大田 子育て呑龍大光院から金山 (2018.4.17) |
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☆期日/天気/山行形式: 2018年4月17日(曇) 単独日帰り軽ハイキング ☆地形図(2万5千分1): 上野境(宇都宮11号-3)、足利南部(11号-1) ☆まえがき 子供時代に親しんだ上毛かるたの一枚に "大田 金山子育て呑龍" というのがありました。 同じ群馬県内でも、信州の佐久や武州の秩父に近い吉井・富岡あたりの西毛地方と、足利・佐野に近い東毛の桐生・大田は文化や気風が違います。 相互をつなぐ交通の便が悪く、東京へ行くより大変だったりするので交流も盛んではないようです。 目立った山もないため、どこかの山への行き帰りに通ったことはあっても、まともに訪ねるために足を向けた記憶がありません。 年取って低い山を歩きまわる事が多くなると山城と出遭うことが多くなりました。 里山の地形を巧妙に利用し、緻密な計画に基づいて微地形を改変する事によって構築した、中世山城は石垣の上に聳え立つ天守閣が象徴する近世城郭に比べると地味ですが、なかなか興味深い面があります。 太田金山城は北関東に散在する中世山城の代表格であるばかりか、全国百名城のひとつに数えられていて、全国レベルでも中世城郭の代表とされている名城であることを知り、是非訪ねて見たいと思うようになりました。 金山とは言い上、山登りというより城址探訪になるので天気は選ばないこととして、曇りの予報が出ている日に出かけてみたら、雲が低く垂れ込めて大気が淀み、はかばかしい展望が得られませんでしたが山城の探訪には差し支えありませんでした。 遠くから眺めた金山はどうということもない平凡な里山に見えましたが、実際に立ち入って見ると意外に岩っぽく、岩盤の上に松林が広がっているような山でした。 頂稜に沿って石積みの防御施設が連なり、非常に堅固な防御システムを備えた山城だったことが分かりました。 南北朝の抗争が、新田と、足利と、隣り合った郷から出ていった武将に率いられた軍勢の間で行われたことを実感しました。 山麓にある古刹 大光院は詳くは義重山大光院新田寺で、徳川家康が先祖と敬う新田義重を祀るため、呑龍上人を招聘して慶長18年(1613年)に創建した寺であることを学びました。 関東地方の辺境地帯で、ごく地味系の群馬県が、中世から近世にかけて中央政権と深く関わっていた歴史を持っていることを知りました。 |
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222.3m 三角点付近展望台から西方の眺め (画像をクリックすると拡大) |
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☆行動時間 宮崎台[6:41]=(東急・東武線)=二子玉川=東武動物公園=館林=[9:51]大田(10:05)-子育て呑龍様大光院(10:50/11:02)-金龍寺(11:10/17)-金山城跡ガイダンス施設(11:25/45)-展望台(11:59)-金山総合公園駐車場(12:07/10)-物見台(12:24/28)-金山城跡(12:36/)-新田神社・本丸跡(12:45/13:02)-南曲輪休憩所(13:05/28)-駐車場(13:39)-東屋の十字路(13:53)-大光院(14:15/15:00)-焼饅頭屋(15:08/18)-(15:30)大田駅[15:58]=(東武りょうもう34号)=[17:11]北千住=二子玉川=[18:27]宮崎台 ☆ルートの概況 |
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もと、大田・桐生は交通不便で割と行き難い所でしたが東急線と東武線がメトロ半蔵門線を介して相互乗り入れするようになってからは格段便利が良くなりました。 最寄り駅で電車に乗ると、乗換なして東武森林公園まで行きつけ、伊勢崎線に乗り継いだら3時間あまりで大田に到着してしまいました。 大田はかつて、中島飛行機の本拠地として繁栄した歴史を持つ北関東の工業中心です。 戦後、スバル360 で栄えたあと一時沈滞していた時期もあったようですが、最近は "プレミアムカー・スバル" で復活。 "SUBARU" の里として世界に知れわたり、駅舎も超モダンな建物に建て代わっていました。 |
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高度車社会の町になっているせいか駅から大光院へは路線バスもなく、徒歩によるアプローチが必要でした。 どことなくレトロな雰囲気が残っている表通りのすぐ後ろには群馬大学工学部のキャンパスがあったりして気分の良い街歩きができました。 八瀬川に突き当たると桜並木に沿ったレンガ畳の遊歩道になりました。 |
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左手に曲がってゆく川から別れ、右手の道を進むと参道っぽい雰囲気になり、行く手に大光院の吉祥門が見えてきました。 |
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大光院は徳川家康がルーツとして仰ぐ上野源氏 新田義重を祀るため、呑龍上人を招いて建立した浄土宗の寺です。 "子育て呑龍さま" の名は呑龍上人が恵まれない子供達を引き取って養育したことに対する敬称だそうです。 前の大戦で活躍した キ49 一〇〇式高速重武装重爆撃機は "呑龍" の愛称を持っていたことはヒコーキ好きなら誰でも知っています。 龍を呑むという字面の勇ましさで採用されたのでしょうが、慈悲の心の権化だった呑龍上人の実像とはかけ離れているように思います。 |
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大光院の臥龍松 (クリックすると拡大) |
境内には左右に枝を大きく張り出した臥龍の松がありました。 この松と本堂の間の広い庭では春のイベント会場のテントの設置作業が行われていました。 |
