南無谷峠・七面山-堂山、木ノ根峠-那古山

(2018.2.18-19)



☆期日/山行形式: 2018年2月18日-19日  市中ホテル利用1泊2日 廃峠・古道・藪山探訪単独行
☆2万5千分1地形図: 保田(横須賀2号-3)、那古(横須賀2号-4)
☆まえがき
    月初めに行った偵察山行で富浦-館山地域の土地勘が得られました。
記憶が薄れてしまう前に一泊二日の "本番" 山行を行い、表題のふたつの古峠と三つの低山を歩きました。

  マイナーな山域の廃峠と、古道と、小低山のお話ゆえ、"一体どあたりの話なの?" と言われる向きもあろうかと思うので、おおよその概念を持っていただけるよう、主要地点にマーカを記し、GPS で取得した経緯度情報と連ねた行動軌跡を書き込んだ Google マイマップを掲示します。
元図へのリンクも提示してあるので、そちらを参照されれば大縮尺で詳細を見ることもできます。
 




  概要ルート元図を見る


  南無谷峠は入り口の標識がないため取り付きの確認に少し手間取りましたが峠道はよく保存され、歩きやすい状態が維持たれていました。

  木之根峠は要所に標識、コースマークがあって山慣れていれば迷いなく歩ける状態でしたが、岩井側の登り口付近は水流で荒らされ、歩き難い状態になっていました。
また、峠越えていった先で丹生の農道に出る手前の所では、ザレ気味の窪溝を急降下し、泥濘の沢溝を渡り、放棄された果樹園のふたつの獣避け柵を通り抜ける必要があり、ほぼ廃道状態でした。

  七面山は小さいが急な山でした。
急登降と引き換えに、絶景のご褒美がありました。

  堂山は "さんしょは小粒でぴりりと辛い" の例え通り、手強い藪山でした。
崖観音から登った地元の子供が道に迷って降りられなくなり、大騒ぎになったため登拝路を閉鎖したのは尤もと思える状態でした。

  那古山で登った西尾根は、かつて隆盛だった "山三" 富士講の名残りを留めている歴史の小径で、この山行の締めくくりとなる絶景を眺めることができました。
七面山展望台の眺め
七面山展望台の眺め    (画像をクリックすると拡大スクロール)
☆2月18日(晴): 南無谷峠・七面山-堂山
<行動時間>
    宮崎台[5:56]=(田園都市線)=二子玉川=錦糸町=(総武線快速君津行)=[7:36]千葉[7:45]=(内房線館山行)=[9:21]岩井[9:30]=(南房総市営バス)=[9:36]小浦(9:45)-南無谷みち入口(9:57/10:00)-石地蔵の二俣(10:04)-南無谷峠(10:20/25)-作業小屋(10:35/40)-山の神神社前村道(10:57)-川縁の二俣(11:01)-国道(11:05)-日蓮聖人衣洗い井戸(11:15/18)-七面山入口(11:17)-踏切(11:24)-七面山(11:40/56)-南無谷海岸(12:12)-法華崎(12:22/25)-袈裟掛け松跡探索(12:30/57)-逢島(13:16)-富浦小学校前バス停/八洲軒(13:23/50)-多田良T字路(14:02)-大半津登山口(14:24/30)-堂山頂稜(14:37)-境界標とふたつの橙色テープ(14:59)-東京都マーク(?)標石(15:03)-堂山三角点(15:05/10)-小さいコブ(15:24)-手造りベンチの展望所(15:31)-堂山西口(15:37)-瀧渕神社(15:40/16:00)-(16:20)崖観音バス停[16:32]=(館山日東バス)=[16:44]イオンタウン館山-宿舎{館山シーサイドホテル}

<ルートの概況>


  JR内房線の岩井駅がこの日のアプローチの起点でした。
南房総へJR線で行くと、東京湾をグルっと回ってゆく形になるため時間がかかりますが、千葉で内房線に乗り継いだあとは沿線の景色を眺めながらのんびり朝飯を食べてれば、定刻に行き着けるのが良い所です。

