南大峰、上葛川-玉置山-五大尊岳-七越峰-熊野大社
(2004.11.3-6)


☆期日:
2004.11.3-6 [11/5 太陽=6:07-16:42; 月=22.0]
☆山行形式:  民宿・宿坊・旅館利用、単独 3泊4日
☆地形図(2万5千分1): 十津川温泉(田辺1号-3)、伏拝(田辺1号-4)、本宮(田辺2号-3)

☆まえがき
    大峰奥駆道は、我が国最古の縦走ルートだ。
昨秋、大峰山脈の一端に触れてその峻険な頂稜と深い峡谷に魅せられ、今年の5月と9月と、2回の山行で吉野から前鬼に至る、いわゆる北奥駆道のあらかたを歩いた。

  吉野から熊野へ広がっている山域の概略のイメージが頭の中にできてくると、俄然、前鬼から熊野本宮大社に至る "南奥駈道" に対する関心が強くなった。
  北奥駆道に比べれば標高が下がり、大きな登降もなくなってくるのだが、釈迦ヶ岳南方の太古の辻から笠捨山、玉置山、五大尊岳、七越峰を経て熊野本宮まで、20万分1地形図に定規を当てて見ると、おおよそ36Kmあまりもある。
  大峰の行者は、ここを通例3日で歩き切ることになっているようなのだが、消化器官に問題を抱えている年寄りの遊山ではそんなに頑張る積りはない。
南奥駈道をまん中でふたつに区切り、2回に分けてトレースすることにした。

  南側と北側と、どちらを先に歩くかの選択は、季節を考慮して行った。
秋も深まったこの時期、たとえ標高が低くても、山の上に泊まれば朝方はかなり冷え込む。
南奥駈道北半分を歩くには最低1泊は山上で幕営ないし避難小屋宿泊りをしなければならないが南半分なら全行程の中程にある玉置山の宿坊に泊めてもらうことができる。
この秋はまずこちら側をトレースし、残る半分は来年の新緑の季節の楽しみに取って置く事とした。

(写真をクリックすると拡大します)
玉置山展望台から西を望む。  十津川谷の向うに奥高野から果無の山々が連なる。
真田幸村親子の根城だった九度山もこのスカイラインの背後の筈だ。
パノラマ撮影した展望台に戻る

  行動計画は、あらまし次のようなものとした。
まず初日は、新幹線京都から近鉄特急で大和八木駅まで行って奈良交通新宮行き特急バスに乗り継ぎ、大和高田、五條から南下、天辻峠を越して十津川谷に入る。
十津川村役場に着いたら宿の迎え車に乗り継ぎ、笠捨山南西麓の上葛川まで入って、"民宿浦島" に宿泊。
   2日目は上葛川口(490)から塔ノ谷を詰め、貝吹金剛(905)に上がって南奥駆道に合流。
岩ノ口(660)、花折塚(952)を経て玉置山(1076.4)に登頂。 玉置神社に参詣したあと境内の宿坊に宿泊。
  3日目は、玉置辻(750)から旧篠尾辻(955)、大森山(1078)、同三角点峰(=大水の森 1044.9)、篠尾辻(835)を経て五大尊岳(825)に登頂。
金剛多和(445)、大黒天神岳(573.6)、山在峠(205)を経て吹越権現(250)まで歩いたら携帯でタクシーを呼んで山麓に下り、熊野萩の "旅館まつみや" に宿泊。
  4日目は徒歩あるいはタクシーで吹越権現(250)に戻り、吹越峠(300)から七越峯(262)を経て尾根末端までトレ−ス。  備崎橋(55)を渡り、熊野本宮に参詣して全行程を終了。
午後のバスで新宮に出てJR紀勢線特急に乗り、名古屋で新幹線に乗り継いで帰ろうというものだった。

  今年は夏以来雨に祟られ通しだったが、ようやく悪い回り合わせから解放されたようで、久し振りに快晴続きに恵まれた。
どの泊まり場も居心地がよかった。
お蔭で楽しく行程を消化し、熊野本宮大社への参詣で山行を完結した。

  おまけに、新宮では列車の待ち時間を利用して早玉大社と徐福の墓を訪ねることもできた。
順調に歩けた山からの帰途の、望外の余禄だった。

  山行を積み重ねる事によって頭の中に大和、吉野、熊野一帯の地理のイメージができた。
山上と山麓に残されている様ざまな歴史遺産に触れたことで、この山域と我が国の古代、中世史との深い関わりに対するリアルな理解が進み、これまでの多くの山行とは、ひと味もふた味も違う、"歴史山歩" とでもいうべきユニークなスタイルの山旅ができた。


☆行動記録とルートの状況
11月3日
<タイムレコード>

    宮崎台[6:41]=あざみ野=新横浜[7:32]=(ノゾミ#101)=[9:34]京都[9:45]=(近鉄特急#915橿原神宮前行)=[10:30]大和八木[10:58]=(奈良交通新宮行特急バス \3150)=[14:50]十津川村役場[14:55]=(民宿送迎車)=[15:25]上葛川口{民宿浦島 二食付 \7000}