大光院を出てスバルの工場の脇の道路を進んで行くと10分程で金龍寺の入口に着きました。 金山城主だった横瀬氏菩提の寺ですが参道入口脇に立っている新田義貞供養塔を拝観しただけで先に進みました。 |
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谷間の道にもかかわらず車の交通が頻繁な道路を進んでゆくと左脇に超モダンな建物が現れました。 " 史跡 金山城跡ガイダンス施設" と言う長ったらしい名前の建物ですが各地の観光スポットにあるビジターセンターにこの地域の交流センターの機能を付け加えたものでした。 建隈研吾氏のデザインによるユニークな外観は、金山城の石垣をイメージしたものだそうです。 |
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15世紀後半に岩松氏によって築城されてから16世紀末に北条氏が豊臣勢に敗北するまで存続した城跡です。 徳川時代になると幕府に献上される松茸を採る山として維持されたと言う歴史を学びました。 絵地図による城跡の解説が印刷されているパンフレットを貰って外に出ると玄関先に橋が架かっていて、それを渡った先から右手に上がって行く山道がありました。 |
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やや急な斜面を折れ登ってゆくと背後が開けてきました。 やがて大田の市街が見えるようになると急斜面に懸け造り風に立てた櫓に乗った東屋の展望台がありました。 |
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展望台からひと登りで広い車止め広場に登り着きました。 車で城址を見に来る人達はここに駐車するようです。 |
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広場の奥に立っている案内板の脇を登れば頂稜の一角で、右折して僅か進むと西城筋違城門跡と刻まれた石柱が立っている広場があります。 |
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なだらかな尾根の背を進んでゆくと左脇に近づいてきた車道から入る道の角に東屋があり、"史跡 金山城跡" と刻まれた石の門柱が立っていました。 |
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門柱の先の道は、左のように片側が露岩の壁になっていました。 この山は、足利郊外の両崖山や大坊山あたりの山と同じ地質で、表面を覆っている薄い地層を剥ぐとそのすぐ下は岩山になっているようです。 |
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小高くなった所は西矢倉台でした。 その先は尾根が切り取られた堀切で橋が架けられていました。 もとの橋は城攻めにあったときは引き込んで渡れないようにできる引橋だったと思われます。 |
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橋を渡っていった先は右下に縦堀を見下ろす狭い通路になっていました。 八王子の滝山城や高崎の箕輪城、小幡の国峰城などと違って石畳が多用されているのは地質の違いによるのでしょう。 |
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馬場下通路 (クリックすると拡大) |
次は西矢倉台通路で、土橋の先に四角い土塁が築かれ、通路を狭めるとともに前方の視界を妨げています。 |
左手の尾根の背に上がった所は細長い平地になっていて、奥の方に展望台が見えました。 台に上がると東の方への視界が広がり、パージ冒頭のパノラマ写真のような眺めが見られました。 雲が低く垂れ込め、大気が靄って遠くの山は愚か桐生の先の町並みさえ定かには見えないのは残念でした。 |
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展望台のわずか本丸よりに 222.3m 三角点標石がありました。 2万5千分1地形図に書き込まれていますから正規の国土地理院三角点に違いないのですが、各地でみる三角点標石よりひと回りサイズが小さく、大抵の三角点標石の脇に立っている白杭もありません。 |
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馬場曲輪 (クリックすると拡大) |
先に進んで右手が開けた所は馬場曲輪でした。 |
大手虎口 (クリックすると拡大) |
その先は石畳と石垣で構成された複雑な廊下になり、いよいよこの城の核心部に差し掛かって来た雰囲気になりました。 |
丸い石垣で囲まれた大きな日の池がありました。 手前にあるってもっと小さい月ノ池とともに山城に取って非常に重要な設備である水の手です。 |
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新田神社 (クリックすると拡大) |
私有地立入禁止の立て札の前を通って右手に進むと金山の大けやきの前で新田神社の参道とT字に出合いました。 左手の石段を上がった所に本殿があるのは、かつて金山城の本丸があった場所でした。 傷んだ石段がを補修する工事が行われていたようで、その右脇を上がる板張りの通路が設置されていました。 |
本殿はこじんまりした神明造りで右脇に由緒を記した立て看板が立っていて、正式に神社として神殿が建てられたのは明治になってからと記されていました。 前の戦争が終わるまでの日本史の教科書に、新田義貞は楠木正成とともに逆賊足利と戦った忠義の武将として讃えられていました。 この神社はその史観に対応するものとして建立されたのかも知れません。 |
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神殿右脇の金山最高点には口径20センチほどの砲弾弾頭がコンクリート台座の上に立てられていました。 弾頭を囲む柵に "金山山頂 239m" と記した札が取り付けてあります。 |
