伊勢路Ⅱ-3、赤羽口-三浦峠-始神峠-相賀 (2008.10.23-24)


☆地形図(2万5千分1): 長島(伊勢11号-4)、島勝浦(伊勢12号-3)
☆まえがき
   前の日にツヅラト峠を越え、赤羽口で海沿いの国道に到達した。
この日からは、紀伊半島東南部のリアス式海岸の入り江と入り江を区切る峠を次々に越してゆくようになる。
朝から雨模様だったが古道の峠道なら、少々の雨は森が庇ってくれ、国道を疾駆する車が巻きあげる泥しぶきを浴びることもない。
メンバーの調子によってゆける所まで行ってみようと言う心積もりで赤羽口から歩き出した。

☆行動記録とルートの状況
10月23日 (雨ときどき曇 21.2Km)
<タイム記録>

    ホテル季の座(8:00)=(宿の送迎車)=加田赤羽口(8:15)-(2.1Km)-一石峠(8:44)-(4.1Km)-三浦峠(10:15)-(4.4Km)-始神さくら広場(11:00/30)-始神峠(12:05/20)-(2.3Km)-宮谷池(12:54)-休憩所トイレ(13:04/13:10)-(2.9Km)-馬瀬レストランアメリカ(13:25/14:15)-船津駅入り口(14:58)-(1.2Km)-海山郷土資料館(15:15/25)-(4.2Km)-(16:05)相賀駅[16:36]=[16:53]紀伊長島駅=(宿の送迎車)=(17:10)ホテル季の座

  赤羽口の造船所の裏にあるコンビニの駐車場から歩き出した。
空模様は非常に芳しくない。

  国道を僅か進んだところに立っていた道標に従って一石峠/平方峠への歩道に入った。

  杉林の中の土道をひと登りして一石峠に着いた。


  山脇の穏やかな道を進んで車道に出会った先が平方峠で、行く手の左に古里の集落と入り江が見えてきた。
なんとなく懐かしい雰囲気の漂う景色だった。

  温泉宿の看板のある古里集落の端を掠めて海際を歩いてゆくと、松島のミニ版のような景色が見えた。

  国道のトンネルの脇から右手の山を越して道瀬にくだり、防波堤の壁に沿って歩いて行ったところに喫茶店があった。

  一石峠は楽な峠越えだったが出発してから1時間あまり歩いていた。
朝早いからどうかなぁ、と思いながらドアをあけて見たらお婆さんがいた。
  遠い宮城県の方から流れてきてここに住み着いたのだそうだが、近くの海のアワビ(?)の漁業権を持っていて、韓国人の海女を雇って漁をさせていると言う。

  話を聞いているうちに GPS の電源を入れ忘れていたことに気がついた。

  おばぁちゃんのコーヒーと話に元気を貰って三浦峠の登りに掛かった。
穏やかな登り坂を歩いて着いた峠は切通しになっていて、鎌倉アルプスを連想した。
  山の裏側に回りこみ、緩やかに下ってゆくと熊谷橋があった。
古い橋脚を生かして再建した熊谷道の橋は山道に相応しくないほど立派だった。
かつては物資が運ばれる交通路だったに違いない。

  三野瀬の駅前を通り過ぎて国道に出たあたりで食べ物屋探しが始まった。
昼時までは間があったが朝食が早かったので腹が空いてきていた。
雨模様が濃厚になっていたので始神峠の登りに掛かる前に腹拵えしておきたかった。

  道端の食堂で聞いてみたら営業は5時からだという。
道向かいのホテルは廃業ということでお手上げ。
仕方ないので峠の入り口にあるさくら広場の東屋に入って腹拵えと雨支度をした。

  峠に向かい、発電所の裏側の柵に沿って歩き出したところに鈴木牧之の句をふたつ記した立て札が立っていた。
  牧之は雪国越後小千谷の人だ。
草木が繁茂し、海の幸豊かな南国の旅では大いに感激したに違いない。 

  沢溝を渡る板橋が雨で濡れて滑り易くなっていて、ひとりが転倒した。
ヒヤッとしたが怪我もせずに済んだのは幸運だった。

  杉林の中を40分弱登ってゆったりした鞍部の始神峠に上がった。
昔、峠の茶屋があったといい、その跡と思われる小広場があった。

  江戸道から峠に上がったが、下り始めの部分は明治道と重なって緩やかで幅が広い。

  僅か進んだところで、左下の小尾根を直降してゆく江戸道と、北側の小尾根を回ってゆく明治道とが分かれていた。
このグループでは古い方の道を歩くのが約束事になっているのだが、雨で濡れている小尾根の急降下は嬉しくない。
相談の結果、車のしぶきが舞う国道を歩く距離が長くなるのも嫌だと言うことで、明治道に乗り換えることに決めた。

