京都東山 山巡り (2016.5.30-6.1)


☆期日/山行形式: 2016年5月30日-6月1日 市中ホテル利用3泊3日
☆2万5千分1地形図>
    京都東北部(京都及大阪2号-4)、瀬田(京都及大阪3号-1)、京都東南部(京都及大阪3号-3)
☆まえがき
  毎年の春と秋に、年寄り仲間連れ立って、紀伊・近畿の史跡・寺社を訪ねて歩くのが習わしになっています。
かつては健脚を誇り、熊野古道伊勢路ルート全長を踏破した実績があるグループですが、寄る年波による脚力の低下は如何ともならず。
近年は、"なるべく歩かずに"、近畿付近の史跡、社寺探訪をするツアー・グループに変化しています。

  この春は奥琵琶湖の菅浦・海津から湖西の坂本・比叡山の歴史を訪ね、寺社を巡ることになりましたが、平らな所を歩くだけでは物足りないかも、と感じたので、京都東山のあたりの山巡りをする "ついで山行" をしてみようと思いました。

  京都付近の山は数年前に蹴上から大文字山へ歩いたことがあるのですが、大都会の市街地に隣接して豊かな自然が保存されているのが印象に残っていました。
一昨年の秋、近江今津で同窓会が行われたので、そのついでにこの辺りの低山を登り歩く計画を立てたのですが、秋のはじめの季節の気温変動に身体が付いて行けず、風邪をこじらせたために中止。
それ以来、折りに触れては思い出す、気に懸る山域になっていました。

  今度の琵琶湖ツアーは、この宿題を片付ける格好の機会です。
パソコンの山行計画保存フォルダーから引っ張りだした2年前の計画書を下敷きに使って、山行計画を纏めました。

  京都一周トレイルに重点を置くこととして、3日間の計画のうち、初日の愛宕山は吉田山から瓜生山に、二日目の比叡回峰行ルートは音羽山から逢坂山に、三日目に稲荷山-清水山-東山を歩く計画としました。
前回歩いた分と以前の分とを合わせれば、京都一周トレイルのうち、東山側の大部分をカバーできることになります。

  今回は、同じ宿舎に3泊する定着型山行ですから泊まり場の設定は重要です。
あれこれ調べた結果、草津駅近くのビジネスホテルを選びました。
京都市内と近郊の宿泊所は、レートも観光地プライスで高いだけでなく、世界中から集まってくる観光客で混雑し、適当な泊まり場を見つけるの難しくなっています。
  大津・石山を通りすぎ、膳所から草津あたりまで来るとビジネス客向けのリーズナブルなホテルがあることが分かりました。
かつて東海道の宿場として繁栄した草津は、今は世界最大級の応用電子機器メーカを擁する大産業都市に変身し、駅周辺の商店街も充実して食事や買物も便利です。

☆5月30日(曇一時小雨) 京都東山 吉田山から瓜生山
    初日は昼近くに京都駅に着くので昼食が済んでから夕方までの半日コースになります。
前に歩いている大文字山の北隣にある瓜生山に登ったあと、宮本武蔵と吉岡一門の決闘が行われた一乗寺下り松へ下るルートを設定しましたが、少し時間的な余裕がありそうなので、吉田山を越えて瓜生山バプテスト病院口へアプローチするおまけを付け足すことにしました。

  吉田山は、旧制三高の寮歌 「紅萌ゆる丘の花... 」 に歌われている有名な山です。
市街地にある極小の超低山ながら 121m の標高点と 105.7m の三角点を持っている一人前の独立峰です。
 






吉田山頂上から大文字山
 
 (画像をクリックすると拡大)

<行動時間>
   宮崎台=あざみ野=新横浜[8:52]=(ヒカリ#505)=[11:11]京都駅/バスターミナル[11:47]=(市バス#/17)=[12:23]京大農学部前バス停-おばんざいの小食堂(12:27/44)-吉田山入口(12:49)-吉田神社分岐(13:01)-吉田山頂上東屋(13:06/08)-大文字山展望広場(13:10)-浄土寺橋交差点(13:26)-バプティスト病院口(13:46)-大山祇神社(13:56/59)-茶山(14:14/18)-白幽子厳居之蹟(14:24/28)-狸谷不動分岐(14:43)-瓜生山(14:48/15:03)-狸谷山不動院(15:28/15:38)-八大神社(15:51/56)-一乗寺下り松(16:03/06)-(16:10)白川通一乗寺下り松バス停[16:16]=(市バス#5)=[17:02]京都駅[17:16]=(JR野洲行)=[17:37]草津-(17:45)アーバンホテル草津{泊}

