四寸岩山-大天井ヶ岳-山上ヶ岳-大普賢岳縦走(2004.9.1-4)


☆期日/山行形式: 2004.9.1-4 避難小屋、宿坊、山小屋利用 単独


☆地形図(2万5千分1): 吉野山(和歌山2号-4)、新子(和歌山2号-2)、洞川(和歌山3号-1)、
                                    弥山(和歌山3号-2)

☆あらまし
  昨年の秋、大峰の峻険な頂稜と深く刻み込まれた谷に惹かれたのが契機となって今年の5月下旬に新緑の大峰を訪れ、弥山から釈迦ヶ岳までを歩いた。
吉野から前鬼を繋ぐ大峰奥駈道の南半分だったが意外に歩く者が少ないらしく山が荒れていないのが良かった。  国内最高の年間降水量と温暖な気候が育んだ豊潤な森の美しさが印象に残った。

  南半分のトレースができれば当然、残りの北半分も歩いてみたくなる。
盛夏の酷暑が和らぐのを待って、吉野山から山上ヶ岳を経て行者還岳までを歩きに行くことにした。
台風通過後の好天を当てこんで日程を定めたのだが、前回の志賀高原と同じ結果となって小雨や霧のパッとしない日が続いた。
山は天気が良くないと楽しみが少なく、より多くの忍耐が求められる。
歳のせいで、頑張って歩き通す気力が弱っているし、疲れやすくもなっている。
はるばる出かけていって4日も掛けたのに、四寸岩山-大天井ヶ岳-山上ヶ岳-大普賢岳-和佐又を歩いただけで終わる結果となり、大普賢岳から行者還岳の間のトレースが今後の宿題となった。


大普賢岳の頂上に上がると神童子谷を埋めている霧の中に稲村ヶ岳が浮かんでいた


  吉野から五番関までの間は、尾根通しの吉野古道、捲き道の多い奥駈道、山腹を縫っている林道の三者が近寄ったり離れたりしながら通じていた。
その間にある主なピークは四寸岩山と大天井ヶ岳だがいずれも人工林に囲まれ、静かなのが取り得という位の地味な山だった。

  五番関で女人結界門をくぐって進み、小天井岳、蛇腹を過ぎて洞辻茶屋まで進むと急に人跡が濃くなる。

  山上ヶ岳への登路は、所どころに露岩の難場があってその一部は行者の道場になっている。
特にダラスケ茶屋から山上ヶ岳頂上までの間は、千数百年に及ぶ信仰登山の遺跡が集積し、ほかに例がないほど多くの人工物が見られる。

  山上ヶ岳頂上の大峰山寺では、大峰奥駈道・熊野古道が世界遺産として公認されたのを記念した特別ご開帳を行なっていて、本尊蔵王権現像を見ることができた。
ご開帳は通例25年毎だというから貴重な幸運にめぐり合えたことになる。

  山上ヶ岳以南の奥駈道は、随所に弥山以南と同じような美しい森があった。
大普賢岳から和佐叉への下降路は難場が連続すると聞いていたので恐る恐る踏み込んだが、過剰なくらいまで整備が行き届いて鉄梯子と鎖が完備し、人工物の中を歩かされているような感覚さえあった。

  和佐叉ヒュッテは、昨秋大台ケ原に向うバスから見て一度は訪ねてみたいと思っていた小屋だった。
小屋に降り着いたのは正午過ぎだった。
十分その日のうちに帰宅できる時間だったのだが、山上の別天地と言っても誇張ではない素晴らしいロケーションに建っている小屋の魅力に負けて予定外の宿泊をする事にした。

  計画の一部はギブアップしたのに日数だけは一日余分に掛けるという、最近増えた "低効率山行" の例をもうひとつ加える事となったが、千数百年もの間、豊かな自然の中で実践されてきた山岳信仰の歴史に触れ、美しい森の中を流れている空気に浸って、充実感のある山歩きだった。



☆行動記録とルートの状況


9月1日
<タイムレコード>

    宮崎台[6:38]=[6:44]あざみ野[6:48]=[7:05]新横浜[7:32]=(ノゾミ#101)=[9:34]京都[9:45]=(近鉄特急樫原神宮行)=[10:35]樫原神宮[10:47]=(近鉄特急乗継ぎ)=[11:23]吉野神宮=(タクシー約11Km \4730)=五十丁茶屋付近の奥駈道入口(12:00/20)-新茶屋跡/黒滝道出合(13:05/15)-薊岳/吉野古道出合-四寸岩山(13:40/50)-足摺宿/奥駈道出合(14:05)-吉野大峰林道(14:15)-(14:55)ニ蔵小屋 {無人避難小屋}