  週末の朝は、岩井駅前から小浦、南無谷方面へのコミュニティーバスが程よい時間に出るのでアプローチの時間と労力が省けます。
バスはこのあたりの名産である枇杷色に塗った可愛い形のバスでした。
小浦魚港の富士
小浦魚港の富士    (クリックすると拡大)

  小浦まで行って降りようとしたら、"ここまで来ちゃうと峠まで遠いんじゃないの?" とドライバに言われました。

  木之根峠へ来る人はたまにいるようですが南無谷峠に来る人はごく少ないみたいで、ボケ老人が乗り過ごしたのでは、と疑ったようです。
持ってきた地形図を見せ、"今日はこっちの南無谷峠で、木之根峠を歩くのは明日にしています” と話したら納得顔になりました。

  小浦漁港の埠頭から集落の中に進入し、適当に道を選んで集落の裏側にでたあと山裾を通っている国道沿いのみちを南下。
トンネルの手前で国道を横断した所が南無谷峠への入口でしした。

  入口は2箇所ありましたが、左の写真のようにT字路のサインが立っている所から斜めに分岐している農道が分かりやすいと思いました。

  入り口から僅か進むとモノレールが絡んでいる石段道がありました。

  南無谷道のであることを示す標識は見当たりませんでしたが石段をひと登りした所に左の写真のような石地蔵が立っていて、この石段道が古い峠道の名残りであることを示していました。

  石段が終わるとルートは左手へまわり、やや急な斜面を斜めに登ってゆく様になりました。
ひと登りして尾根の上に上がり右手に回ると、いま廻り登ってきた脇に小平地があり、石塔が立っているのが見えました。

  あと戻りして碑文を確認しなかったのでよく分かりませんが形から見て無縁仏の供養塔ではないかと思います。

  峠道は一部崩れかかっている所もありましたが幅広く穏やかな登りが続きました。
やがて溝状に抉れた道の上をモノレールが横切っているところを通過するとすぐ峠の鞍部でした。

  昔は頻繁な人通りがあったであろう峠も今は山の獣の領域になっているようで、峠の切り通しを獣避けのフェンスが塞いでいます。
柵のドアを開けて南側に入るとすぐ、左脇に "南無谷峠" と記したプレートが立っています。


  峠の南側はすぐ舗装農道になりました。

  峠から何歩も進まない所から棕櫚畑が始まりました。
左の写真は棕櫚畑の脇から峠の切り通しを振り返ってみた様子を示します。
南無谷峠南側の眺め
南無谷峠南谷の景色    (クリックすると拡大)

  幅広く緩やかな下り坂の舗装路をノンビリ歩いてゆくと右手の谷に穏やかな南房総の景色が広がりました。

  峠から10分程歩いて尾根の背が平らに広がり道が尾根の背を乗り越えてゆく所に作業小屋がありました。
植木畑の作業に使う農具などの保管小屋のようでしたが春になっtらテントを持ってきて一晩泊まってみたいと思ったほど雰囲気の良い所でした。
南無谷の海が見えてきた
南無谷峠道の景色    (クリックすると拡大)

  小屋の先から尾根の東側斜面に回り込んで高度を下げてゆくと行く手に海が見えるようになってきました。

  谷底に降り着いたあと少し進むと集落の中を通っている道路とT字に出合い、右折しました。
左の写真は右折して少し進んだ所で振り返った所です。
峠道の出口に当たる所です。
こちら側にも別段の標識はありませんが、道の左側の壁の上に山の神の神社があり、地形図に鳥居マークが書き込まれています。

  家並みの間を進むとすぐに国道に出ました。
小浦のトンネルの手前で横断した道路の続きで海沿いに富浦、船形をへて館山へ通じています。
もどる    
 

  南無谷峠越えができたので次の七面山へのアプローチに移り、南無谷海岸沿いの国道を南下しました。

  まもなく木之根峠の西南面から流れ出している新田川に架かっている橋を渡ると  "日蓮聖人衣洗い井戸" と記した案内板が出ていました。

  路肩から降りて立ち寄ってみたら、河岸段丘の低い崖の裾に、木の蓋が被せてある井戸か湧水のようなものがありました。
南房総の西海岸一帯は日蓮聖人に関係する遺跡が沢山あるようです。

