西上州縁辺 小幡の天狗山 (2014.11.8)


☆期日/天気/山行形式: 2014年11月8日(晴) 前夜泊日帰り
☆地形図(2万5千分1): 上野吉井(長野3号-2)、富岡(長野3号-1)
☆まえがき
    高崎で上信電鉄に乗り継いで世界遺産の製糸場がある上州富岡方面へ向かう途中、西吉井から福島のあたを進んでいるとき、南の方に見えるとても魅力的なカーブを描いている尾根筋が見えます。
2年前の7月に富岡に住んでいた父が亡くなったあとに残された旧居のあと始末で通う度に眺めているうちにますます気にかかるようになってきたので地形図を引っ張りだして調べてみました。

  藤岡市日野と甘楽町の境界になっている尾根筋で、いくつかある鞍部には、小梨峠、亀穴峠、焙烙峠など、歴史を感じさせる峠の名が書き込まれています。
稜線上に破線の書き込みはなく、アプローチもかなり不便ですが、どうにか工夫してこの尾根筋のトレースをしてみようと言う思いが募りました。

  天狗山はこの主稜上の830m 台の小ピークから北に向かって派生している支尾根上のささやかなコブで、山麓には戦国時代にこのあたりを支配していた小幡氏菩提の宝積寺があります。
地元では 「お天狗山」 と呼ばれ、古くから信仰登山の対象になっているようで、今は寺の脇から登るルートが整備されていることが分かったのでこの尾根筋へのファーストコンタクトとして登りに行ってみました。

  長い林道歩きで高度を稼ぎ、頂上の肩まで上がると西上州から上信国境への山並みが間近に居並んでいました。
頂上肩の鞍部から山の裏側に入り、白倉川源流域の小尾根の背に鎮座している白倉神社奥社から白倉川谷へ下降。 平石、引田を経て白倉へ下山しました。
白倉集落の中程にあった白倉神社里宮には、羊太夫との所縁を記した立て札が立っていました。
境内で昼休みをしたあと、大類から金井を経て上州新屋駅まで歩き、高崎経由、電車を乗り継いで帰りました。

天狗山頂上肩の展望    (画像をクリックすると拡大スクロール)
☆行動時間
    上州富岡駅[8:00]=(Taxi 2530円)=[8:20]宝積寺入口(8:25)-宝積寺 (8:38/45)-林道2.0Km標識(9:25)-桜公園(9:32)-菊が池分岐(9:47/10:00)-山道入口(10:13)-天狗山(10:25/40)-白倉神社奥社(10:43/47)-大滝水場(10:55/58)-林道末端(11:16)-最奥の人家(12:00)-お天狗山/平石磨崖仏入口の標識(12:18)-白倉神社里宮(12:44/13:05)-麻場城址入口(13:23)-(13:43)上州新屋駅[13:51]= (上信電鉄)=[14:17]高崎[14:29]=(JR高崎線)=[15:48]大宮[15:57]=(埼京線)=[16:35]渋谷

☆ルートの概況
   山行の前夜は富岡駅近くにある亡父の旧居に泊りました。
図書類を始めとする膨大な遺品の整理に手間が掛かり、2年半の期間を要しましたがようやく終結が見えてきて、11月一杯で隣家に譲渡できる段階に到達しました。 今度が最後の泊まりと言うことになります。

  天狗山のある小幡は富岡の隣町です。
以前は上州富岡駅前から小幡を通って秋畑までマイクロバスの路線が運行されていのですが、最近運行廃止になってしまったので、富岡駅前からタクシーでアプローチすることにしました。

  富岡市街の外れで鏑川を渡り、3Km ほど南下すると織田宗家が残した美しい大名庭園のある小幡です。

  さらにその先3Km ほど進むと道角に 「宝積寺」 と寺名を刻んだ石柱が立っています。
富岡駅から約20分でした。
秋晴れの空を背に連なっている山並みを見ながら支度を整えました。

  角から山に向かって歩き出すとすぐ古出神社があり、その鳥居の前から右手に曲がって行きます。
ゆるやかな坂を登って今度は左手に回ってゆくと特徴のある形の石灯籠とそのまわりに石地蔵が並んでいる塚があります。
行く手の山裾に寺の本堂の屋根が見えてきました。

  坂の上から石段を登ると本堂の前庭で、シダレ桜の巨木が立っていました。
この寺は花の寺として有名だそうです。
  本堂で拝んだあと石段の下の道に戻り、石垣の上に 「お天狗山→」 と記した道標が立っているのを確認した上で右手へにゆく舗装林道を進みました。
  林道は何度か折れ曲がったり分岐したりしながら登ってゆきました。
進路が紛らわい所もありましたが要は舗装された本道追ってゆけば正解、ということが分かりました。

  山の中腹まで上がると左手の視界が開けました。
この辺りは桜公園と呼ばれているようで、 関東平野の西端を流れている鏑川に沿った河岸段丘の平地、その先には上信国境の山並みと榛名山が一望でした。