<ルートの概況>
  朝の程々の時間に出発して11時過ぎに京都駅に着きましたが、京都駅前バスターミナルの勝手が分からず、ウロウロしているうちに予定のバスが行ってしまい、ひとつあとの便になりました。

  吉田山へ最寄りのバス停は北白川バス停でしたが、もうひとつ手前の京都大学農学部前で下車。
学生街の様子を見ながら適当な昼食場所を探してみることにしました。
  校門の近くにある商店街が食べ物屋主体になっているのは、東京の本郷と良く似ていますが、こちらのほうが幾分古風で穏やかな、いい感じの雰囲気になっているように思いました。

  山歩きの直前だから腹に軽くて美味しい昼食をしたいなぁ、と思いながら歩いて行くと 「おばんざいバイキング 890円」 とい書いた掲示を出している小さな店を見つけました。

  良い昼食にありつけ、満ち足りた気持ちで店を出て今出川通りを進むと、向かい側の吉田山の懐に鳥居が立っているのが見えました。
鳥居の前では道路を横断できず、北白川バス停の先の信号まで進んで山側に渡りました。

  鳥居をくぐって山に入るとまわりは濃密な山林になっていてひっそり静かでした。
人気はないものの、遊歩道の地面はしっかり踏み固められている所を見ると、朝夕に散歩する人は多いようです。
  密生した常緑樹が視界を閉ざしている道を進ん行くと一番高い所がT字路になっていました。
地形図を参照すると直進する道は吉田神社に通じていることが分かりましたがそれでは山の南側に降りてしまうことになるので左折しました。
  やや狭い土道を僅かに登ってゆくと前の方が明るくなり、吉田山頂上の東屋が見えてきました。
東屋の東側の樹木が刈り払われて視界が開け、すぐ下にある黒御影石のモニュメントの先の方に大文字山が見えました。

  頂上の北側を右寄りに下って行くと道の脇に小広場が見えました。

  広場には白御影石で作った丸い座椅子が20個ほど並べられ、正面に大文字山が見えます。
  五山送り火が焚かれる夜、町の人々はここまで登ってきて大の字と対面するのでしょう。

  道が左手に折り返して少し進んだところから柵と階段に導かれて下って行くと大文字山の麓に広がっている銀閣寺町から浄土寺町の家並みを見渡せる所がありました。

  今出川通に降りて右折し、僅か東に進むと銀閣寺道の交差点でした。

  筋向かいに哲学の道の起点があります。
堀川に沿って僅か東に進んだ所にある交番の角を左折して北に向かい、白川沿いの道を進んでゆくと白河天満宮の鳥居がありました。

  京都一周トレイルの道標を探り、道に出ていた道路工事の案内人に尋ねながら北白川の住宅街の中を進んで無事に 「バプテスト病院」 のサインのある角に辿り着きました。

  標識に従って右折し、住宅の間の坂を登ってゆくと病院の手間で道が分岐していて、二股の角に京都一周トレイルの道標が立っていました。
  病院の石垣の裾を通り過ぎた所から細い水流が流れている小沢に入りました。
知らない土地の初見の山では入口をしっかり見分けないと思わぬ道迷いをする事があります。
  後からきた若いハイカーのカップルに追い越されました。
地元のハイカーが歩いてゆくなら間違いないと安心しました。

  小沢の底は一枚岩のスラブ状で、人が掘ったような感じの細い溝を澄んだ水が流れています。
  僅か進んだ左側にあった地龍大明神で今回の山行の無事を祈りました。

  神社の先から小尾根に上がり、小さな山には不似いな急な小尾根の背を登ってゆくと茶山に着きました。

  江戸時代の豪商所縁の山で、東山三十六峰の第七峰であると記した看板が立っています。
頂上の先の鞍部の近くでは左下に京都市街が見えました。
  向かい側の山にあたって右へ斜上し、大岩の右脇を通って裏側にへ回りこんだ所が白幽子巖居之跡で、白隠禅師の肺結核を治療した仙人が住んでいた跡である旨を記した看板が立っていました。

  もとは石切場があったことを記した立て札の脇からジクジクした溝状の道を登ってゆくと頂上肩の尾根の背に上がり、狸谷不動から登ってきた道とT字に出合いました。

  右折して三十六童子の祠を二つ三つ過ぎると頂上広場の端に登りつきました。
  奥の方にこぢんまりした社殿が見えました。
瓜生山は、戦国時代の山城跡の山で、東山三十六峰の第八峰に数えられています。
この山にあった城は、北白川城(きたしらかわじょう)、瓜生山城(うりょうさんじょう) のほか勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうやまじょう) とも呼ばれ、広場の奥にある小社殿もその城の名を伝える勝軍地蔵社となっています。