  "井戸" から国道に戻ってわずか進んだ所で道端の石垣に "←七面山" と記した道標が出ていたのでその向かい側の路地に入りました。
集落の奥手まで進んだ所で突き当たった石垣に
"←七面山" と指示する木の道標。
その下の石には "七面山→" と刻んだ文字が見えました。

  左右どちらに進んでも七面山に行けそうに思えましたが、石垣に刻んだ文字ほうが元々の道筋ではないかと思えたのでそちらに進んでみました。

  石垣に沿って右手へ回ってゆくとすぐ内房線の線路に突き当りました。

もとは踏切だったような感じですが "危険 立入禁止" と記した立て札が立っています。
5、6分前に上り列車が走って行ったのを見ていて、当分次の列車は来ないと思ったので廃止された踏切の線路をまたいで渡って見たら反対側にも道がありました。

  線路の先は谷戸になっていて山畑、梅林に沿って進みました。
行く手の山裾に石段がありその上に一対の白御影石の灯籠が並び立っていました。

  正面の石段は非常に急なうえ、段の角が摩滅し丸くなって登りにくそうに見えたので石段の右横を折れ登ってゆくコンクリート舗装の歩道を登りました。

  急な斜面を折れ登ってゆく道ですがトラロープを丁寧に巻き付けたワイヤープの手すりが張ってあり、安全に登れるようになっていました。 
 
  数回折り返していった所で尾根の背を通っている道とT字に出合い、左折して僅か進むと七面大天女を祀った社殿の前庭でした。
この山はもと浅間山と呼ばれ雨請いの祈祷所だったのが元禄12年(1699年)に七面堂が創られ、高さ50cmの木造立像の七面大天女が祀られてから七面山と呼ばれるようになったのだそうです。

  七面大天女は法華経守護の神(?)だそうです。
七面山と言う名の山は各地にあるようですが、大峰奥駆道のは山深い所に大岸壁を懸けた素晴しい姿の山でした。
身延の七面山も思い出の多い山です。

  七面天女堂の右脇を通ってもう一段上がると平坦な尾根の背に上がりました。
細長い平坦地の奥の方に奥の院があり、神々しい雰囲気が漂っています。

七面山展望台の眺め
七面山奥の院の眺め    (クリックすると拡大)

  広場の手前側は南無谷海岸の展望所で、海の先の方の空に富士山が浮かんでいるようにみえました。
  奥の院の右脇を通ってさらに奥の方に行く道があったので進入してみたら左のようなベンチが並んでいる展望所がありました。
尾根続きの奥の方に奥の院?と思える山が見えましたがまだ先が長いので長居はせず、山を下りることにしました。

  登ってきた道を戻って行くと先刻登り着いたT字路の向かい側に "展望台" と記した標識が見えたので直進し細い道を進んでみたら広大な視界が広がる高みに着きました。
 
七面山展望台の眺め
七面山展望台の眺め   
 (画像をクリックすると拡大)

  山を下り、麓の谷戸を進んでゆくところでは菜の花畑が綺麗でした。

  国道に出た所からわずか北に寄った所で横断。
家並みの間を縫ってゆくと相模灘に面した砂浜に出ました。
左折して浜沿いに遊歩道を南へ進むと行く手に法華崎、その先に大房岬が見えました。

  法華崎には雀島と、船虫島と、ふたつの小岩峰が並び立っていて、その向こうの海の先に富士山が見える展望スポットです。

  法華崎を回り込んで豊岡海岸に入った所で山の上にある "袈裟懸け松" を探しましたが入口が分からず行ったり来たり。
民家の玄関に出ていた若い主婦に聞いたりしてようやく物置小屋のような建物の壁に架けてある袈裟懸け松の案内板を探し当てました。

