紀伊田辺史跡巡り (2007.10.24)


☆期日/山行形式:
2007年10月24日(晴れのち曇り)

☆地形図(5万分1): 田辺(田辺10号)

☆まえがき
    田辺の宿泊先ホテルに午後4時集合、という約束で高野山組と直行組が合流することになっていた。

ユックリ家を出ても新横浜から新大阪に行き、特急に乗り継げば午後早い時間に紀伊田辺駅に着けるから集合時間までの間、市中に残っている熊野参詣道の遺跡や、弁慶・湛増親子、南方熊楠の史跡などを見て歩くことができるだろうと考えた。

田辺駅に着いてすぐ、荷物を預け、身軽になって町を歩こうと、ホテルに行ったら、ちょうど高野山組がドライブを終えて着き、休憩しているところだった。

  高野山や、ここまで走ってきた龍神スカイラインの様子などを聞きながらひと休みしたあと、全員連れ立って市中歴史散策に出た。
散策ルートは概略下の地図の通り。
道のり約5.5Km の賑やかな歴史散策だった。

紀伊田辺歴史散策ルート  (クリックで拡大)
行動記録とルートの状況
<タイム記録>

   宮崎台[7:07]=あざみ野=新横浜[7:53]=(ヒカリ#363)=[10:36]新大阪[11:03]=(スーパークロシオ#13)=[13:06]紀伊田辺駅-紀伊田辺シティー・プラザ・ホテル(13:15/13:40)-蟻通神社(13:55/14:00)-道分け石(14:05)-出発王子(14:25/30)-弁慶松(15:10/15)-南方熊楠旧居(15:25/16:10)-闘けい神社(16:25/40)-(16:50)ホテル


◆ホテルから駅前通りに戻り、西に向かって200m 程進んだ所を右に折れると昔からの商店が並んだ通りになる。
地方都市には珍しく、シャッター街になっていない。
古道ブームのおかげで来る人が増え、衰退を免れているのかも、と思った。

  十字路の角に "左くまの、右きいみいでら" と刻んだ石柱が立っていた。
奥駈道のあちこちにある祈祷所で "紀伊三井寺" と墨書きした木簡を見てきたが、これらはこの寺の行者グループの通過サインだった。

  通りを直進し、突き当たった所(ここにも石柱がある)を左折、次の角を右折して行くと会津橋が架かっている。
  昔からある橋で、その旨を記した看板が立っている。
対岸に渡り、集落の間を行くと出立王子跡に着く。
中辺路の起点を示すランドマークだ。

  後鳥羽上皇が熊野詣をした際、このあたりで倒幕の謀をされ、下手の浜で塩垢離をされたと伝えられているのに、明治の神社合併で廃却されたことに南方熊楠が憤激、抗議したと言う。

  塩垢離浜跡は出立王子の南西約200m の小園地だった。(左)

  川口に架かる橋を市街地側に渡った所に錦水公園があって、田辺城水門が残されている。
田辺城はここから堀に水を引き入れていたと言う。

  水門跡から南に500m 程歩いた市役所の裏庭に弁慶松と弁慶産湯の井戸があった。
松は6代目、井戸は木枠が置いてあるだけ、いずれも少々怪しい物のような気がした。


  弁慶松から北に向かって6、7分歩いたところに南方熊楠の旧居がある。
熊楠一家が暮らした旧居と、その横手に新しく建てられたアーカイブ館: 顕彰館とから成り立つ歴史遺産施設だ。

  まず顕彰館に入った。
稀代の俊英の足跡を記したパネル、膨大な洋漢の文献、Nature 誌への寄稿を含む多くの著作物など、さまざまな資料が展示されている。
受付の娘さんが連絡してくれたのか、学術員らしい男が出てきて詳しい解説や、質問への回答をしてくれた。

  熊楠の膨大な業績資料の解読整理が精力的に進められており、いずれウエブサイトを開設してその成果を公開する計画という。


  熊楠旧居から徒歩10分足らずで闘鶏神社に着いた。

  熊野別当堪増が、平家と源氏いずれに就くか、鶏を戦わせて占ったという伝説が残る神社だ。
想像を遥かに超えた大神社だったので驚いた。
並び立つ神殿と、そこに祭られている神の数は、日本第一と称している熊野本宮大社より多いのではないかと思った。

  熊楠が娶った妻もここの神官の娘だと言う。


  社殿の向かいの社務所の前に弁慶・堪増親子の像が立っていた。
京の都の僧院は、今の世に引き比べれば首都圏にある大学のような高等教育機関であろう。

  熊野の首領だった堪増は、文武の学習と都の情勢偵察を兼ねて息子を都の大学に留学させていたと考えれば分かりやすい。

  堪増は、息子が齎した都の情報にもとづいて早くから決断しており、闘鶏は周囲の者を説得するための儀式だった、と言うのは的が外れた想像だろうか?

  闘鶏神社から10分も掛からずにホテルに帰りついた。
翌朝の出発が早いので朝食と中辺路の途中で食べる昼食の調達が必要だった。
ホテルが入っているビルの地階がショッピングセンターになっていたのは便利だった。

  夜は賑やかに会食を行い、翌朝の出発の要領を確認して早く寝た。
寝る前に確認したテレビの天気予報と携帯の予想天気図はかなり芳しくなかった。
中辺路歩きで雨に遭うことは必至と覚悟した。

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☆おわりに
  紀伊半島の西南コーナに近く、太平洋に面した海辺にある紀伊田辺は、気候温暖で海山の物産に恵まれ歴史豊かな町だった。
市中の散策は中辺路歩きに先立つ軽い足慣らしの積もりだったのだが、図らずも充実した歴史散策になった。