  無事の登頂に感謝して賽銭を上げたあと社殿の軒下で休んでいたらパラパラっと雨粒が落ちてきました。
  大降りになる気配はありませんでしたが念のため折り畳み傘を出して来た道を戻り、T字路を直進して狸谷不動への下降路に入りました。
  三十六番からひとつづつ番号が減ってゆく童子像の祠を見ながら尾根の背を僅か下ったところから右手に回りこんでゆくと倒れた緑色ネットの柵がありました。
  獣避けかなぁ、思いながら進んで行きましたが、どうもそうではないみたいです。
沢溝の奥が崩壊気味になっていて、足元に注意が必要な状態になりました。
20m 弱の鎖場を慎重に登って溝底を通過し、その先の尾根の背を回りこむと漸く穏やかな道になりました。
  左折して下降し、最前横切った沢溝の下の方へ回りこんですり鉢状の沢底に降り立ちました。
「勝軍地蔵跡」 と刻んだ石柱が立っている所から下を見るとすぐ近くに不動堂の屋根が見えました。
  急な石段を下って不動堂の回廊に降り立ち、左手へ回って石段を下ると前庭に出て、正面に堂々とした懸け造りのお堂を見上げる様になりました。

  大峰修験道の採燈大護摩所やトイレの神様うすまき明王の社殿の前から500段あまりの長い石段を下ってゆくと超グラマーな美人弁財天がいる七福神祭場があり、その下には、狸(他抜き)にちなんだ狸の陶像が沢山並んでいる中に阪神タイガースの優勝記念モニュメントがありました。

  表向きはお澄まし顔の京都の裏側の、カワユイほどの俗っぽさの一面に触れたように思いました。

  参道の石段がつきた先は急な坂道になり、両側に古風な住宅が並んでいます。

  ひと下りした左側に八大神社の参道がありました。
宮本武蔵が「仏神は貴し、仏神をたのまず」 と言う境地を開いた場所とされている神社です。

  永仁2年(1294年)の勧請によって創建され、素盞嗚命(スサノオ)、稲田姫命(クシナダヒメ)、八王子命を祀っている神社ですが、こじんまりした美麗な社殿は女神の祭場にしか見えません。
 
  社殿の横手には一乗寺下り松の古木の残骸を納めた祠があります。
江戸時代のはじめに、宮本武蔵が吉岡一門数十人と戦った決闘の現場に立っていた松だそうです。

  八大神社からもと来た道に出るとすぐ、詩仙堂がありました。
江戸時代の大文人、石川丈山が残した名園で、立ち寄ってみたいと思っていましたが、非常に蒸し暑い中、急な山を登降して疲れていたし、時間も遅くなっていたので割愛しました。

  坂を下り切った所にある十字路の角の高みには、「宮本武蔵決闘場跡」と、「大楠公御陣場跡」と、ふたつの石碑が並び立っていました。

  十字路から僅か進んだ所で白川通に突き当たり、左折するとすぐ一乗寺下り松バス停に着きました。



  バス停から東の方を見ると溜池の向い側の家並みの上にいま歩いてきた山が見えました。
  面白半分で終点の京都駅まで路線バスで行ってみました。
  白川通りを南下したあと南禅寺の手前で右折して二条通りを西進。
平安神宮通りから三条通りを経て京都駅に着くまで45分程かかりましたが、大勢の観光客で賑わっている京都の繁華街を眺めながらゆくこととなり、図らずも超ローコストな観光ツアーができました。

  京都から草津までJR電車で20分ほど。
予約したホテルは駅から5分ほどの好ロケーションでした。

<ルートの詳細>





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☆5月31日(晴) 音羽山-逢坂の関跡-三井寺
   2日目に歩く音羽山から逢坂山へのルートは、京都東山よりもうひとつ東寄りの尾根筋で京都府と滋賀県の境を区切っています。
草津駅から電車で10分足らずの石山駅の前のバスターミナルから出ている路線バスに乗って10分ほどで着く国分団地が音羽山の登山口です。

  要所に立っている東海自然歩道の道標に導かれて三田川の谷に分け入り、谷奥を詰め上げて到達した府県界尾根を辿って登りついた山の頂上には山科、比叡、琵琶湖が一望の大展望が待っていました。

  頂上の北側を下降し、逢坂山歩道橋で国道1号線を渡って逢坂の関跡から逢坂山への尾根の背を北上したあと逢坂山に登頂する代わりに長等公園から琵琶湖疏水隧道入口の方へまわりました。
琵琶湖疏水の先にある長等神社から三井寺まで足を延ばして古刹を拝観し、門前の店で名物のそばを食べたあと、膳所を経て草津に戻りました。