    人に薦められて "ジパングクラブ" と言うJR東日本の年寄ディスカウントメンバーシップに加入した。
初日往路の "のぞみ" 特急券だけはディスカウントの対象外だったが、それでも往復合わせて年会費の2倍近くもの割引額になった。
   繰り返し通ったお蔭で京都での乗り継ぎの要領が分かり、10分もあれば楽勝という感じだったのだが、秋の旅行シーズンの休日とあって近鉄特急券売り場に手間の掛かる客が多く詰め掛け、ホームに出られたのは、間もなく発車という時間だった
  大和八木のバス乗り場も9月に大普賢岳からの帰りに通っているので様子が分かっている。
待合室の手前にある "平宗" で吉野名物柿の葉寿司のパックを買って車中の弁当にした。
ここから新宮まで、延々6時間半ものロングルートを走るバスが毎日3便運行されている。
11時近くの便は8人ほどの客を乗せて発車したが、その大部分は 観光旅行者で、それ以外は近在の母と子二人、ほかに山支度はいなかった。

  バスはまず西走して大和高田市へ。
そこで左折して南に向かい、御所市を経て吉野川谷の五條市バスセンターまで走ったところで10分程休憩する(左)。

  五條の町外れで吉野川の南岸に渡ったあと、丹生川谷に入って西吉野の山中に分け入る。
  谷を遡ってゆくと急激に地勢が険しくなるのは吉野山地のパターンだ。
谷の詰めの急峻な斜面をUターンを繰り返して登り、最後は天辻峠の下に穿たれたトンネルに入る。
  トンネルを抜け、大塔村に入ってすぐの道端に "天誅組本陣跡" と記した標柱が立っていた。
明治維新の魁となった武装蜂起の史跡だ。

  十津川の険阻な谷は何段ものダムで区切られているが所々にある猫の額のような緩傾斜地には決まって集落がある。
こんな辺鄙な所でどうやって暮らしていたのだろうか?、と思う。

  延々谷間の道路を走って十津川村に入り、さらにかなり下った河岸段丘の上に上野地集落があった。
ここでは20分間の休憩があったので、すぐ近くの大吊橋を見に行った。
バスが停まっていて大勢の観光客がいた(左)。

  ほぼ定刻に十津川役場前に着いた。
八木駅から約4時間掛かったことになる。

  宿からの迎えは3時半頃にと連絡してあったので、役場に隣接した歴史展示館を覗いてみようと歩きかけたら道の向側でクラクションが鳴った。
バスの時間に合わせて迎えに出たらしい。
運転のオジイさんは耳の手術をしたとかで耳が遠く、捗々しい会話はできなかったが、谷間の道を30分ほども掛かってトンネルを抜け、ようやく大峰山脈の裏側にある上葛川の民宿 "浦島" に着いた(左)。

  上葛川は、まわりをグルリと山に囲まれた谷間の段丘上にある20軒ほどの集落だ。
落ち武者が隠れ住むのにお誂え向きの場所だ。
  
  奥山にあるのに "浦島" という民宿の名は妙だなぁ、と思ったが建物も部屋も極く普通の山の民宿だった。  ご主人の名は尾中茂三さんといい、ちょっと珍しい苗字だ。
時間が早かったので集落の様子見を兼ねて登山口の偵察に出かけた。
塀を廻らせた大きな家が何軒もある。
スカッとした感じのする端正な形の門構えが目に付いた。
夕食に "シシ鍋" が出た。
シシ鍋は久し振りで前に食べた時の味を思い出せなかったが、少々硬めの豚肉のすき焼きと言った感じで、関西風のやや甘目の味付けになっていた。
この夜、ほかに客はなく、大きな部屋にひとりで寝た。

  明け方はかなり冷え込んだが重ねた靴下の間に挟んだホッカイロのお蔭で快適に熟睡し、気に掛けていた風邪の兆候も影をひそめた。

11
月4日
<タイムレコード>

    上葛川(7:40)-取付(7:50)-本道合流(8:20)-休憩(8:30/40)-貝吹金剛(9:20)-植物公園・上葛川分岐(10:00)-如意宝珠岳(10:20/30)-稚児森(10:50)-舗装車道(10:55/11:00)-休憩(11:35/12:00)-花折塚(12:25/35)-展望台(12:50/13:25)-カツエ坂入口(13:30/35)-玉置山(14:00/10)-(14:20/40)玉置神社{二食付 \5000}


  寒冷な移動性高気圧に被われ、冷涼清透な朝が来た。
前日に下見した登山口に行く途中、玉置山への頂稜が良く見えた。
遥か先の奥まった高みにアンテナの鉄塔らしいのが見えている。
玉置山の頂上はその奥にあるらしい。

  杉林の中から流れ出している沢の脇に民宿が立てた道標があり、その脇から踏跡に近い不明瞭な道形が林の中にのびていた。

  ルートは大量の杉の枝で被われていてかなり分かり難かった。
今年、何度か通過していった台風の風で吹き折られて落ちた枝なのだろう。
黒い引水ホースが良い道標になった。