  入口から僅か入ると左のような密笹薮がありました。
笹薮の間を通り抜けると急な斜面があって道形が不明瞭になりましたがトラロープが張ってありました。

  ロープが終わってもまだ袈裟懸け松の碑が見当たらないので草薮に掴まって登っていたら指と手のひらに何かが刺さり、チクリとしました。

  僅か登った所で古い道形のような平らな所に上がれたのですがすぐに左のような古い切通しに掛かり、その先へ進んでゆくと人家の裏手に降りてしまいました。

  袈裟懸け松の探索には失敗したように思えたので潔く諦め、その先を道なりに進んでいったら法華崎の東脇を通り抜けている国道トンネルの北側に出てしまいました。

  トンネルを通り抜けてまた豊岡海岸側に戻り、海沿いの歩道まで下って左折し、南下して行くと逢島があり、原岡海岸に着きました。
ここまでくると海のすぐ向こうは大房岬です。
  この日の午後は、この山行の中ではもっとも難度が高いと想定していた堂山の藪ルートを歩くことにしていました。
富浦所学校前からとみうら枇杷倶楽部までバスで移動て時間を節約する計画でしたが定刻より10分近く遅れて走ってきたバスはドライバーが気づかなかったようで、素通りしていってしまいました。

  バス停のすぐ南の向かい側に、こじんまりしたドライブイン風のラーメンショップがあったので中に入り、中休みをしながらそばを食べました。
もどる    
 

  ラーメンはなかなかの美味で良いお昼ができました。
お店を開いている年寄り夫婦が地元の人達だったお蔭で、富浦、枇杷倶楽部、大半津一帯の様子もあれこれ聞くことができ、この店から堂山の登り口まで徒歩でも容易にアプローチできることが分かりました。

  国道を南下して岡本川に架かっている橋まで来ると川向うに堂山が見えてきました。
北側から見る堂山は至って穏やかで何の苦もなく登れる岡のように見えましたが実際は暖地性常緑灌木の藪という手強い鎧を纏っていたのでした。 

  橋を渡った先で左折して館山バイパス道に入り、枇杷倶楽部の西に架かっている橋の手前で右折して田畑の中の道に進入するとすぐ枇杷倶楽部の裏に広がっているいちご畑の縁を通過しました。

  堂山の裾を通っている道に出逢った所で鋭角に左折し、大半津に向かいました。

  大半津の村に入って少し進んだ所に立っている電柱にかまぼこ板よりひと回り大きい板が取り付けてあるのが堂山北口の目印でした。

  かなり古くなっていて薄黒く汚れ、文字はまったく読み取れなくなっていました。
 

  ヒバの生け垣と畑の間の細道を進んで山に向かいました。
 

  山にかかって左に廻り、ひと登りして竹藪を通過すると、その先に倒木帯がありました。
風倒木と思われる倒木が何本も道に被さっていてかなり通りにくい状態になっていました。

  倒木帯を抜け、道が右手へまわってゆくと間もなく行く手が明るくなってきて尾根の背に上がりました。

  堂山頂上の東肩に当たる鞍部ですがかなりの藪尾根で乗越の向こう側の道はおろか尾根の背にも踏み跡のようなものはまるで認められません。

  道の有無にかかわらず頂上を目指す積りだったので右折。
堆積した落ち葉でブカブカになっている尾根の背を進みました。
笹は少ないのですが暖地林の林床に生えている灌木のネジ曲がった枝の弾力は強く、掻き分けて進むのにかなりの腕力が必要です。

  兎にも角にも尾根を背を外さないよう登り続けてゆくと藪の中にトラロープが張ってあるのを見つけました。

道標はおろか道形もコースマークもない所で唯一のルート標識でした。

  ロープの先は一部藪が薄いところもありましたが地面がグズグズで進み難いことは変わらず。
疲れが溜まってきた向脛の筋肉が痙攣しかかってきたので主に腕力を頼りに登高を続けることとなりました。

  上の方が明るくなってきてあとひと頑張り、と言うところまで行き着きましたが斜面が極端に急になって両足で立っているのも難しいくらいなったら二本目の固定ロープと出合い、感謝感激しました。

  ロープがなかったら、このグズグズ急登から抜け出すのに、とても苦労したに違いありません。
 
境界標石のピーク
堂山最高点の境界標石    (クリックすると拡大)