音羽山頂上の展望    (画像をクリックすると拡大スクロール)

<行動時間>

    草津[8:19]=(JR網干行)=[8:26]石山[9:08]=(京阪バス#3国分団地行)=[9:18]国分団地(9:20)-歩道入口(9:37)-西山路傍休憩地(10:09/21)-府県境稜線(10:58/11:07)-音羽境石標(11:26)-パノラマ台(11:32/39)-音羽山(12:00/20)-展望園地分岐(12:34)-電波塔(12:42)-小休止(12:57/13:03)-逢坂山歩道橋(13:38/41)-逢坂の関跡(13:42)-小休止(14:01/10)-大津市展望所(14:19)-大谷団地分岐(14:23)-兜神社(14:35)-長等公園展望台(14:36/56)-不動堂(15:06/17)-長等神社(15:29/34)-琵琶湖疏水隧道入口(15:37/39)-三井寺(15:49/16:12)-門前蕎麦(16:14/38)-(16:49)京阪三井寺駅[16:50]=(京阪電鉄浜大津行)=[16:57]京阪膳所/JR膳所[17:04]=(JR米原行)=[17:16]草津アーバンホテル草津{泊}

<ルートの概況>
    予定より早い電車に乗れたのでひとつ早いバスに乗り継いで終点のひとつ手前のバス停で下車し、近くにある芭蕉ゆかりの幻住庵に立ち寄ってみたいと思っていましたが、石山駅のバスターミナルの勝手がわからず、ウロウロしているうちに乗りそこねました。
結局、30分あとの予定通りの便になったので幻住庵は諦め、終点の国分団地へ直行しました。

  バス終点の国分団地は、「団地」 という名に反した落ち着いた雰囲気の集落でした。
山と家並みの間を通っている道を進み、要所に立っている東海自然歩道の道標に導かれて進んで行くと三田川谷の入り口になりました。

  三つの貯水池が隣り合っている間を通って行くところでは、池の水面の上に京都府と滋賀県の境界稜線の尾根筋が見えました。

  貯水池の縁から僅か登ると流れに沿った道になりました。
貯水池の水面より数m 高い所を流れているので人工的な流路に違いないのですが、とても綺麗な清流でした。

  流れに沿ったり離れたりしながら進ん行くと、地形図に書き込まれている林道がZ型に折れ登っているカーブの頂点の先に西山路傍休憩地がありました。
山深く落ち着いた雰囲気の感じの良い休憩広場でした。

  休憩広場から先は破線路の山道になり、沢の流れと絡みながら徐々に高度を上げて行くようになりました。

  沢の流れが消えるあたりに野外ベンチと緊急通報時の位置識別番号のプレートがありました。

そのすぐ先から長い丸太階段道の登りが始まりました。

  山中にある階段道は短足老人と歩幅が合ないため、いつも苦労します。
か細くなってきた抗重力筋に過重な負荷をかけぬよう、数十歩毎に利き足を入れ替える片足登りで進みました。

  やがて突き当たった府県界稜線の道には、
「右山みち、左石山寺」
と刻んだ石柱が立っていて、かつてこの尾根道が石山寺への参詣道だったことを教えています。

  左折して府県界尾根を北上。
緩急を繰り返しながら徐々に高度を上げて行ってパノラマ台に着きました。
右下の谷の先に琵琶湖と沿岸の市街が見えました。

  牛尾観音へ下る道の分岐、「音羽堺」と刻んだ小さな標石を通りすぎてゆくと前方がぱっと開け、谷向かいの尾根の上に送電線鉄塔が立っているのが見えました。

  まっすぐ下っていった所から右手に登ってゆくと鉄塔の足元の裸地から尾根の背に上がりました。
左折して常緑樹で薄暗くなっている林の中を進んでゆくと行く手の林の先が明るくなってきました。

  まもなく、木陰に野外ベンチやルートマップの看板がある音羽山肩の広場に着きました。
  広場の先から左の方へ100m ほど進んだ所が頂上で、天辺には巨大な送電線鉄塔が立っていて、その手前のコブに左の写真のような三角点標石があります。
  まわりの木が刈り払われて視界が開け、京都市街から比叡山を経て坂本あたりと琵琶湖まで見わたすことができましたが送電線鉄塔の間に張り渡されている複条送電線が目障りです。

  あと3週間ほどで夏至になる時期で日差しがとても強く、肌がジリジリしてきたので、日陰にある野外ベンチに戻ったら逢坂山の方から登ってきたおばさん二人組と出合いました。
この日、山に入ってから初めて出逢った人達です。 
  音羽山頂上の先の下降路は登ってきたルートよりもう一段緩やかだったので、のんびり歩いて行きました。