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本丸曲輪の北側の縁の近くにはいくつかの石が並べられていて、大正天皇・秩父宮殿下・昭和天皇・高松宮殿下・三笠宮殿下が腰掛けられたと記した立て札が立っていました。 |
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本殿の左横に御嶽神社の社殿がありました。 社殿の前に立っている看板には、金山山頂の草むらにあった石祠と、太田市下田島の岩松新田家に祀られていた御嶽大神の社殿とをここに合祀した旨の由緒が記されていました。 |
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金山の麓、頂上から東北約1km ほどの所にある曹源寺のさざえ堂に立ち寄ってみたいと思っていました。 下降点を探すため本丸跡の北側に下ると武者走り跡の石柱が立っていましたがさざえ堂に行くにはどちらへ進めば良いのか分かりません。 参道に戻って石鳥居の周りを探ってみましたが要領を得ず、ウロウロしているうちに雲行きがおかしくなって霧雨のようなものが漂ってきたので下降路探しをギブアップ。 大光院の方へ戻ることにしました。 |
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写真の説明 (画像をクリックすると拡大) |
鳥居の脇から右手に降りると南曲輪の広場で、車道末端を見下ろす土手の上に立つと大田の市街を見渡すことができました。 晴れていれば筑波山、丹沢、秩父の山並みと富士山まで見える展望点だそうですがこの日はすぐ隣の足利の里山さえ見えませんでした。 |
南曲輪広場の日ノ池側の縁に中島知久平の胸像が立っていました。 勝てる道理がなかった戦争の敗けの責任者探しのトバッチリで、誹謗の矢が向けられることもある様ですが、若手の学卒技術者に思い切った権限を与え、前の大戦で活躍した "栄"(1000馬力級)、"誉"(2000馬力級) の航空エンジンと多くの軍用機を生み出したばかりでなく、戦後の復興期から高度成長期にわたって活躍した多くの有能な技術者を育てた、物作り日本のパイオニアだと思います。 |
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南曲輪休憩舎の中に入って長休みをしながら糖分と水分の補給をしたあと外に出てみたら霧雨模様は収まっていましたが今からさざえ堂に行く元気はなくなっていたので車道を歩いて駐車場へ戻りました。 駐車場から先は来た道を歩いたのでは面白くないと思ったので見附出丸を経て大光寺の裏まで尾根伝いをしてみることにしました。 尾根の背を僅か進むと左のような "見附出丸・南土塁" の標識がありました。 |
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真っすぐ行けば長手浅間神社と記した道標が立っている二股で左へ分岐している道に入り、南に向かう尾根の背を進みました。 |
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浅い鞍部に東屋が立っていました。 東屋の先に立っている道標により "金龍寺・親水広場" を指示している腕木を見て左手に進みました。 |
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暫く新緑がきれいな尾根道を進むと120m 圏のコブの手前まで来ました。 左に分岐している道に入ると落ち葉が積もった溝状のやや急な下り道になりました。 |
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やがて前方が明るくなり、ひょっこり墓石が並んでいる廟園の脇に出ました。 歴代住職の墓所で真ん中に呑龍上人の墓標が立っています。 横手には新田義重の墓がありました。 、一段下がった広場の端には甘露水があったようでしたが、しかとは確認しませんでした。 |
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廟園は大光院の境内に接していてごく短い石段を下って本堂に突き当たり、左折すると本堂の前庭に出ました。 朝方通ったときに始まっていたテント村作りが大分捗って沢山のテント小屋の骨組みが立ち並んでいました。 門前町りり口の角にあるのに何故か洋風の茶店に入って "呑ジャ" と言う焼きうどんを食べたあと参道を歩き、街角の老舗で家への土産の最中を買って駅に戻り、有料特急からメトロ・東急線を乗り継いで家に帰りました。 |
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<ルートの詳細> ルートマップ (Android アプリ: 山旅ロガー +地図ロイドで作成したウェイ ポイントと GPS軌跡とを国土 地理院地形図を表示している カシミール3Dで読み込み、 重畳標示させて作成) 行動軌跡 ダウンロード 原画フォトアルバム |
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☆おわりに 山行の主体が低山になってくると寺社、城址に触れることが多くなります。 各地の里山に残っている所謂、中世山城は、戦国時代に実際の戦闘が行われた城郭で、一般的な概念である石垣の上に聳え立つ・天守閣とは違っています。 自然地形を巧みに利用した上で、空堀と土塁、細尾根を切り取った堀切と引橋、尾根幅を削り込んだ土橋、馬出しと虎口など、緻密な計算に基づいた微地形改変によって構成されている防御システムはいかにも日本的な物だと思いました。 大田は、金山城跡だけでなく大規模古墳や全国に3つしかないと言われるさざえ堂の一つがあったりして面白い街です。 機会を見つけて再訪し、これらも是非見たいと思っています。 |
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