  ロープの上端を過ぎるとすぐ急登が緩み、さらに10数m 進むと藪が切り払われた少空地に飛び出しました。

  左の写真のように長く目立つ赤テープが二箇所に巻きつけられた立木があり、所の袂に境界標石が立っています。
地形図と GPS 座標を照合すると堂山の最高点と思われるのですが、三角点標石ではありません。
 

東京都マーク(?)の標石    (クリックすると接近)

  三角点標石を確認したいので GPS 座標を見ながら藪の中を進んでゆくと東京都紋章と同じ二重丸から六方に線が出ているマークが上面に刻まれている標石がありました。

  何故ここに東京都?と不思議に思いましたが、これが三角点標石でないことは明らかです。
 
107.5m 三角点標石
堂山 107.5m 三角点標石    (クリックすると拡大)

  地形が平坦になるとともに藪に隙間が多くなって歩きやすくなってきたので、まわりを見回しながら西の方に進むと10~20m ほど行った所に、これまでより広い切り開きがあり、その真中にまごうかたなき三角点標石と国土地理院の白杭が鎮座していました。

  崖観音の堂脇から登ってくる道が気になっていたので南面を覗いてみましたがもう密な藪に覆われた急斜面で、踏み込んで見る気になれませんでした。
 

  東京都マーク標石からは、踏み跡らしいものが見えるようになりました。
さらに、三角点標石から先は緩やかな下りで、道形も断続するようになり、格段歩きやすくなりました

  西尾根の3分の2ほど進んだ所で僅か盛り上がったコブを越えるとその先は明瞭な下降路となりました。
 

  短い固定ロープが取り付けてある急降下で尾根の北側へ回り込んだあとまた尾根の背に戻ると僅かな切り開きに左のような手造りのベンチが据えてありました。

   南の方に広い視界が得られる展望点で、近くに住んでいる人が天気の良い日に缶ビールやつまみなど持って来て景色を見ながら一杯やる秘密の場所、のようです。
堂山西尾根私製の展望
手造りベンチの眺め    (クリックすると拡大)

  秘密展望点から僅か進んだ所で右折して尾根の背を外れ、やや急な斜面を降り下ってゆくとひょっこり車道に飛び出しました。
道の向かい側は瀧渕神社。 100m ほど右手によると房総団扇を作っている工房がありました。
その先は、大半津登山口に立っていた電柱の方へ通じているようです。
  週末は1時間に一便しかないバスが通過した直後だったので社殿の階に腰を下ろして久しぶりの藪山歩きの疲れを癒やしました。

  瀧渕神社はさほど大きくない神社ですがその割には境内が広く、参道が立派です。
  参道横手の高みに幾つかの石碑と役行者像が並んでいました。
  大房岬に要塞が置かれ、立入禁止地域になったとき、岬にあった幾つかの祭祀・石碑などをここに集めて合祀したのだそうです。
崖ノ観音
崖ノ観音    (クリックすると拡大)

  神社で暫く休んで疲れが取れましたが次のバスが来るまでまだ大分時間があったので暇つぶしとクールダウンを兼ね、崖観音バス停まで歩くことにしました。

  2週間前に来たときにバスで移動した区間ですから沿道の様子が記憶にあり、のんびり気楽に歩きました。

目的のバス停に近づき "堂の下" の集落に入ると、いま降りてきた堂山が間近で中腹の崖に嵌めるように造り込まれた観音堂が午後の日を照り返し輝いて見えました。 
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<ルートの詳細>




  ルートマップ
     (Android アプリ: 山旅ロガー
      +地図ロイドで作成したウェイ
      ポイントと GPS軌跡とを国土
      地理院地形図を表示している
      カシミール3Dで読み込み、
      重畳標示させて作成)



  GPX ダウンロード




  原画のフォトアルバム


この日の初めにもどる    
☆2月19日(晴のち曇): 木之根峠-とみうら枇杷倶楽部-那古山
<2万5千分1地形図>
    保田(横須賀2号-3)、那古(横須賀2号-4)
<行動時間>