  マウンテンバイクの3人組と出逢ったあと僅か進んだ所が無線中継塔のピークでした。
左手に降りてゆく車道を見送って進むとやや急な尾根を下るようになり、やがて丸太階段が断続するようになりました。

  階段の降りは足の筋肉の使い方が一定になり、特定の筋肉に負担がかかるので要注意です。
右足の甲から向う脛にかけての筋肉が引きつってきたので小平地にザックを下ろし、このごろ定番にしている消炎剤と鎮静剤を服みました。

  10分もしないうちに薬の効き目が出てきて僅かに眠気を感じるようになったので立ち上がり、ソロソロ歩き出したたら徐々に筋肉が解れてきて痛みが軽くなり、やがて逢坂山歩道橋に着きました。

  かつて京都の東の関門となっていた逢坂の関所のあとは国道1号線の長大な切通しに変わり、上り下りの車がひっきりなしに疾駆しています。

 

  歩道橋を渡って逢坂山側に移り、足場のよくない急斜面を斜上してゆくと 「逢坂の関跡」 と記した看板が立っていました。

  急な所を数回折れ登ると国道1号線と大谷団地の間にある尾根の背に乗り、幅広く穏やかな遊歩道になりました。

  常緑高木が目立つ自然林の中をほとんど平らに進んでゆくと、右手に住宅地の屋根が見えたり、左下の樹間に大津、琵琶湖がちらりと覗いたり。

  長い丸太階段の降りでおかしくなりかかった足の筋肉を癒しながらのんびり歩きました。

  GPS で現在位置を確認しながら歩いて、そろそろ逢坂山頂上への入り口か、と思う所まで来ましたが、かねてより気にかかっていた三井寺と、琵琶湖疏水の水が流れ込んでいる水路トンネルの入口を見たい気持ちが強くなっていたので左折して逢坂山頂上に向かう代わりに直進して長等公園へ向いました。

  僅か進んだところに立っていた赤塗の鳥居には「兜大神」と記した扁額が架けられ、その脇に 「熊丸大神」 と刻んだ碑が立っていました。

  鳥居から僅か進んだ右側に芝生の広場があり、その奥に大きな展望台が設けられていました。
車椅子でも登れるように作られた長いスロープを登り上げた展望台では正面に大津の市街と琵琶湖が見渡すことができました。

  広場の端にある野外ベンチで長目の休憩をしたあと、
丸太階段を下って山裾の舗装路に降り、左へ進むと長等不動堂がありました。
  とても立派な不動堂だったので立ち寄ってみたら沢山の提灯が下がっている参道の奥にある行場に二筋の滝が流れ落ち、今でも盛んに修行が行われている様子が伺われました。

  不動堂の先、三橋節子美術館の脇で左折して進むと朱塗り鮮やかな長等神社の楼門の前に出ました。
ゆったり広い境内を見まわったら主殿の北側に馬神神社がありました。
  この神社はあちこちの山道で見る馬頭観音とは違い、競走馬らしいカタカナの馬の名を書いた名札が何枚も懸けられています。

  長等神社のすぐ先に琵琶湖疏水トンネル入口がありました。
厳重な柵が囲んでいる深い切通しの斜面に草木が茂っているため、水面とトンネル入口が僅かに見えただけでしたが、ここからトンネルに流れ込んでいる水が、山科を経て蹴上のインクラインの上の水路に流れだしている訳です。

明治の人々のエネルギーを感じさせる遺産でした。 

  琵琶湖疏水の先から町名が変わって 「圓城寺町」 になり、山側の堀に沿っている道の幅が広がってくるとまもなく三井寺入口」の交差点に着きました。

  お城の城壁のような石垣の間を通って境内に入り、広い参道をゆくと左手に広い駐車場と茶店があり、正面に巨大な仁王門が立っていました。

  比叡山と対抗した勢力が拠った古刹の巨大な門は、あたりを圧する荘厳な雰囲気を漂わせています。
    拝観料を払って境内に入り、釈迦堂、金堂、鐘楼、閼伽井屋、弁慶の引き摺り鐘、一切経蔵、三重塔、灌頂堂の順に拝観しました。

  金堂は前庭で工事が行われていましたが、均整の取れた大建築でした。
  鐘楼は近江八景のひとつに数えられている三井の晩鐘が打ち鳴らされるところです。

  弁慶鐘は、弁慶がこの寺から奪い取った鐘を比叡山に持ち去ったところ、「帰りたい、帰りたい」 としか鳴らないのに業を煮やし、谷に投げ捨てた、という伝説が残っている鐘です。
  古代、青銅の大鐘の鋳造は非常に難しい技術だった筈です。
残留応力のため叩いているうちに割れてしまった可能性があります。
鐘の欠陥を弁慶の仕業ということににしたかも知れません。
 