  右手から枝沢が流れ込んでくるあたりはかなり荒れていてルートが分かり難くなる。
引水ホースもこのあたりの集水桶で終わる。

  左寄りに登って行くと古い屋敷跡と思われる石積があり、その左脇から本谷のゴーロに入ってひと登りした所に右岸の斜面を上がる踏跡がある。

  古いながら明瞭な道に合流した。
最近はともかく昔は良く踏まれていたに違いない道で、"上葛川へ" と記した白いプラスチックプレートが置いてあった(左)。

  ルートファインディングから解放され、気楽になって右岸の斜面を斜上してゆくと、やがて前方の林の間に青空が見えてきた。

  疎らな姫笹の間をひと登りして貝吹金剛の鞍部に登り着いた。
道標がいくつも立っていて、この鞍部が南奥駆道の重要なマイルストーンであることを示していたが、それらの中にひとつだけ "塔ノ谷峠" と記した物があった(左)。
  地元の人達にとってこの鞍部は、古野方面に出る時に越す "峠"だったと言う事のようだ。

  左折して玉置山方面に向う。
両側が杉の植林で暗くて展望も乏しいがルート自体は良く踏まれて歩きやすい(左)。

  右下の樹木の間から21世紀の森のある平坦地を見ると間もなく "古屋宿跡" の石標がある。
そのすぐ手前の所で上葛川から登ってきて尾根を乗越している道が奥駆道と交差している。

  如意宝珠岳(736)、稚児ノ森(709)を通過し、834m峰の東肩を捲いて行った所で舗装車道に出た。
これは "林道京ノ谷線" で、上葛川の入口にある葛川トンネル西口脇で分岐し、玉置辻の方へ繋がっているのだが分岐点のすぐ先が今年の台風で崩落し、車が通れなくなっている。

  前方に立っている花折塚と思われるピークに向って少し歩くとまた山道に戻る。

  何度か山道と舗装林道の間を出入りしながら進んで行くようになるが、どの出入口にも道標が立ち、それとならんで "世界遺産登録" の幟まで立っている。
さらに "熊と鉢合わせしないための注意事項" を記した立札まで立っている所が多い。

  分かりやすくしてあるのはありがたいのだが煩るさいなぁ、とも思う。

  天気、体調ともに上々だし、時間の余裕もたっぷりあるので道端に腰を下ろして長休みをしながら林檎やチーズを食べた。

  林道がカーブし、背後に笠捨山方面への視界が広がっている所があった。

  この辺は標高1500m に満たない程度の "低山" なのだが、低さに似合わない迫力のある姿の山が多い。
  国内最高の降雨量によって激しく侵食され、硬い岩盤が剥き出しになっているせいだろうか?

  花折塚への入口は少々トリッキィーだった。
稜線の東側に入り、やや急に登って砂利林道に出た。
鋭角に折返して30m ほど戻ると笹の間に道があって入口に "花折塚へ" と記した道標がある(左)。

  林道から僅か200m ほど進んだら花折塚だった。
後醍醐天皇の御世、熊野に難を逃れようとした皇太子: 大塔の宮に随き従ってここまで来たが玉置山勢の待ち伏せに遭って戦死した片岡八郎の墓所と刻んだ石碑が立っている(左)。
  花折塚から少し進んだ所でまた舗装林道に出た。
玉置山のアンテナが近くなった(左)。

  前方の小高い所に東屋が立っているのが見えてきた。
時々動いている影があって人が居るらしい。
  玉置山展望台と記した看板の脇から入ると、広場に郵便局の赤いミニバンが停めてあった。
  すぐ向うの一段高い所にある東屋で若い男が昼の弁当を食べていた。
  東屋の手摺に寄ると広大な展望が広がっていた。
歩いてきた方向には、地蔵岳、笠捨山から行仙岳、証誠無漏岳への稜線が連なり、その背後に釈迦ヶ岳の頂上が覗いている(下)。
   青年は瀞の郵便局の配達員で、玉置神社にはよく配達に上がって来るのだそうだ。
今日のように天気がよければ最高だが、嵐の日もあるし、特に冬は路面が凍結してかなり危険な状態になるという。

  釈迦ヶ岳頂上の銅像の事を聞かれたので、5月に弥山から苦労して釈迦ヶ岳に辿りつき、頂上で釈迦像に対面して感激したことを話した。
是非一度行ってみたいと思っているのだが何処から登れば良いだろうかと聞かれた。
咄嗟に頭に浮かんだので前鬼から往復したらどうかと言ったが、分かれたあとで、十津川谷の旭橋から分かれている旭川谷を車で遡り、太尾近くの登山口からピストンする楽なルートがあったのを思い出した。

玉置山展望台から望んだ大峰連山
(写真をクリックすると拡大します)

お昼を終わって青年が去ったあと、あらためてまわりを見回していたら東屋の屋根裏に釈迦ヶ岳の銅像を担ぎ上げた大正時代の強力の事を記した板が掲げてあるのに気がついた。
晴れた日にはここからも釈迦像が見えると書いてあった。
手摺に大形の双眼鏡が取り付けてあったのでそれを向けてみると確かに釈迦像らしい物が頂上に立っているのがわかった。