    宿舎[8:30]=(宿舎送迎バス)=[8:40]館山駅[8:35]=(内房線千葉行)=[9:05]岩井(9:15)-高崎公園駐車場(9:42)-湯浴堂(9:45/50)-木ノ根峠入口(9:57/10:00)-木ノ根峠(10:28/40)-171m峰西肩の切通し(10:48)-無縁法界霊供養塔(11:04/07)-谷への下降点(11:25)-獣避け柵(11:30)-獣避け柵(11:40)-農道(11:46)-木ノ根林道(11:48)-丹生バス停(12:02)-丹生十字路(12:15/25)-青木神社(13:00/05)-(13:24)とみうら枇杷倶楽部[14:27+3]=(日東バス市内線 210円)=[14:35+3]船形駅前バス停-船形駅(14:43/51)-那古山登山口(14:56)-潮音台(15:16/21)-那古観音(15:24)-(15:29)那古バス停[15:37]=(日東バス市内線)=[15:50]館山駅[16:17]=(内房線)=君津=(内房線・総武線)=錦糸町=(メトロ・東急線)=[19:57]宮崎台 

<ルートの概況>
    館山では鶴谷八幡宮ゆかりの夕日ホテルが定宿ですが、改修工事で休業中だったので、隣のシーサイドホテルに泊まりました。
閑散期の空き部屋を活用した割引プランで5~6人が泊まれる巨大な部屋でしたが団体客などがいないので展望風呂も空いていて閑静が不可欠な山歩きの泊まり場としては最適でした。

  朝の程よい時間に館山駅への送迎バスが出ていたのでそれを利用。
館山始発、千葉行の電車に乗って前日と同じ岩井駅まで移動しました。
30分近く待てばコミュニティーバスが出ることが分かっていましたがルート始点が近いので駅からいきなり歩き出しました。

  駅前通りから国道に出て左折。 10分ほど進んだ所で橋を渡った所に立っている "民宿 御目井田荘" の看板の先へ直進。 右手へ曲がってゆく国道から分かれました。

  御目井田荘の前から進んで町内会事務所の前の変則十字路を直進。
天理教会の横で左手に曲がった行くと前方に内房線のガードが見えてきました。


  内房線の線路に向かって歩いてゆく正面に、これから乗り越えようとしている木之根峠の尾根筋が横たわっています。






  ガードを潜ってすぐに右折。 緩やかな坂を登って線路の横に出ると岩井の街を見渡せました。
  学生時代、駒場寮の同級生のひとりはこの町から出たI君でした。
理系ながら語学の才能に恵まれ、1年生のうちに英独はもちろん、仏、露、西(だったかな?)を次々に制覇したのを目の当たりにして、世の中にはこんな才人が居るのだ、と驚きました。

  夏休みに泊りがけの海水浴に来てはじめて海で泳ぎました。
おかぁさんの貫禄と言うか威厳は只者ではなさそう、と思いました。
  東京芸大にいたお姉さんが年末恒例のメサイア演奏会に招いてもらったことも思いだしました。

  尾根の端を乗り越えて坂を下ると高梁公園の入口で標柱が立っていました。

 

  山裾の舗装路を進んでゆくと谷戸の向かい側にお堂の屋根が見えてきました

  枯れ枝の山を乗せたポンコツ車の脇を通ってその先の石段を上がると左のような湯浴堂の前庭でした。

  今は薬師堂ですが、このあたりで鉱泉が湧き出すので、かつては峠を往来する旅人たちが汗を流し、疲れを癒やした浴場があったそうです。

  静かで気分の良い薬師堂の階段に腰を下ろして暫く休み、峠越えの英気を養いました。

  谷戸の道に戻って奥に進んで行くと農道から別れて左手の山に上がってゆく歩道の入り口の角に "房州低名山 木之根峠 登り口" と記した立て札が立っていました。

  ルートに進入した所は枯れ枝や石がゴロロしていて荒れ気味で、いささか歩きにくい状態になっていました。

  峠道の下部は谷戸の沢溝と絡んでいるため、大雨が降ると水が流れて荒らされてしまうようです。

  ひと登りすると道が良くなり、谷奥の斜面を曲がり登ってゆくようになました。
道幅は南無谷峠のほど広くありませんが緩やかに登りながら大きく折れ登ってゆく所には、いかにも古峠の道らしい雰囲気が感じられました。