  一切経蔵に収められている巨大な経車が印象に残りました。
経車は人力で回せるように造られていて、ひとまわり回すと一切経を全部読んだことになるというものです。

  足利の鑁阿寺には今でも回せる経車があり、一度回させていただいたことがあるのですが、ここのはそれよりふた回りも大きく、これほど大きなものが人の力で回せた事があるのは驚きです。

  大峰修験とも関係の深い大寺の境内を巡拝したあと、仁王門脇の大きな茶店に入って名物(?)の長寿蕎麦御膳を食べました。

  山歩きの行動中は、消化器に掛かる負担を軽くするためバナナとか、糖分の多い軽い行動食しか食べないので、下山地で蕎麦の類を食べて塩分とデンプンを補給するのが習わしになっています。
  三井寺門前風月の蕎麦は白くて柔らかい柔和な蕎麦でしたが味の濃いざる蕎麦の汁は、塩気が抜けた身体にはとてもありがたいものでした。

  山門から琵琶湖に向かってまっすぐ、500m ほど歩いた所で疎水の水路に架かっている橋を渡るとすぐのところに京阪電車の三井寺駅がありました。
  半ば路面電車のような2両連結の電車で膳所まで移動してJR線に乗継ぎ、草津に帰りました。

  この日は、山歩きが割とうまくできた上に、琵琶湖疎水トンネル入口を見られたり、三井寺に参観できたり。
充実した一日でした。

<ルートの詳細>







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☆6月1日(晴) 稲荷山-清水山-東山-粟田口
    京都東山 山巡りの三日目は、久し振りの 「非単独行」 でした。
年に一、二度ほど同行している老友が早朝東京を発って西下して来るのを京都駅で待ち合わせ、京都一周トレイル東南部の稲荷山-清水山-東山-粟田神社ルートを歩きました。
  伏見稲荷の喧騒には辟易しましたが、稲荷山四ツ辻から京都一周トレイルに入るとあたりの雰囲気は一変。
市街地の中に残っている丘陵の森を繋いでいるトレイルのウオーキングを楽しみました。
















東山頂上公園の展望
 
 (画像をクリックすると拡大)

<行動時間>
   草津[8:51]=(JR西明石行)=[9:13]京都[9:37]=(JR奈良線宇治行)=[9:42]稲荷(9:46)-伏見稲荷(9:49/51)-千本鳥居入口(10:00)-奥社(9:58)-四ツ辻(10:24/32)-稲荷山(10:43/45)-滝行場(10:52/55)-御膳谷奉拝所(11:00)-四ツ辻(11:06)-ゲート(11:17)-御寺泉涌寺(11:31/56)-今熊野/剣神社(12:09/13)-麺房やす鳥(12:16/40)-京女鳥部の森(12:57)-国道1号線トンネル(13:20/迷走/30)-清水山入口(13:36/49)-清水山(14:07/16)-清水寺・将軍塚分岐点石標(14:29)-山科道交差点石標(14:32)-東山山頂公園(14:42/54)-将軍塚入口ゲート(14:59)-元三大師堂(15:24)-粟田神社鳥居(15:29)-(15:38)蹴上[15:47]=(京都市営地下鉄)=[15:52]山科[16:20]=(JR米原行)=[16:35]草津-アーバンホテル草津{泊}

<ルートの概況>

  京都駅での待ち合わせは、大きな駅が混雑していた割にはうまくゆき、予定の電車で稲荷駅に行けたのですが奈良線電車の混雑や稲荷駅の大混雑にビックリしました。

「神社」は連日内外の参拝者が大勢押しかけ、「爆参」 状態になっているようです。
  他所の国には "神社" というものがないせいか?
赤鳥居のトンネルで派手派手しく飾られているのが珍しいのか?
はたまた、商売繁盛・五穀豊穣のご利益に授借りたいのか?