    大峰への山行も三度目となって、長途ながらいくらかは勝手の分かったアプローチとなった。
しかし、家から掛けて京都まで来ても時間的にはまだ半分ほどという事だから、随分遠い山であることに変わりはない。
  橿原神宮前で吉野線に乗り継ぎ、明日香を過ぎるとようやく山地になる。
吉野川はまだ水が濁っていた。
台風が通り過ぎて丸2日経っているのだから相当の雨が降ったと言うことなのだろう。


  吉野神宮駅でタクシーに乗り継いだ。
桜の時期には全国から花見客が押し寄せる有名観光地ゆえ、ドライバーも客あしらいがうまい。
  折角吉野から入山するのだから蔵王堂に立ち寄って行くことにした。
  大峰の里宮にあたる大伽藍で、現存する建物は建立されてから四百年あまり、堂々とした威厳のある建物だった。
大きさと古さとでは奈良の東大寺大佛堂と並ぶ我が国の代表的な木造建築だと言う。
 
面白いと思ったのは普通の里宮と違って建物が奥宮にあたる山上ヶ岳の方を向いていることだった。


  奥千本口バス停のある金峰神社から歩き出す積りでいたが、タクシードライバーは、皆もう少し先にある登り口まで行ってから歩き出していますよ、と言った。
"郷に入ったら郷に従え" の例えに従い、そこまで行ってみる事にした。

  青根ヶ峰の東肩を回りこんでひと走りした所に左のような手摺の付いた階段があり、入口に道標が立っていた。

 
 入口で支度を整え、階段を登って行くとすぐに奥駈道に入った(左)。
すぐ下を通っている車道が時どき樹木の間にチラチラ見えるほど近いのだが車が走って来ないので至って静かだ。

  この辺りはまだ山が低く、標高が1000m あるかどうかいう程度だ。
まだ暑いのではないかと心配していたが、薄雲が広がって日差しが弱いのと周りの森の濃密な稙生のためか、意外に涼しい。

 山の西側の斜面を緩やかに捲き登って行くと五十丁茶屋跡があった。
そのすぐ先で薊岳頂上から西に派生する尾根に乗った所が新茶屋跡だ。
柏原山から薊岳に上ってくる尾根道と奥駈道とが十字に交わっている。
左折して杉林の中の踏跡を登って行くと薊岳の頂上に着き、そこで右折するとすぐ、尾根通しに登って来た吉野古道に合流する(下左)。
合流点には、下のような吉野古道探索隊の看板が掲げてある(下右)。

 緩やかな尾根道を進んで行くと右下の斜面が伐採された所に出て西方への視界が開ける。

はじめて見る吉野山域前衛の山並みだが、雲が多くて見える範囲は限られている。

  ひと登りで四寸岩山に着いた(左)。
あまりパッとしない頂上だが今日の行程の最高地点だ。
三角点標石といくつもの登頂記念プレートがある。

  タクシーで "下駄を履いた" せいもあって時間の余裕があるのでゆっくり長休みをした。

 頂上の南側に入り、密生した人工林の間を進んで行くと参篭小屋のある足摺宿跡に着く。
こじんまりした小屋だが割に新しい建物のように見えた。

  奥駈道は小屋の屋根の下の土間を通り抜けるようになっている。
通りすがりに戸口の中を覗いて見ると祈祷と休憩の造作がしてあった。

 ルートの両側の森が濶葉樹に変わった。
今時新緑の雰囲気になっているのは木の種類のせいだろうか?

 足摺宿から僅かで車道に出る。
吉野の方から延びてきた林道がここで主稜を乗越し、山の東側の川上村へ下って行く。
100m 足らず舗装の上を歩くと右に分岐している歩道の入口があった。
  杉と檜の薄暗い人工林の中のダラダラ登りになったが、すぐに二蔵小屋に着くかと思ったのは間違いで、意外に長く掛かった。
  二蔵小屋は杉林に囲まれた台地にあるこじんまりした避難小屋だが、建物はまだ新しい。
一階は真中に達磨ストーブを据えた広い板張りの床。 ストーブの上の吹き抜けを中二階のテラスが囲んでいる。