思わぬ時に思わぬ所で釈迦銅像に再会した事で、半年前の感激が蘇った。

  青年が置いていってくれた蜜柑を食べたり、中判カメラのフィルムを入れ換えたりしていたら熊鈴の音が聞こえてきた。
下の道を覗くと中年男が通り過ぎて行った。

  フィルム交換をしたカメラで、西北の九度山方面から西南の果無山脈への展望(ページトップのパノラマ展望写真)を撮影して長い休憩を終えた。

  車道に戻って僅か2、300m 進んだ所に北又谷展望台があった。
道端に京都ナンバーの車が2台止まり、その横のシートに車座に座ったファミリードライブの人達がお昼を食べていた。


  車道から左に2本の山道が分岐している。
右側の道に入って頂上に向う。
入口からすぐの所に立っていた石標は、正面に "カツエ坂"、側面に "餓え坂" と刻んであった。

  どんな史実があるのか、気になったので地元村役場に問い合わせたら早速返信メールが届いた。
  それによると、大峯山からの修験者がここを通り玉置山へ向かう際、この坂で空腹(かつえる)になり動けなくなったためといわれている、とのことだった。

  周囲が自然林になった(左)。
貝吹金剛からこの方、杉や檜の植林が多くて暗く、展望に乏しかった。
ここは、透明な大気を透過してきた日の光が射し込んで、カラリとした明るさに充ちている。

  道も玉置山の参道として整備されているようで至って歩きやすく、お散歩ムードになる。

  紅葉を期待してきたが、これはあて外れだった。
この夏に何度も通って行った台風の後遺症か、枝に止まって色付くより先に地面に落ちて枯葉色になってしまった葉の方が多い。

  緩やかな登坂を進んで行くとアンテナ鉄塔の脇に出た。
上葛川から見て目当てにしてきた鉄塔だ。

  そこを通り過ぎ、大木のシャクナゲ林の中を抜けると玉置山頂上広場だった。

  三角点標石、"玉置山/沖見岳" と刻んだ標石、それに "沖見地蔵尊" と記された地蔵堂がある。
南から東への視界が広がっている。
山並みの先は熊野灘の筈なのだが霞に覆われていて判然としない(下)。

  久し振りに好天に恵まれ、山歩きの幸せを味いながら長い休憩をした。
玉置山頂上から東南方向、熊野灘方面を望む。 左手前は宝冠ノ森
(写真をクリックすると拡大します)

  泊まり場のある玉置神社へは道標にしたがって広場の向側を左に入る。
露岩に刻まれた階段を下ってゆくと自然石を祀った三石社、次いで玉石を祀った玉石社がある。
後者は人が運び上げた玉石を敷いた物だが前者は大洋底に噴出した枕状溶岩だと言う。

  神武天皇が八咫烏に導かれてここに至って兵を休ませ、三石社の石の上に神宝を置いて勝利を祈ったと言い伝えられている。

  水場も近くにある。

  間もなく鳥居が見えてきて玉置神社の境内に入った(左)。

  一番頂上寄りに出雲大社の分社殿、その隣に三狐神(天狐・地狐・人狐)を祀る三神社がある。

  

  三孤社の前の手水場で喉を潤して石段を下ったところに社務所があった(左)。
この建物は神仏習合時代の寺だったと言う。
宿泊の受け付けは多分ここではないかと思ったが誰もいないので通り過ぎ、建物の後ろ側に回ってみた。

  裏口の戸があいていてオバサンと中年男がいたのでオバサンに宿泊のことを尋ねたらやはり社務所の方に行ってくれと言う。
先の石段のすぐ上に本殿が見えたので社務所に戻るより先にまずここの主の神様へのお参りを済ませることにした。

  本殿は、さほど大きくはないが四方切妻の威厳に満ちた建物だった。
背後には杉の大木が林立している。

  母親とその娘らしい二人が熱心に祈りを捧げていた。
母の方は杖を突いてソロソロと歩いているから病気快癒の祈願に来たのに違いない。
  こちらも今でこそ元気に山歩きをしているが何年か前は病院のまわりをひと回りするだけでバテバテになるほどまで衰えた時期があった。

  賽銭を上げ、鈴を打ち鳴らして今日の無事への感謝を捧げ、今後の健康を祈願した。
  社務所に戻ると若い神主が居た。
宿泊予約をした者だと言うとすぐに建物の中に案内され、さっき会ったオバサンに引き合わされた。

  宛がわれた部屋は12畳ほどもあり、真中に大きなコタツが置いてあった。
この日の同宿客はもうひとり、ガラス障子で仕切られた隣同士の部屋だった。

  山の上だと言うのに風呂があった。
食事も魚の切り身の煮付けや天麸羅など、民宿顔負けのご馳走が並んだ。
5000円の宿料では申し訳ないほどの潤沢な泊りだった。
  同宿の中年男とともに夕食を食べた。
名古屋からだと言ったが、この辺りには頻繁に来ている様で、オバサンとも顔なじみだった。
履物が行者足袋で八角杖を持っていたから "山屋" ではなく、神職系の人種と思われた。
食事の前後にはいろいろな世間話をした。