  本殿の左脇から山上の奥の院に向かう参道は「千本鳥居」と呼ばれていますが、熊鷹神社、三徳社、を経て四つ辻の先まで連続するトンネルを構成している鳥居の数は、1万本超もあるそうです。

 四ツ辻は頂上の一之宮への周回参詣路の原点で、僅かに広げられた道の両側に茶店が並んでいます。
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東山頂上公園の展望
 
 (画像をクリックすると拡大)

   茶屋の手前に展望台があり、野外ベンチの前の石造りの柵に寄ると京都中心街を見渡すことができました。

  四ツ辻で右折して石段を登って行き、下之社、中之社を過ぎると上之社が鎮座する稲荷山頂上に着きます。
鳥居の後ろの階の上に奥の宮の社殿がありますが、そのまわりには無数のミニ鳥居がギッシリ並べられていて、山上の神域とは言い難い、異様な雰囲気です。

  一之宮を拝んだあと裏参道に入ると、急な石段道の下りが続き、人影がめっきり減って静かになりました。

  長者社、薬力社、御膳谷方拝所を経て四つ辻に戻ってきましたが、途中には左のようなユニークな狐のオブジェがありました。 

  四ツ辻の脇に立っている標柱を確認して京都一周トレイルに入ると、たちまちまわりが静かになりました。

  静かになった御幸奉拝所参道を僅か進んだところに、大岩の塊を祀る祭祀が沢山集まっている伏見稲荷大社御幸奉拝所と呼ばれている祭祀がありました。

  それぞれに各地の信徒の名と年代が刻まれていましたが、中には昭和の年代が刻まれたものもありました。
  原始信仰の象徴とも言える大岩信仰が現代の稲荷神社にも受け継がれているのは興味深いと思いました。
  御幸奉拝所のすぐ先に電動式のリモコン車止めゲートがあり、その先で家並みの脇の坂道を下ってゆく所は鎌倉アルプスの尾根ルートを想起させる雰囲気がありました。

  左へ曲って行く道の縁に立っている標柱の脇から右下の斜面を下降すると深草車坂町の谷戸に降り着きました。
左折して入って行った今熊野の谷戸の住宅街は、時代離れした歴史タウンのようでした。
  谷戸の北側の山に取り付いて右手へ回りこんでゆくと三親王内親王の陵があり、そのわずか先に泉涌寺山門がありました。

  南北朝時代の北朝方三代の天皇(後光厳、後円融、後小松)の帰依を受けて建立された禁裏の御寺です。

  山門の左手にある楊貴妃堂と心照殿で展示されている寺宝を拝観したあと緩やかな坂を下って本堂を拝観しました。
東山三十六峰の第三十三峰に数えられている泉山の西側の山中には数多くの陵があります。

  山門を出た所で右折して北に向かい、今熊野観音堂の参道の橋の下を潜って進むと山の端の畑の縁に出て、左手に京都市街と愛宕山が見えました。

  今熊野の住宅街の中の要所に立っている標識を追跡して剣神社に辿り着きました。
中世は泉涌寺の守り神であったと言われている神社で、瓊々杵命と白山姫命を祭っていますが詳しい由緒は不明だそうです。

  お昼時になったので西に向かって坂を下って行ったら、もうすぐ東大路に出るという所に小さなそば屋がありました。
  地域の住民を客にしている感じのごく地味な店で、家庭料理風の栄養バランスの取れたセットメニューの昼食ができました。

 (画像をクリックすると拡大)

  他に客がいなかったのでゆっくり食休みをしたあと剣神社に戻り、トレイル・ウオークの続きを再開しました。

  谷戸の中にぎっしり建て込んでいる住宅街の中を縫って進んで行く所は、まるでパズル解きをしているかのようです。
藪山のルート・ファインディングとは全く異質の 「勘」 が必要でした。

  ルート標識の設置にも苦心の跡が窺われました。
左の写真をクリックする表示される拡大画像のように、水抜きパイプに差し込ん方向指示があって驚いたり感心したり。

  今熊野に給水するポンプ小屋の脇から山に上がって僅か進むと 「京女鳥部の森」と記した看板が立っていました。

この先の阿弥陀ヶ岳の麓に京都女子大学があります。
この山は丁度、京都大学に対する吉田山のような自然緑地ということになる訳ですが、こちらの方が格段ワイルドです。

  ゆるやかに登ったあと沢溝の上部を横に巻いてゆくとまわりが笹の林床の自然林になって山深い感じになりました。

  市街地に隣接しているところは吉田山と同様ですが、こちらの方が段違いに自然度が高いのは、この山の裏側一帯が平安時代から葬送地とされてきたためと思われます。

  京都府火葬場へ通じている道路に出るとすぐ、国道1号線に出合いましたが道路の向こう側に渡るためのトンネルが見つかりません。
  国道と阿弥陀ヶ峰の間の家並みの中をウロウロしていたら道端の家から人が出てきて丁寧に教えてくれました。
国道1号線の下を潜る人道トンネルは左の写真のようになっていて、山から出てきた所で突き当たった道路を横断した右手にあります。