  掃除がやや不完全で汚れがこびり付いている所もあったが全体としては奇麗に使われていて居住性は良い。
トイレは樹脂製の仮設ボックスが小屋の外にある。
水場は小屋の先を10分程、ほぼ水平に行った所にある沢溝で、豊富な水がパイプから流れ出していた。

  この頃はテントを背負うのが辛くなっせいで無人小屋泊まりが多くなっが、それぞれの建て方がその土地の気候を反映しているのが面白い。
 
日が落ちてから雨が降り出した。
トタン屋根に当る音が強弱を繰り返している雨の降り方を知らせてくれた。



9月2日
<タイムレコード>
   ニ蔵小屋(7:30)-小休止(8:20/25)-大天井ヶ岳(8:55/9:05)-五番関(9:55/10:15)-鍋カツギ行者(10:45)-蛇腹山腹入口(11:25/30)-蛇腹上(11:45)-洞辻茶屋(12:10/45)-喜蔵院宿坊(13:50/14:30)-山上ヶ岳(14:40/15:00)-(15:10)喜蔵院宿坊


  明るくなる頃目が覚めたが相変わらず屋根に雨粒が当る音がしている。
簾の子状の屋根板の上にトタンが張ってあるだけのため、実態以上に大きな音がするのだが、山上ヶ岳まで行くだけで時間的な余裕があるので雨脚が弱まるのを待ってみることにした。
コーヒを飲んだり柿の葉寿司やワンタンメンを食べたりしながら愚図愚図していたらいくらか空が明るくなり、降りが弱くなって来た。
する事もないのに一人で小屋にいても退屈なので思い切って外に出た。

  小屋の前庭が尽きる所で大天上ヶ岳の東側山腹を捲いて行く奥駈道と尾根通しで頂上を越して行く吉野古道が分岐しているが、当然、尾根道に上がる。

  相変わらずの杉と檜の混植人工林の中を緩やかに登って行く。
木が雨脚を遮ってくれるのはありがたいのだが暗くて陰気なのは嬉しくない。
  やや急に登る所で振り返って見たら、雨雲の中に昨日越してきた四寸岩山が立っていた。
大した時間歩いてはいないのだが結構遠くに見える。

  モノレールと合流した所からひと登りの切り開きに祠があった。
モノレール沿いに登りつづけ、かなり急な所を登り上げると大天上ヶ岳の頂上にでる。

  一部切り開かれた所もあるのだが相変わらずの小雨模様で霧が立ちこめ、何も見えない。

  ひと休みしながら三角点標石と頂上標識との写真を撮って先に進む。

  尾根がいくらか痩せてきて岩交じりになったりするが特に注意を要するような所もないままドンドン進んで行くとやや急な下りになった。

  木と霧のため周りの様子がよく分からないままに下り続けいていると唐突な感じで五番関の広場に飛び出した。
広場の向かい側には女人結界の門があり、その手前の右側に洞川へ下る道が分かれている。
門の後には右手の山稜に上がる吉野古道と、左の山腹を進む奥駈道の分岐がある。
  ひと休みしたあと左手の奥駈道に入った。
鎖のついた露岩のトラバースを含め、やや岩っぽい感じで小天井ヶ岳を捲いて行くと緩やかな尾根に乗る。

 
 まわりがいかにも大峰らしい繁茂した暖帯林に変わる。
あたりに霧が立ちこめ、なかなかの風情だ。
暫くのあいだ気分良く歩いて行ったが勝負塚山から上がってくる尾根をあわせ右にカーブした先で急に尾根が痩せてきた。
やがて右手の山腹に入って行くところに差し掛かった。
  間もなく今日一番の難場の蛇腹だと思ったので、入口にザックを下ろして小休止した。
  蛇腹では長い岩場を斜上する。
雨で濡れてはいても岩が硬くてシッカリしていたし、何本もロープが取り付けてあったので何も難しい所はなく、むしろ急ぎすぎて息が上がらぬよう気を付ける方が重要だった。

  蛇腹を過ぎるとまた穏やかな尾根道に戻る。
三つの小ピークを越して行けば洞辻茶屋なのだが霧ション状態の中を歩きつづけていると現在位置があやふやになり、まだかまだかと言う感じで意外に長く感じた。

  道が左に緩くまわって明るい疎林になると間もなく洞辻茶屋だった。
奥駈道に被さるように建てられた大きな建物で、真中を通り抜けている道の両脇がお店や休憩場所になっている。
お店は閉まっていたので休憩台の上にザックを下ろし、持っていた物を飲み食いしながら長休みをした。