天狗山中腹桜の肩の展望    (画像をクリックすると拡大スクロール)
 

  舗装路が尽きて砂利道になったあと僅か進んだ所にT字路があって左手に道が分岐していました。

  角に立っている道標には、直進するとお菊の池。
天狗山頂上へは左折するよう指示している腕木が取り付けてあったので左折。

  杉林の間を進んで行ったあと尾根の裏側に回り込んでゆくと左上に頂稜が見えてきました。

  左下に伐採地を見ながら進んでゆくと山の懐に突き当たりました。
車道の末端に立っている道標が左手の伐採地に上がる藪道を指示していました。

天狗山肩の道標と頂上  (画像をクリックすると拡大)

  伐採地の中に出るとまわりが開け、ひと登りで小さな鞍部に着きました。
 
  鞍部の左手100m ほどの所にあるささやかな高みが頂上で、三角点標石と山名を記した標識が立っていました。
至って地味な雰囲気の山頂で、登りに来る人もあまり多くなさそうでした。

  南側が伐採されていて間近かに市町境界稜線が見えました。
ここから見てもなかなか形の良い尾根筋です。


  紅葉が終わり、そろそろ冬が始まる気配が漂っている山並みを眺めながら暫く休憩したあと鞍部に戻りました。

  尾根の裏側の急な斜面を斜めに下ってゆく足場の悪い道を進むと白倉神社の奥社に着きました。
険阻な山の裏側の小尾根の背の僅かな平坦地一杯に本殿と参籠小屋と神楽殿が配置されていて、あたりに森厳な雰囲気が漂っていました。
 
 
  鳥居の下から左手に下り、小尾根の上に乗ったところに「白倉登山口」と記した道標が立っていました。
小尾根から右手にひと下りした沢底に古い小屋がありました。
  老朽して床が大部分抜け落ちていましたが、外壁の板のあちこちに直径10cm ほどの丸い穴が開いているのが不思議でした。
何かの動物の仕業なのでしょうが、ひとつではなく、5つも6っつも開けあるのは何故なんだろう?と思いました。

  ガラガラで歩き難い沢溝を下ってゆくと右岸に樋が架けられ、引き水が流れ出していました。
しめ縄が張られ、脇の樹木に「大滝」と記したプレートが取り付けてありました。
 
  小さな沢でしたが岩の質のせいか意外に地形が険阻でした。
狭い岩溝の谷が続き、巻き道やへつりが連續しましたが、やがて溝幅が広がってくると流れの上に鉄の仮橋が架けられていて左岸に移りました。
 
  左岸に移るとすぐ、しめ縄が張られた清水があり、流水でぬかった所を越えた所から未舗装の林道が始まりました。

  林道を僅か進んだ所に急角度に右折して高度を下げる曲がり角があり、角にスクータが停まっていました。
近くに人の気配はありませんでしたが多分、キノコ採りか何かで山に入った人が乗ってきたのではないか、と思いました。
 
  スクータの折れ下りを過ぎるとすぐ舗装路になりました。
杉林の中を進んでゆくと徐々に谷が開けてきて、「平石の磨崖仏入口 400m」 と記した標識が見えたりして、人里に近づいている気配が感じられるようになりました。
 
  谷が広がり、道の脇に平地が現れると梅林らしい畑地があり、まもなく最奥の人家が見えてきました。
山を背にした母屋の前の庭にいろいろな花が咲いていて綺麗でした。
    平石の集落を過ぎ、上引田の集落に入ると右折して橋を渡り、すぐに左折するところがありました。

  歩きでも車でも迷いやすい所と思いましたが、それぞれの角にしかるべき案内標識がありますから、注意していれば道を間違えることはないでしょう。

  上信越道の下を潜った所で左手の台地の上にあがったところに 「かんらの湯」 があります。
時間の余裕があったら立ち寄り入浴をしてゆきたいと思っていましたが、そちらに行く道が見つかりません!
    人家の庭先を掠めて台地の崖を登れば行けそうに見えましたが、そうまでして湯に入りたいほどの意欲はないのでそのまま道なりに歩いていたら石鳥居が立っていました。

  こじんまりした神社ながら、玉石が敷かれた境内は綺麗で良い感じです。
鳥居に架かっている額に白倉神社と記されていて、山中にあった神社の里宮と分かりました。
本殿の脇に立っている立札には、古代この一帯に居た渡来人グループの頭、羊太夫との所縁が記されていました。
500の円の寄進で絵馬1枚、と記した箱があったので、開運のふた文字と天狗の顔が描かれた絵馬を頂き、この日の山歩きの無事への感謝を捧げました。
 
  かんらの湯には入り損ねましたが白倉神社の境内で長い休憩をして英気を養い、最後の行程へスタートしました。

 大類本村の中で道路工事をしていたため、少しばかり行ったり来たりしましたが、そのほかの里道のルートはタブレット内蔵GPS と地図アプリのお陰で的確に選択できました。
麻場城址入口と記した標識がある山裾の道から田畑の間の農道を道を歩き、上州新屋駅から1Km ほど西で国道254号線に出合いました。