  上部に達すると大木が林立し、中低木の多い南房総房総では珍しい景色になっていました。

  道幅は南無谷峠ほど広くはないが大きく折りかえしながら登ってゆく所はいかにも古峠の道らしい雰囲気がありました。

もうすぐ峠か、と思うようになった所に小さな崩壊地があり露岩を通過しました。

  やがて両側が石垣になっている切通しに着きました。

  向かって左手、東側の石垣は2段になっていて、袂には石地蔵、上段には道普請供養塔と出羽三山碑が並んでいます。

  近くにはもと茶店があったとかで、その案内プレートがありましたがこの日の行程はまだ始まったばかりで先が長いので深入りはしませんでした。
木之根峠の眺め
木之根峠の景色    (クリックすると拡大)

  登ってきた岩井の方を振り返って見ると丸く湾入している海岸線が綺麗でした。

  峠の南側へ下ってゆく道の入口には "←丹生方面" と記した道標が立っていました。
矢印の先の方にマジックペンの書き込みがあり
 "×、行止まり、悪路、私道" と書いてあります。

  峠の先の道は、一見した所、登ってきたよりむしろ良いのではないか、と思いましたが歩く人が少ないせいか落ち葉が積もってブカブカに緩んでいました。

  峠のすぐ南にある 171m のコブは2万5線分1地形図と違って尾根通しでなく頂上の西肩を巻いて行く道になっていて、支尾根の一番高い所は切り通しで乗り越えました。

  しばらく尾根の西肩を進んで行って尾根の背が平らに広がったところを乗り越えました。
わずかに開けた所の端に四角い供養塔が立っていて、"無縁法界霊、明治三十七年" と刻んでありした。
石塔の足許は厚い落ち葉に覆われ "霊" の字は見え難くなっていました。

  供養塔の先は至って穏やかな尾根道になりました。
ヌタ場には獣の形跡が濃厚だったりしましたが、広がったり細まったりする尾根の背や、一部で溝状に抉れたりしている所を気持ちよく進みました。


  道形が尾根の背を外れて左側に降りてゆく所まで来ました。
普通ならこの道形を追跡し行くのでしょうがこのあたりから下の谷の農道に出るまでの部分で苦戦した記録が2、3ネットに出ているの見ていたので、この峠越えで一番の問題点だと思いました。
さてどうしたものか?、とまわりを見回したら尾根の背の木にコースマークが巻き付けてあるのに気がつきました。
覗き込んでみるともう少し先にもコースマークがあります。

  もっと先まで尾根の背を伝わってゆけばそれだけ高度が下がる訳だから、その分農道に出るまでの嫌な部分が短くなる筈と考え、尾根の背を進んでみることにしました。

  尾根の背を進むルートにも結構な難場があり、左のようないやらしい急降下にロープが固定されていたり。 

  ザレ場を過ぎると濃密な笹薮に突き当り、わずかに切り開かれた隙間を通って通過したりしました。

  次に現れたのは南房総でよく見る白っぽい凝灰岩の岩尾根です。 

  大分高度が下がってきたような感じになりましたが暖地特有の常緑樹が優越する山林に視界が閉ざされているのでまわりの様子が分かりません。
 

  突然葉蘭畑に行く手を遮られました。


  畑の脇をすり抜けてゆく事もできなくはなさそうでしたがまわりを見回すと左下の窪溝の木に巻き付けてある赤テープが見えました。
これでもルート?と言いたくなるくらいのザレ場で、道形もありませんでしたがすぐ下の沢底に日があたっているが見えるので距離は僅かです。

  グズグズの急斜面を立木を伝わって下り切った所で獣避けの柵に突き当りました。
獣が押し通ったのか、ゲートが半分空いていましたが通り難いので針金を解いて開いた所を通過。
閉め直したあと、しっかり針金を巻き付けて獣が通れないようにしました。 