 ここから先は洞川から登り降りする人が多く、休んでいる間に一人が頂上の方から、別の一人洞川の方からやって来た。
いずれも熟年男で、街着に簡単な雨具と言う程度の軽装だった。

  ダラスケ茶屋の先で道が分かれる。
天気が悪くなければ左手に進んで鐘懸岩を登ってみたいところだったが相変わらず霧ション状態なので右手の階段道に進み、傘を広げたり窄めたりしながら登った。

 階段が終わった所にお亀石がある。
石像の下に、みだりに石に近付かぬよう戒めた歌を記した看板が立っていた。

 山と天気は回り合わせがあるようで、去年の10月に山上ヶ岳に登ったときも同じような雨模様だった。

  濡れた露岩でスリップせぬよう気を着けながら登って行くと宿坊の入口に着いた。
宿泊予定の喜蔵院は4棟並んでいる宿坊の一番上手だった。

  左は向かい合わせた隣の宿坊だが険阻な山の中に何棟もの大きな建物が並んでいるのは驚きだ。
盛期が終わっているせいだろうか、この夜はほかに泊る者がなく二階の大きな部屋を独り占めさせてもらえることとなった。

 ひと休みしたあと、宿坊の管理人の薦めに従って頂上の蔵王権現堂に行ってみた。

途中に立っていた山門は簡素な造りながら威厳を感じさせるものだった。


  昨年秋に来たときは秋雨の中に大きな建物が立ち並んでいるのに全く人気がないのが不気味だったが、今度は戸口が開いていて中から読経の声が聞こえていた。
  最近、大峰・熊野が世界遺産に加えられたことを記念して通例25年に一回の本尊ご開帳が特別に行なわれていた。

  線香を上げて山の安全をお祈りしたあと、あらためて祭壇の奥の本尊を見る。
一方の腕を振り上げ、もう一方は振り下げた独特のポーズをとっていた。
深い宗教的な意味があるのだろうが、一種の威嚇の姿勢ではないかと思った。

 一段上のお花畑に行ってみた。
去年はビショビショの雨の中だったがまわりの山が見えていた。
今度は降ってこそいないが霧が濃くて、すぐ近くの樹木が見えたり隠れたりしている。
広い平坦地だが、一面姫笹に被われているからあまり花は咲かないかもしれない。

  ブラブラ歩いていたらレンゲ峠の方から熟年登山者が上がってきた。
デイパックの軽装ではないからどこかに泊るのだろう。

  楽しみだった展望がほとんど得られなかったのに、ガッカリしながら本堂前に戻り、大普賢岳方面への入口を確認したあと宿坊に戻った。
玄関のすぐ上の道から北東の方向に視界が開け、雲の切れ間に山の姿が見えていた。
外に出ていた管理人に聞いたら遠くに見える形の良いピラミダルなピークは高見山だと教えてくれた。

  この宿坊では、思い掛けなく風呂に入れた。
夕食も、笹蒲鉾などを用意していったので精進料理とともに美味しく食べられた。



月3日
<タイムレコード>
   喜蔵院宿坊(6:00)-山上ヶ岳(6:10/20)-小笹宿(7:05/15)-阿弥陀ヶ森/柏木分岐(7:55/8:00)-小普賢岳(9:05)-R(8:40/50)-和佐又下降点/大普賢岳入口(9:20)-大普賢岳(9:30/40)-和佐又下降点/大普賢岳入口(9:45/55)-小普賢岳1640m(10:25/30)-石ノ鼻(10:40)-鷲ノ窟(11:00/10)-笙ノ窟-朝日窟-和佐又山のコル(11:50)-(12:10)和佐又ヒュッテ{\6500}


 山に入って三日目ともなると体内時計は完全に "山モード" に切り替わってしまい、夜明とともに目が覚めるようになる。
  今の所は青空が広がっているが、昨夜の天気予報はあまり芳しいものではなかった。
午後からは曇り、遅くなって雨という事だったので、行者還岳から大川口に降りて天川川合に行くのは諦め、大普賢岳から和佐又に降りるよう計画を変更し、川合のタクシーの予約はしなかった。
  朝食はどう転んでも良いよう、5時に頼んでおいたが、削り節と醤油の "猫飯" にして美味しく食べた。