  道迷いの原因は道路を渡った所に立っている京都一周トレイルの標柱だけでは不足なのを補うために設置された右向き矢印の標識板がごく目立たない所に掲出されていたため、見落としたせいでした。
標柱の脇から右折しなければならい所を左に進んでしまいました。

  少しばかりのタイムロスのあと、1号線の向かい側に渡る事ができ、高倉天皇御陵の石標の脇から急な石段を登って左折。
山の裾を巻いてゆくと清水寺へ500m ほどの所に道標が立っていて、右手の山に上がってゆく山道が分岐していました。

  道迷いで右往左往して心身ともに疲れたので山に入ったところにあった小平地にザックを下ろし、冷たいコーヒを飲んだりビスケットをかじったりして充電しました。
  入り口から清水山頂上までの標高差は約100m。
針葉樹の多い緩斜面の中を穏やかに折れ登ってゆくと徐々に傾斜が緩んできて平坦になり、野外ベンチが道端に並んでいる所に着きました。
  ベンチの前から東に向かって20m ほど入ると直径10m ほどの切り開きがあり、その真中に 242.2m の三角点標石が据えられてありました。
  清水山は東山三十六峰の第二十九峰で、頂上一帯は山林保護の実験場になっている旨を記した標識板があります。

  ベンチで休憩していたら自然保護活動の関係者のような人がやってきて、三角点のまわりで何かして行きました。

  清水寺の背後を通り過ぎたあたりからほっそりした尾根の下降になりました。

  ひと下りすると山科から京都中心部へ通じている旧道との交差点に着きました。
水っぽい鞍部で道端に池があって、その縁に古い道標石標が立っています。

  鞍部の向かい側の山に入り、ひと登りすると傾斜が緩んできました。
大きな石碑が立っている高みを過ぎるとまもなく行く手がパッと開けて広々した芝生になっている東山頂上公園に着きました。
手前側に東屋があり、遠くの方には比叡山が見えています。
  広場の北側へ車道が登ってきているのでマイカーやツアーバスできた人達が大勢います。
  広場の北端から西側に寄ったところに見晴台があり、柵の縁まで進むと、このセクションの冒頭にある写真のように京都中心街が一望でした。

  朝から歩き出してここまで、稲荷山、清水山、東山の三山を越えて来て、あとは粟田口に下ってオシマイという所まで来たのですが下降点がよく分かりません。

  もとは将軍塚を通り抜けてスンナリ粟田神社に行けたようですが新しいゲートが道路を塞いでいて先に進めません。
  暫くウロウロしたが先に進めないのでもとに戻り、「円山公園、八坂神社」への標柱の脇から一段下った所から笹薮の中の踏み跡を通って右側の柵の下のしっかりした歩道に戻りました。

  ルートに乗ったあと僅か進んだ所で右上を見ると写真のような展望台があり、大勢の人達が景色を眺めていました。
どうやら、この有料展望台ができたのに伴って京都一周トレイルのルートが遮られ、迂回しなければならなくなったようです。 

  何年か前の風水害の被害の跡を迂回するために造られた歩道を折れ下って山麓に近づくと間近に市街地が見えて来ました
右手に見える巨大な赤鳥居は平安神宮のようです。
 
 白壁の家並みの間に石段が断続する坂道を下って行くと山の麓の三条通りを走っている車の音が近づいてきました。
元三大師堂の前を通過してもうひと下りしたら三条通りに出ました。

  粟田神社参道入口の鳥居の前から緩やかに右手へ登って行く所の道路の向かい側は琵琶湖疏水のインクラインです。
NHK テレビの 「ブラタモリ」で有名になったせいか大勢の人々が歩いているのが見えました。

  坂の途中にある市営地下鉄蹴上駅まで歩いたところでこの日の 「山行」 を終了し、山科でJR線に乗り継いで草津に帰りました。

<ルートの詳細>







  ヤマレコの山行報告



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☆おわりに

    三日にわたって京都東山を歩きまわった結果、過去の分と合わせると京都一周トレイル東山区間の大部分と音羽山付近の府県境界尾根の半分ほどをカバーすることができました。

  市街地に隣接した里山に豊かな自然が残っているのが印象に残りました。
著名な観光スポットの裏山にあたる所が多かった訳ですが、観光ルートから僅か 100m かそこら外れただけで人影も稀にしか見られない静かなトレイル・ウオーキングを楽しめることが分かりました。

  京都の町の縁辺のあちこちで、平安時代から近代までの長い歴史が残した文化遺産を守って行きたいと考えている人達と、僅かな土地でも金儲けの種に使いたいと思っている人達との、鬩ぎ合いの跡を目撃できたように思います。

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