  明治道は物資輸送の車も通ったようで幅広く、穏やかな下り坂が続いた。



  下部の自然林や、谷間から出る所にあった貯水池は風情があった。


  谷を出たところにある集落の道端に東屋と新しい公衆トイレがあった。
トイレの手入れをしていたおじさんに食べ物屋の事を聞いてみた。
国道に出て少し行くと、"アメリカ" という名の店があると教えてくれた。
  年は取ってもお腹は若い者が多い所へ、食べ物屋があると聞いたので早速出発。
折からの篠突く雨の中をガンガン歩いて店に飛び込んだ。
  店の名が変わっているのでどんな所か興味があったが、要するにアメリカ・オタクの店で、流れている BGM はジャズ。
壁には往年のアメリカ名画のポスターが貼ってあった。
定食のランチやスパゲッティィなどを食べたあと、コーヒを飲んだが、中には鄙には稀な(?)カナダドライを注文した者もいた。
  食べものと長休みとのお蔭で元気を取り戻し、また道に戻って先に進んだ。

  30分ほどで上里の庄治屋の前を通過し、さらに15分足らずで船津駅入口に着いた。

  この日歩くのは船津までという計画だったのだが、まだ時間も早いので、もうひと頑張りして次の相賀駅まで行ってしまおうということになった。

  天気図のパターンがかなり悪く、次の日はもっと天気が悪くなる可能性大だった。

  しばらくの間、車が巻き上げる飛沫を避けながら国道を歩いたあと旧道に入ると、立派な石灯篭と鳥居を持つ八重垣神社があった。

  八重垣神社の先の、交番と向かい合わせに海山町歴史郷土資料館があった。
私邸の古い洋館を利用したものだそうだが、小ながら形の整った建物で、内部にはさまざまなものが展示されていた。

  相賀まで歩くとすればまだ先が長かったのと、展示物の大部分は靴を脱いで上がらないと見られなかったのとで、早々に辞すことになったのは残念だったが、ほかに人がいなかったのを幸い、玄関で集合写真を撮って外に出た。
  郷土資料館から相賀駅まで4Km あまり。
昔風の人家が残っている集落の中を歩いたり、国道に出たりを繰り返し、40分ほどで全員元気に歩ききった。
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10月24日(雨のち曇)
<タイム記録>

    ホテル季の座(9:30)=(宿の送迎車)=(9:45)紀伊長島駅[10:13]=(南紀#4)=[12:18]名古屋[13:33]=(ヒカリ#372)=[15:21]新横浜=あざみ野=宮崎台

  前日頑張ったお蔭で予定した行程は歩き切っていた。
もうひと頑張りして馬越峠を越して帰ろう、という話も出ていたが、深い気圧の谷を伴った低気圧が紀伊半島の真上に来ていて、天気図は最悪のパターンだった。

  昼まで降るのは間違いなし、という判断で古道ウオークは中止、昼前の列車で帰ることにした。
3日の泊まりの夕食の会話に花を添えてくれた女将さんにも加わってもらい、玄関で記念写真を撮影した。

  この4日、何度か出入してお馴染みとなった紀伊長島駅までバスで送ってもらい、午前の特急に乗って家路に就いた。
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☆おわりに
  出発前に出ていた週間予報で稀な好天に恵まれるかも、と期待していたが、結局のところは、いつもと同じような天気のパターンで、後半はしっかり降られた。
小なりとはいえ、雨の中を三つの峠を越しながら約22Km の長丁場を消化できたのは大きな成果だった。

  グループが発足したときはバラバラだった脚力が、僅か2年足らずの間にここまで揃ってきたのは、メンバーの年齢を考えれば、驚異的だ。
来年春の第三回は伊勢路歩きのハイライトで、馬越峠、八鬼山峠、羽後峠、甫母峠、逢神坂峠と、ちょっとしたファミリーハイク顔負けの峠越えが連続する伊勢路最大の難関である。
しかし、大雨や嵐に遭うようなことさえなければ、十分突破できるだろう。

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