  蔵王堂ではすでに朝のお勤めが終わったあとの様で、庫裏では電気掃除機の音がしていた。

 "柏木方面" と記した道標が立っている所が今日のルートの始まりだ。
緩やかな山稜のうねりの先に大普賢岳の頂上が見えている。
大台ケ原の方から見た姿は非常に峻険だが、こちらからは至って穏やかで丸みのある三角形のピークに見える。

 山上ヶ岳からの下りには少々ザレたような所もあったが間もなく穏やかな頂稜に乗った。
山の北側に比べて路傍の人工物が減り、かなり山っぽい雰囲気になる。

  奇麗な森が続いた(左)。
旺盛な自然が作り出した大峰特有のものだ。

  地蔵岳の頂上を右に回りこみ、柏木への下降路を左に分けて下って行った先に小笹ノ宿があった。
濃密な樹木に被われた沢窪を豊富な水が流れ、その脇に祈祷所とこじんまりした小屋がある(左)。

小屋の中に人がいた。
覗いてみると昨日お花畑で見た顔だった。
「昨日お花畑に遭いましたね。 どちらから来られましたか?」と聞いたら、京都からだという。
5月に深仙ノ宿の避難小屋で一緒になった若者も京都からだった。
手頃な距離で、登り応えも十分だから京浜地区からの丹沢と同様に親しまれているのではないかと思った。

  小笹ノ宿から阿弥陀ガ森の間も濃密な自然林が続く。

  阿弥陀ガ森の肩を乗越し、柏木へのルートを分けて右手に下り始めようとする所に女人結界門があり、五番関と同様、そのことを和英両文で告げる看板が立っていた(下左と右)。

 緩く下って行って脇宿跡から明王ヶ岳を越すと前方に小普賢岳が姿を現した。
稜線の左、和佐又側が絶壁になっているが霧が充満していて下の方が全く見えない。

 小普賢岳を越し、大普賢岳の登りに掛かる手前の鞍部は穏やかで美しい場所だった。

  稜線の右側の地形は思った以上に温和で、これまでと同じような自然林が続く。
シャクナゲが増えてきた。
時期に来れば素晴らしい花見ができるだろう。


  ルートが稜線の上に乗った所で行く手が三つに分かれる。
左手は和佐又への下降路、真中が大普賢岳頂上、右手の山腹に入ってゆくのは大普賢頂上を捲いて行者還岳方面に行く捲き道だ。

  分岐点にザックを置いて大普賢岳頂上に向う。
緩やかな登りを10分足らずで開けた頂上広場に着いた。

  和佐又側は霧が立ちこめ全く何も見えないが、北の方は冒頭見出し写真のように、稲村ヶ岳から山上ヶ岳を経て、今日歩いてきた地蔵岳、阿弥陀ガ森あたりまでが見えている。

  あこがれていた頂上で暫く休憩したあと分岐点に戻った。

 和佐又への下降路は資料に記されている通り、厳しい地形の中を縫っている。

  ただし、難場にはすべて鉄階段と鎖が設けられ、その間の道も十分な幅に整備されている。
むしろ歩かされている感じがしたほどだった。

  積雪期に凍結でもしていればともかく、よほどの不注意でもない限り、問題なく歩ける状態だったが、あとで見た何かのガイド資料に、この様にルートが整備されたらかえって事故が増えたと記されてあって、そんな事もありそうだなぁ、と思った。
 それなりに注意を払って難場を下り続けて行くと日本岳のコルに降り着き、ひと息入れる事ができる。
向かい側の急な斜面を上り上げて行くと小普賢岳肩の乗越に着く。
難場の下りと急登で疲れたのでひと休み。

  さらに鉄梯子や金属桟道を通って下りつづけると石の鼻に着く。
大普賢岳下降路随一の展望点と聞いていたがまわりは濃密な霧が立ちこめ、何も見えない。

  ここから先、ルートは次第に歩きやくなる。
鷲の窟(イワヤ)を過ぎると間もなく笙の窟だ。
大岩壁の基部にある大きな岩室に不動明王が祭ってある(左)。


  さらに幾つかの岩屋の前を過ぎて行くと右手に曲り、美しい自然林の中の穏やかな道になる。
緊張感から解放されてノンビリ下って行くと和佐又山のコルのベンチと道標が見えてきた。