また、五大尊岳の先には南奥駆で最も危険な難場があるから気をつけるようアドバイスがあった。
部屋に戻ったあと、あらためて案内書のコピーと地形図を読み直してみる。
2万5千分1地形図には五大尊岳の頂上直下と、さらにもう一段下がった所に、3〜4本の等高線の間隔が詰まった細尾根がある。  また案内書には "蟻ノ戸渡り"、"貝擦り" と呼ばれる難所があると記されていた。

  これまでの経験から名前で想像するほどの難場ではなさそうだとは思ったが一応頭に入れてマークする事にした。

  寒気を伴う高気圧に覆われているせいか前夜泊った上葛川は朝方かなり冷え込んだ。
ここは、1000m ソコソコとは言え山の上だ。
一段と冷え込むのは間違いないと思ったのでコタツに繋げて布団を敷き、足を暖めながら寝られるようにした。


11月5日
<タイムレコード>
        玉置山(7:20)-玉置辻(7:50)-水呑金剛(8:15)-小休止(8:20/25)-旧篠尾辻(8:55)-大森山(9:20/25)-大水の森三角点峰(9:30/40)-篠尾辻(10:15)-休憩(10:35/50)-五大尊岳(11:05/15)-金剛多和ノ宿跡(12:35/55)-大黒天神岳(13:20/25)-休憩(14:05/20)-宝きょう印塔/山在(サンザイ)峠(14:45/55)-吹越権現(14:55/15:00)-(15:15)上切原=[Taxi \1810]=(15:35)熊野萩{民宿まつみや \7000}



   コタツのお蔭で朝方まで熟睡できたが、夜が明け前に名古屋男が出てゆく物音がして目が覚めかかった。
まだ早すぎると思ったのでもうひと眠りし、日の出前に起き出した。
コタツにあたりながら恒例のコーヒを淹れ、チビチビ飲みながら窓の外を眺めていると日が登ってきた。
今日も快晴になるだろう。
三日続きもの快晴にめぐりあったのは何ヶ月ぶりだろうか?

  朝食は一人だった。
食休みをしながら出発の準備をし、出掛けに宿料を払う。
僅か5000円では申し訳ないので、500円玉一個を添えて交通安全のお守りを頂いた。

あらためて本殿にお参りして石段を下り、僅か右手に進んだ所で左に分岐している奥駆道に入る。


  玉置山の頂上一帯は杉やブナの大木に覆われているが、実体は顕著な岩峰になっているようだ。
神武天皇が兵を休ませ、神宝を取り出して祈り、士気を盛り立て(る必要があっ)たという言い伝えが尤もだと思えるような地形だ。

  はじめ、岩の急崖に刻まれた斜降して行くがひと下りすると尾根の上に乗り、間もな玉置辻に着く。
車道が尾根を乗越していてちょっとした広場がある。

  来し方を振り返ると宝冠ノ森と双子峰を連ねる玉置山が穏やかな姿を見せていた(左)。









  車道の向い側に立つ道標の脇から山の西側の砂利道に入った(下左)。

  間もなく玉置筋に居合わせたサブザックの熟年ハイカーが追付いてきた。
大阪近郊からで、近畿百名山に入っている玉置山と五大尊岳を登りに来たのだと言う。

  暫く並んで話しながら歩いていたが水呑金剛を過ぎると間もなく道が細くなり、登り坂になったので先行してもらう。
旧篠尾(シノビ)辻への登りを "サブザック" と一緒に歩いたらバテること必定だ。
難路が待っている五大尊岳まで体力を温存しておかなければならない。

  旧篠尾辻への登路は、杉林に覆われた尾根の背を通っている。
傾斜の急な所では丁寧なジグザグが刻むので無理なく登って行けた。
旧篠尾辻は奈良-和歌山県境稜線上にある大森山と大平多山とのコルになっている。
右折して大森山に向う。

  これまでの奈良系の道標の代わりに "新宮山彦グループ" の道標を見るようになった。

  ガレ場の上を通る所があって南への視界が開け、篠尾谷の集落が見えた。

  杉林の中を緩やかに登って大森山の頂上に着いた。
樹木に囲まれ、取り立てて特徴のない小広場だが穏やかな雰囲気の漂う平坦地で、休憩場所としては快適だ(左)。

  大森山東峰または大水ノ森と呼ばれている三角点峰はすぐ近くだ。

  "第44回刈峰行 5.4.11 新宮山彦グループ" と記したプレートが道端にあった(左)。
藪に埋もれていた南奥駆道の再整備が行なわれたたのはこの頃だったのかもしれない。





  篠尾辻は切畑への道の分岐を示す道標で確認できた(下左)。
このあたりはかなり藪っぽく、尾根筋もゴチャゴチャしていて混沌とした雰囲気になっている。
  ガイドマップには2個所の降り口があるように記されてるが片方しか確認できなかった。

