。
  年寄りは少なく大半が2、30歳台の若者だった。
  ルートはすぐに一般的な中低山の尾根道と同じ状態になった。
もう上葛川まで大した登りもなく、目論見通り順調に歩き切れることは確実だ。
快い達成感を感じながらノンビリ気分で進み、東屋岳の頂上に着いた。
  石標の脇に三井寺25名と記した真新しい木札が置いてあった。

  飲み食いをしながら長休みをしているうちに気が着いて、携帯を引っ張り出し、一か八か、家に掛けてみた。
   見事に繋がったので、順調に歩いて難場をすべて通り抜け、最後の泊まり場となる民宿に向かう所だ。
明日は予定通り帰宅すると知らす。

  東屋岳と香精山との間にある1115m 峰付近では正面に玉置山が見える所があった。(左)
磯子オジサン、カツエ坂手前の園地の東屋あたりでお昼を食べている所かもと思った。
  上葛川への谷道の分岐を過ぎ、伐採で視界が開けている送電線鉄塔の脇からひと登りすると香精山に着く。
視界の利かない杉林の中をやや単調に下って行くと左の写真のような所がある。

  道標に従って右に直角に折れ、杉林の中を急降下してゆくと貝吹き金剛(左)に着く。
大岩の正面から再び急降下して行くと下の方に道標の立つ鞍部が見えてきた。
  細丸太の階段で急斜面を降り切った所が塔ノ谷峠だ。
昨年の11月の縦走開始点で、上葛川からここへ登ってきて南奥駈道に合流し、南方の玉置山に向かった。

  塔ノ谷の下降路は終始杉林の中のため暗くて視界が閉ざされ、いささか単調だが一部を除いて穏やかで歩き易い。
引水用のホースが見えてくれば人里は近い。
物置のような建物の横を過ぎるとすぐに舗装道に出て山道が終わった。
上葛川の民宿へは左に向かう。
歩いている途中で振り返ると玉置山北峰に立つアンテナ鉄塔が見えた。

  山深い十津川谷からさらに山ひとつ越えた山中にある上葛川は、戦いに敗れた武者が隠れるには格好の地形に囲まれた奥山の集落だ。
奇妙なことに、そこにある一軒宿の民宿は、"浦島" という名だ。

  過疎化が進み、住民の平均年齢は70歳台だというが、道端には草花が植えられ、人家の佇まいも風格があって美しく好ましい山村だ。

  この夜、宿に泊まったのはただ一人だったが、バストイレつきの離れを宛がってくれ、ユックリ休む事ができた。

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月24日
<タイムレコード>
: 上葛川(8:45)-(8:55)上葛川口[9:19]=(十津川村営バス \520)=[9:46]田戸乗船場[10:40]=(瀞峡探勝船 \2370)=[11:25]志古[11:35]=(熊野交通バス \1050)=[12:10]新宮駅[13:03]=(南紀#6 \6440+指1720)=[16:17]名古屋[16:57]=(ヒカリ#378 指3140)=[18:26]新横浜[18:33]=[18:47]長津田[18:51]=(\210)=[19:10]宮崎台
葛川谷が北山川の瀞八丁に出合う田戸に行き、ウオータジェット観光船に便乗してちょっぴり観光したあと、志古でバスに乗り継いで新宮に出る帰路を選んだ。

  9:19に上葛川口で乗った十津川村営バスは小形ながら綺麗なボディだった。(左)

  乗り込んだときはオバァサンが一人いたがすぐに降り、そのあとは "貸切" になった。
ドライバーと話しながら進んだが話題の中心は林業/山林の復活だった。
  宿の女将さんが連絡していてくれたお陰で田戸に着くとすぐに案内所のおばさんが出てきて瀞の観光マップをくれ、観光船乗り場を案内してくれた。
観光船乗り場に降りてゆく途中、地理の教科書で見た通りの峡谷が見えた。(左)

  観光船は100人くらい乗れるウオータジェットボートだ。
水中翼も備えているようで高速で旋回する時には内傾する。

少し上流にある上瀞まで遡った。

  山は険しいし、川はこの通りだから、この奥の下北山村、上北山村が中央の権力が及ばぬ別天地だったったのは当然だと思った。

  上瀞で反転した船は、瀞八丁を経て十津川との出合に向かう。
北山川は、全体的には南西に向かって流下しているのだが屈曲が激しく、何度か北向きに流れる所がある程だ。

   所々で谷が開けて、近くの山が見えるのだが、船の方向がグルグル変わるため、どれが何山なのか、ほとんど同定できない。

十津川と合流して川の名が新宮川と変わった所から約2.5Km ほどで志古の終点に着く。

  観光バスやマイカーで来た観光客はここから瀞峡の観光船で往復するのだが、こちらは片道で、ここから新宮行きのバスに乗り継いで帰ることになる。

新宮駅での待ち時間を利用して徐福公園の門をデジカメで写し、駅前の寿司屋で車中で食べる分と、家への土産との両方で、大量の秋刀魚寿司と昆布寿司を買った。
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☆おわりに
        四回の山行で大峰奥駈道の全域をほぼカバーできた。
ここ数年に歩いた中では、裏銀座、飯豊、朝日、栂海新道と並ぶ大型縦走だった。
静かで豊かな森の中で幾日かを過ごし、日本人のメンタリティーのルーツの在り処を感得できたような気がする。
山間に住む純朴な人達の好意がありがたかった。
山中で出遭った人達が、なべて温和、謙虚で、アルプスなどで時々見かけるガリガリ、ガツガツ人種が居なかったのが良かった。

  さし当たって次の目標は、奥駈道に残っている行者還岳から大普賢岳までの未踏部分と、奥駈道からは外れているが、最初の大峰山行の時に泊まってお世話になった洞川の赤井家が経営している小屋のある稲村ヶ岳だ。
そのあとは、山道が静かになる季節を選んで、熊野古道の所々も訪ねてみようと思っている。