  左に折れてひと下りで広広した台地に降り着いた。
大普賢岳を背景に幾つかの歌碑が立ち並んでいる景勝地だが霧が多くて展望はパッとしない(下左)。

  右手に砂利道を進むとすぐに舗装道になり、廃屋になった陽気ヒュッテの脇を過ぎると和佐又ヒュッテだった。
  大きな小屋だが広広した草原に面して建っている様子がなんとも良い感じだった。
風呂で汗を流し、蕎麦でも食べて帰ろうかという積りで立ち寄ったのだがこんな良い小屋にひと晩泊らない手はないと思った。
  花の手入れをしていたおばさんに聞いてみたらシャワーしかないし、大したご馳走も出せないがそれでもよかったら泊まってくれという返事だった。


 持っていたパンやチーズを食べてお昼にしたあとシャワーでサッパリし、前庭の橡の木の下でコーヒを淹れる。
天気は大分良くなってきて谷向かいの大台ケ原続きの稜線が見えてきた。
草原に寝転んでチビチビとコーヒ啜りながら空と山を眺め、暫くの間、最高に幸せな気分になった。

  この夜、そろそろ寝ようかという時間に、姫路から瀞八丁下り観光に来たという熟年二人組が入ってきたが大きな小屋に泊り客はそれだけで、至って静かな泊りだった。

月4日
<タイムレコード>
   和佐又ヒュッテ(6:55)-(7:50)和佐又口[8:21 \670]=(奈良交通バス)=[9:59]湯盛杉ノ湯[9:06 \1040]=(奈交バス乗継ぎ)=[10:54]大和八木駅[11:21 \3520]=(近鉄特急)=[12:12]伊勢中川[12:14]=(近鉄乗継ぎ)=[13:15]名古屋[13:47 \5460+3980]=(ノゾミ#12)=[15:10]新横浜[15:14]=[15:26]長津田[15:32 \210]=[15:52]宮崎台


  早い時間に目が覚めた。
和佐又口バス停まで1時間弱なので時間の余裕はたっぷりある。
朝食は握飯にしてくれるよう頼んであったので、コーヒでパンやチーズを食べたあと、小屋の周りを散歩して時間を潰す。
土曜日のため、何台か車が上がってきたが昨日より天気が悪いから山の上は多分、霧ション状態だろう。

  バス停まで車道を下った。  非常に急な坂道だった。
谷底に降りついて暫くすると左のようなトイレが見てきて、間もなく国道169号線に出た。

 吉野と熊野をつなぐトンネルの入口で頻繁に車が往来している(左)。

  南に向かえば上北山村で、五月に前鬼から出てきて泊った下北山村も遠くはない。

  バスはほぼ定刻に来た。
トンネルと、急カーブの連続する山岳道路で、こんな山奥によくも通した物だと呆れる程だった。
延々走って、湯盛杉ノ湯で八木行きに乗り継いだが、そこから吉野に出るまでの谷もこれまで見た事がないくらい急峻だった。

  吉野川谷が開けてきた所にある大淀で右折して北に向かい、低い峠をひとつ越えるとすぐに明日香だった。
5月に泊った橿原神宮前を通り抜け、大和八木駅までは思っていたよりずっと近かった。

  八木駅前で柿の葉寿司と葛餅を買って家への手土産にし、近鉄名古屋線から新幹線を乗り継いで午後遅く帰宅した。



☆おわりに
    台風一過後の天気があまりパッとしなかった事がひとつの要因となって、大普賢岳から行者還岳までの間がトレースできず、次の機会の宿題になってしまったが、その代りに一度は歩いてみたいと思っていた大普賢岳から和佐又へのルートを踏む事ができたし、素晴らしい環境にある和佐又ヒュッテに泊る事もできて、マズマズの山行となった。

  それにしても吉野の山と谷の険しさには驚いた。
大和の国の都があった奈良盆地、特にその南部の飛鳥から低い山をひとつ越せば吉野川谷に入る。
都から僅か一日で到達できる至近位置に我が国有数の峻岳険谷が折り重なる山岳地帯が広がっている訳で、都の周辺での戦に利あらずと見たら南に向えば簡単に山の中に逃れる事ができる。
山岳ゲリラ戦を展開するには理想的な地形だし、もし追及の手が伸びてきたばあいは、山と谷を繋いで南下を続け、熊野に抜けることができるし、さらに海路によって他所の土地に逃れる事さえ可能だ。

  一見、穏やかな地形の奈良盆地に置かれた都だけを見れば、いかにも平和なように思われるが、古人達の考えはそんなに単純なものではなく、権力を争う戦いの場としてのロケーションを慎重に選んだであろうことは想像に難くない。