  行く手の樹間に五大尊岳らしい双子峰が見えてきた。
このあたりから五大尊岳頂上南側の難場を過ぎるまでが、今日の行程では最も厳しい部分だ。

  手前の小ピークでザックを下ろし、ジュースを飲みながら、少量の食べ物を腹に入れて、エネルギーを補給した。

  やや急に下り、狭い鞍部から急に登り返して行くと五大尊岳頂上で、先行していたサブザック男が休んでいた(下左)。
  男が言うには、南隣にもう少し高いところがあるので行ってみたがそちらには何もなかったので戻って来たという。

  狭く細長い露岩の頂上で、不動明王の石像がある。
西の方へはいくらか視界があるが眺めはあまりよくない。
男は玉置山の駐車場に車を置いてあるのでそこまで戻らなければならないという。
大森山と玉置山へ登り返さなければならないから大変だろう。

  大分頑張っで歩き、腹にきているようで、あまり食欲がないと言う。
シャリバテで突然足が動かなくなることがあるから無理にでもいくらかは食べておいたほうがいいですよ、と勧めた。

   ひと休みしたあと別れの挨拶をして先に進む。南隣のピークは本当に何もない円頂だった。
僅か下って登り返した所で道が二分する。
道標がはっきりしないので判断に迷ったが右側の木に捲きつけてある金属板の矢印から右手の道が正しい進路だと判断した。

  間もなく幅1m あまりの細尾根が現われた。  多分ここが "蟻ノ戸渡り" で、分岐を間違えなかった事が確認できた。
  地形はいったん緩むが間もなく露岩の急降下が現われる。
"貝ズリ" の難場だろうが手近な所にある潅木がホールドを提供してくれるし、足場もシッカリしているので特に危険というほどではない。

  難場を過ぎるとたちまち穏やかな里山の雰囲気になった。

  ノンビリムードに切り換えてブラブラ歩く。
所々に桔梗の群落がある。
オミナエシやアキノキリンソウも見えた。

  地元の老夫婦とその子らしい男と出あった。
先頭のおじいさんに、「なんか調べてるんかね?」と聞かれた。
 「いや、ただの山歩きですよ。 玉置山から歩いてきたんです」と答えると、物好きな人間も居るもんだという風な顔をした。
 「山菜取りか何かですか」と尋ねたら、松茸だと言う。
後のオバサンが、「もうみんな取られちゃって残ってないんだよ」とボヤいた。

  金剛多和の鞍部に着いた。
祈祷所があり、上切原への道が分岐している。

  小休止のあと向側から大黒天神岳への登りに掛かった。  大した登りではないのだが結構こたえる。
順調に歩いてきてはいるが、玉置山からはかなりの距離になっている。
少々気も緩んでいる。

  道が右に曲がると傾斜が緩み、やがて草薮に囲まれた頂上に着いた(左)。
山名プレートの脇にNHKの中継アンテナの柱が横倒しに置いてあった。
  気温が上がったのと標高が下がったのとでソコソコ汗が出た。

  また杉林の中に入って進んで行くと突然伐採地の上に出て視界が開けた(左)。
通り道の脇にあった大きな切り株を休憩台にして長い休憩をした。

  広広とした熊野川の河原の向こう岸に集落が見えている。
先の尾根の蔭から対岸に架かっている大きな橋が下向橋のようだ。
橋の下手の山蔭に "奥駆道終点" の熊野本宮大社がある筈だ。

  伐採地の先の杉林の中を暫く進んだ所に宝キョウ印塔があった(左)。
そのすぐ先が山在峠で峠の切通まで舗装車道が上がってきている。

  "熊に注意" と大書きした看板の横手からまた山に入り、さらに10分程進むとふたtび舗装車道に出た。
ここはちょっとした園地になっていて "吹越権現" と記した道標が立っている。
  これで今日予定していた行程はほぼ終わった。
少々歩き飽きてもいたのでタクシーを呼ぼうとしたが携帯が繋がらない。
仕方ないので車道を下り、T字に突き当たった所を左に歩いてUタ-ンて行くと山在集落があった。
山在からはすぐにタクシー会社と連絡が取れたのだが、つまらないウッカリミスがもとで居場所の確認に苦労をする事となった。

  今居るところが本当に山在なのかどうか、電話をする前に確認しておこうと、道の上の家に行って声を掛けてみたが返事がない。
良く見ると戸口を鍵がかかっている。
入口の脇の郵便受けには "小津荷" という字名を記したプレートが貼ってあった。
  地形図では "山在" にいることは間違いなさそうなのだが、地元ではここを "小津荷" とも呼んでいるのかと早合点した。
  タクシー会社に玉置山から南奥駆を歩いてきて山在まで降りたのだが家の入口には "小津荷" と書いてありますよ、と言ったものだからタクシー会社の方が混乱した。
周りに何が見えますかと聞かれ、「下の方を熊野川が流れてます」から始まって、「道のすぐ下にある柵の中に10頭ばかり猪がいますよ」とか、「使われなくなった大きな牛舎の上を通ってきました」とか、色々と状況説明したらようやく居場所の判断がついたらしい。
車を回すけれどちょっと時間が掛かるかも知れないという返事だったので、どうせ一本道だからボツボツ歩いてますよと言って電話を切った。