  大型トラックがひっきりなしに走ってくる国道を500m ほど歩いた所で橋を渡ると東袂に姥子堂がありました。
このお堂は近くにある宝勝寺の隠居寺だったと言う記録が残っているそうです。

  姥子堂の先300m 程のところで左折。 500m ほど進むと上信電鉄上州新屋駅でした。

  かわいい感じのするこじんまりした駅舎でしたが、たまたま、あと5分ほどで高崎行電車が来ると言う最高のタイミングで、山支度を仕舞うと同時に電車が来ました。

☆ルートの詳細

  ヤマレコの山行記録

  Flickr の元画像スライドショー


  ルートマップ
       (国土地理院地形図を下図にカシミールで GPS 軌跡を記入)
ページ先頭へ    
☆おわりに
    小幡の天狗山は小さな里山でした意外に山っぽく、面白い山でした。
登りは長い車道歩きでしたが車は全く見えず、進むにつれて山深い感じになって来ました。
頂上は支稜上の小さなコブに過ぎませんでしたが、目の前に市町境界稜線を見られる居心地の良い所でした。
下降ルートは頂上直下にある白倉神社奥社の参道を下った形となりました。
お天狗様の通り道に相応し く、林道に出るまでは小さな里山の谷には不似合いに地形が険阻な谷でした。


◇以下、山とは関係がないのですがほかに適当な場所がないまま、とりあえずここに書き込んでおきます。

    今回の山行の前夜に泊まったのは2012年7月に97歳で亡くなった親父が住んでいた家でした。
亡父は 「田舎文士」 とでも言えば良いかも、と思われる人間で、ペンネーム(斎田朋雄)を名乗り、晩年はまわりから 「斎田先生」 と呼ばれていました。
同人雑誌(西毛文学)を60年余りもの長期間にわたって発行を続けたほか、自作の詩集や近在から輩出した文人に光を当てる評伝など、幾冊かのハードカバー本を出し、あの世に逝ったあとには膨大な量の文学書を遺しました。

  旧居のあと始末にあたっては、大量の書籍・雑誌・手書原稿などのうち、群馬の文化遺産として保存する価値があると思われるものを選抜。 県立文学館などに寄贈し保存してもらうなど、通常の遺品処理とはかなり様相が異なる作業を行う必要に迫られました。

  作業を進めるにあたっては近在の親戚や文学仲間などの支援を受けることができましたが 「文化遺産」 のあらかたのレスキューができたかな、と感じられる段階に到達するのに2年あまりもの長期間を要しました。
時間や費用はともかく、相当の体力をつぎ込むこととなったのが厳しいことでした。(本は重たい!)

  父親としては少々問題があったりして反発。、晩年になってからははかばかしいコミュニケーションもできない状態が続いていたのが、あと始末の過程でもろもろの書き物に目を通しているうちに、どのような思いでどのような行動をしていた人間だのか、ある程度の理解が得らたように思われます。

  幸運だったのは、独居生活ができなくなって老人ホームに入ったあとの面倒見で定期的に富岡に行くようになった時期が、富岡製糸場とその関連遺跡が世界遺産候補として申請され、UNESCOによる審査が始まり、製糸場の存在が国内外に知られるようになった時期と、ほぼ同じになったことでした。

  周知のように富岡製糸場を中心とする絹産業遺産群は、王侯貴族の物だった絹を世界の大衆に普及したことが高く評価され、地元の関係者も驚くほどの早さで世界遺産登録が実現しました。
さらに、製糸場の建物は我が国産業近代化の重要なマイルストーンとして群馬県内唯一の国宝に指定されました。
この時期に足繁く富岡に通い、亡父と関わりがあった地元の人々と接触する機会を得て多くのことを学びました。

  遥か25年ほどもの昔、亡父を含む数人の田舎のおじさんサークルが、至極素朴な動機で立ち上げた文化運動(富岡製糸場を愛する会)が、長い間の紆余曲折を経て、富岡製糸場世界遺産登録、と言う慶事の濫觴なのだそうです。
「羊庵」 と記した看板を掲げていた旧居家屋の始末も隣家に無償で譲渡すことで決着となったのをはじめ、身内には金銭的に価値のあるものは一切遺さずに逝ったのですが、それと引き換えに、地方文化への幾ばくかの貢献をのこし、世界遺産と言う地域の宝の誕生に関わった記憶を残しました。
子供にとっては、誇らしいというよりむしろ、羨ましいと感じられます。

  富岡の町について言えば、関東平野の隅っこの、やや衰退の影が兆していた田舎町の人通りが次第に増え、通りに面した家並みの薄汚れたガラス戸が綺麗に磨き上げられ、住民の身支度がこざっぱりしてくるさまは、まるで老女が若返って思春期に立ち戻るような魔術を目の当たりにしている感があり、ワクワクする見ものでした。