あとで分かったことだが、"小津荷" は山の下の熊野川沿いにある集落の名で、その家の家族の普段の住所だったらしい。

もうすぐ河原沿いの道になるという所でタクシーと出遭った。

   車は一旦下流に向けて走り、下向橋を渡って熊野萩に向かった。
旅館 "まつみや"(左)は、創業110年余りという行者宿で、通りからは目立たない建物だが奥行きは意外に深く、大きな建物だった。
七十前後の女将さんが半ば楽しみに一人で切り回しているようだった。
  客は中辺路を歩く徒歩旅行者が多いが、たまには奥駆道の行者も来るという。
この夜、ほかには客がなく、静かにゆっくり休んで山の疲れを癒す事ができた。

11月6日
<タイムレコード>
       熊野萩(7:55)=[タクシー \1810]=(8:15)林道分岐-吹越宿跡(8:20)-七越峠(9:15)-七越峯公園(9:20/35)-備崎橋(10:15/30)-(11:00)熊野本宮[12:00]=(明光交通特急バス \1500)=[12:48]新宮駅[12:05]=(タクシー \620)=[12:10]熊野早玉大社(13:00)-徐福墓地公園(13:15)-(13:20)新宮駅[14:48]=(南紀#84)=[18:09]名古屋[18:15]=(ヒカリ#282)=[19:30]三島[19:56]=(コダマ#476)=[20:33]新横浜=あざみ野=鷺沼=宮崎台


  最終日は川霧の立ち込める朝だった。

  南奥駆道の尾根の尻尾の先の部分となる吹越権現から備崎橋までを歩いたあと、熊野本宮に参詣して帰るだけだから楽勝お散歩ムードだ。
ただ、そのあと新宮に出て家に帰り着くまでが遠くて大変だ。

  8時に迎えに来るよう頼んであったタクシーで昨日出てきた林道入り口の交通止め看板まで上がる。
勝手が分かっている林道を歩いて吹越権現まで入り、 "熊に注意" の看板の横から山に入る。

  相変わらずの杉林だがひと登りで緩やかに上下する稜線に乗った(左)。

  何となく腹具合がおかしくなってキジ打ちをしたりしたが1時間ほど歩いたところでパッと前方が開け、下の方に広場が見えてきた。

  丸太階段を下り、丸太組みの運動ジムの脇を過ぎると、"七越峰" と刻んだ石碑が立っていた。
奇麗に整備された公園の西側の高みにある東屋に上がってみると、足元を熊野川の河原が横切り、向う岸の熊野本宮一帯の展望が広がっていた。
  充分すぎるほどの時間があるのでノンビリ景色を楽しむ。
車道の入口に道標が立っていたがそちらには行かず、すぐ先の小ピークに登ってみた。
頂上広場に出る手前に老人が細丸太を埋めて階段道を補修していた。
「こっちから備崎橋に行けますか?」と尋ねると、「ええ行けますよ。 向こう側に女の人が居るから聞いてください」という返事だった。
言われた通り、頂上に上がってその裏側に降りかけたら丸太の束を担いだおばさんが登って来た。

  「備崎橋から熊野本宮に行きたいんですが」と、下降路を確認して山道に入り、尾根の上をひと下りすると回り道をしてきた車道の縁に出た。
そのまま車道の縁を進んでまた山に入ることもできたのだが車道の先の方に展望台のような手摺のある広場が見えたので車道歩きにスイッチを切り換えた。

  展望広場からは、熊野川を挟んだ正面に大斎原(オオナリハラ)の大鳥居、その右手に熊野本宮大社のある高みが一望だった(下)。
大斎原の大鳥居と熊野本宮付近の展望
(写真をクリックすると拡大します)

  さらに車道を歩き続けて備崎まで下り、対岸の国道に渡って熊野本宮大社に向う。

  川向こうには昨日以来歩いてきた尾根が大黒天神岳へ向って迫りあがって行くのが見渡せた。
熊野川への展望を楽しんだ伐採地もはっきり分かる。

  人家が連なるようになった辺りに大斎原入口の鳥居があった(左)。
明治22年に未曾有の洪水があって建物の一部が流失するまではここに熊野本宮大社があったのだと言う。

   大斎原入口から15分ほどで熊野本宮大社の鳥居に着いた。
熊野古道を歩いてきたハイカー、バスで来た団体、ファミリードライブ、それにバイクツァーのグループなど、いろんな人種が集まっていて賑やかだ。

  本殿への石段を登りだしたら三日の山歩きの疲労素の溜まり方が良く分かった。

  八咫烏の幟の脇から門(左)を潜ると古錆びた神殿があった。

  奥手に牟須美・速玉、中央に家都御子神(ケツミコノカミ)、右手に天照大神が祀られている複合式の神殿で、言って見れば大物神様の集合住宅になっている。

  今まで見た事がない立派な神殿なのだが一昨日泊めて貰った玉置神社に対しては里宮の立場になるらしい。


  途中をスキップしたとは言え、ついに南奥駆道の南端に到達した感慨に耽りながら境内を見て歩く。

  ひと通り境内を見て気が済んだので石段を下り、鳥居の横手の店に入って山菜蕎麦を食べた。
関西風というか、やや甘口の汁だったがそれなりに美味しかった。

  新宮行きのバスは鳥居の向かい側のバス停から出る。
運行されている便の殆どは奈良交通/熊野交通だが正午近くに一本だけ、近鉄系列の明光バス特急便がある。

  熊野川は険しい山の間を大きく蛇行しながら流れているが、蛇行しているがゆえに流れ自体はユッタリしている。
上代の人々にとって海と山を繋ぐ交通ルートとして利用しやすかったであろうと想像した。

  1時間足らずで新宮駅に着いた。
早速コインロッカーにザックを納め、駅舎の中にある観光案内所で地図を貰いながら様子を聞いてみた。
17時半近くに出る特急列車の座席指定券を持っていたのだが、早玉大社と徐福墓地公園を見ても午後3時前に出る南紀号臨時特急に充分間に合いそうな事が分かった。
駅の窓口で特急券の切り替えをし、タクシーで早玉大社に向った。

  神社は駅から近くてすぐに着いてしまったがそれまでの間、ドライバーからいろいろな話が聞けた。
  かつて新宮は、紀州徳川の大番頭にあたる水野家が治め、江戸に木材に送り出す紀州材の大集散地だった。
度重なる江戸の大火の度にブームに沸いたらしい。
それ以来、外材が入ってくる昭和の半ばまで、何人もの富裕な材木商がいて、大阪の遊び場では金離れが良い事で通っていたという。

  早玉神社は極彩色の美しい神殿だった(下)。
祭ってある神は、早玉と夫須美だと言うから熊野本宮大社の左翼と同じと言うことになる。

瀬戸内海を通って九州方面から紀伊半島に渡来した集団が熊野川を交通の軸として勢力を蓄えたのち、吉野から大和に進出し、古代統一国家の端緒を開いたと言われている古代史に対しておぼろげながら実感ができた。


新宮の熊野早玉大社

  十分時間の余裕があったので、徐福の墓へは歩いて行った。
案内所で貰った地図によれば駅のすぐ近くなのでとにかく駅を目指して近道を進む。
暫く歩くと駅前広場に出たのだがもうちょっとの所が分からない。
キョロキョロ見回していたら自転車の郵便配達が通りかかった。
尋ねたら、すぐそこだよと指差し教えてくれた。
裏口から入る形となったが、内部はこじんまりした公園になっていて、石碑と石像が立っている。
正面から出て振り返ると、"華南風" の堂々とした極彩色の門が立っていた。
  はるかな古代、秦の始皇帝の命を受けて不老不死の薬を求める旅の末、ここに到来したと言うロマンに満ちた伝説の主人公の記念碑だ。

  熊野大社、早玉大社、それにこの墓と、これまでの山行とはひと味もふた味も違う、地形の3次元プラス時間軸も加えた4次元の山旅ができて大満足だ。

駅に戻る途中、"徐福寿司" と言う看板を出している店があった。
戸口に立って、「秋刀魚寿司ありますか?」、と聞いてみた。
酢漬けの秋刀魚の開きを酢飯に乗せただけの、シンプルな "普段着寿司" だが、漬け菜で包んだ "めはり寿司" とともにこのあたりの名物だ。
「ありますよ」、と言う返事が貰えたのでパックをひとつ買い、名古屋までの長い車中の楽しみにした。

  臨時特急は空いていてひとりで二人席を占領、ノンビリ沿線の景色を眺めながら名古屋に向った。

  今回は連日の快晴に恵まれて楽しく山を歩けたが、今年は夏以来本当に天気が悪く、特に頻繁に襲来した台風には大いに祟られた。
とりわけ紀伊半島では台風の被害が大きかった。
昨年の秋に大杉谷を下降したが、この谷が流れ込む宮川の上流域にある宮川村は特に被害が酷かったと聞いていた。
谷の出口にあたる三瀬谷駅の辺りを通る時には注意して見ていたら川の水面よりはるかに高い田畑に流木が横たわっていたりして、とんでもない大水による傷跡があちこちに残っていた。


☆おわりに
     太古の辻から行仙岳、笠捨山・地蔵岳までの南奥駆北半分をスキップしたものの、春から三度の山行を重ねて、大和から吉野に入り、大峰奥駆道の尾根筋を辿って熊野本宮大社まで歩き、熊野川河口の新宮に到達できた。
長い頂稜を辿って海へ。
"山" としては比ぶべくもないが、北アルプス白馬岳北方の頂稜から雪倉岳、朝日岳を経て親不知に至る栂海新道と共通の要素を持つルートで、そこを完歩した時の感激を思い出した。


☆参考
奥駆道ルートマップ: http://www.nanwa.or.jp/sekaiisan/other_pages/root/hiking.html
玉置神社: http://www.ne.jp/asahi/net/tamaki/index.html
    および  http://www.ohagi.com/jisha/syugen/tamaki.php
熊野本宮大社: http://www.kumanokaido.com/spiritcase/hongu.htm
熊野早玉大社: http://www.ohagi.com/jisha/kumano/hayatama.php
天誅組 140 年: http://www.gojo.ne.jp/g-kanko/tenchu/