  谷底は放棄された果樹園のようでした。
水捌けが悪く、南房総特有の火山灰質の泥濘になっていて不注意に足を踏み出すと靴が泥んこになります。
 

  僅か進むとふたつ目の獣避け柵に突き当りました。
こちらも針金を解いてゲートを通過し、歩き難い土手の縁を伝わって進みました。
 
 
  間もなく野外トイレのような物が立っていてその脇を通ると舗装農道に出ました。

  農道の坂を僅か下ると高崎から丹生に通じている舗装路に出合いました。
右折して南に向かうとすぐ、枇杷の温室と思われる大きな建物が見えました。

  丹生集落の人家が見えてきたあたりの道端に地蔵を祀った石小屋がありました。
古い峠道の名残りなのでしょうが今でも花が供えてあるのは心和む見ものでした。
近所に供養を絶やさないお年寄りがいるのでしょう。

  時が止まっているのではないかと思うほど静かな村の真ん中を横切るように開かれた新道の十字路は未開通のため静かな広場になっていました。

  峠から休まずいに歩いてきていたのでザックを下ろし飲み食いをしながら休みました。

  休憩のあと歩きだすと間もなく、左のような "やぐら" がありました。
道の向かい側には "里山コース 岩崎地蔵" と記したプレートが立っていました。
 
 
  老人ホームの前を通り過ぎ、富津館山道路を右手に見ながら進んで深名谷の交差点を左折し、山裾の道を進んでゆくと堂山が見えてきました。
前の日に登ったばかりの山です。
登った山はみな "友達" です。
できたてホヤホヤの "友達" にコンニチワの挨拶を送りました。
  山裾の道を進んでゆくと青木神社がありました。
この神社も堂山の麓の瀧渕神社と似て、社殿の脇に幾つかの石碑が並べられていました。

  神社に参詣したあとひと休みしたあと南に向かう道を進み、内房線の踏切を渡った所で右折して西に進むととみうら枇杷倶楽部でした。

  とみうら枇杷倶楽部は去年の春、シニア仲間の月例会バスツアーで来ていて、枇杷味のソフトクリームを食べました。
  広場の東側のお百姓市場の2階に和食堂があり、飛び切り美味しいちゃんぽんが食べられました。
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  午後の行動に必要なエネルギー源を仕込んだあと、食堂で貰った割引券を持って一階の売店に行き、家への土産を仕入れました。

  昼前の長丁場の疲れを癒やして店を出たのですが、那古山へのアプローチで利用する路線バスの乗り場がどこにあるのか分かりません。
お店の人に聞いても要領を得なままウロウロしている所へバスが来てしまいました。
慌てて手を振って止め、飛び乗ったバスは逆向きで南無谷行でした。
急いで飛び降りながらバス停の場所を聞き、少し離れた観光協会の前のロータリーに面した所に歩いていったら待ち時間ゼロ秒で館山行バスに乗ることができました。 
 
那古山西尾根入口    (クリックでクローズアップ)
  バスは10分もかからずに船形駅入り口に着きました。
下山が遅くなったときは館山に回らずこの駅から帰ることになるかも、と思ったのでいったん駅まで行って列車の時間を確認しました。

  駅から那古山西尾根入り口まで歩いて5分ほどでした。
内房線のガードを潜ってすぐ、"勤王酒店" の看板の手前の角を左折。 右てに見える尾根末端に注意しながら進むと左の写真のように板状に削られた尾根の末端に道標が立っているのが見つかりました。
腕木に "川名金比羅神社方面" と記され、支柱に "那古山潮音台 式部夢山道" と書いたラベルが貼り付けてあります。 
 
  左側は尾根の本体、右側は尾根の端を板状に削った天然の石塀になっていて、それらの間を通って進むとすぐに尾根の左側に入りました。
2、3度左手へ別れてゆく道を見送って進んだあと折り返して尾根の背に上がりかけると上の方から人声が聞こえてきました。

  尾根の背の道に中年カップルを案内している地元の人がいたので挨拶したら、はるばる神奈川からよくここへ来てくれましたと感激のご挨拶をいただきました。
 
  古い石標の間からひと登りした所で頂上に向かって左折する角に左のような道標が立っています。
地元の "里山行動野会" が江戸時代の富士講の道を最近整備しルートです。
 
  わずか登った所に左のような富士講っぽい形の石祠がありました。
" へ"(山マーク)の下に "三" を刻んだ "山三" の紋章が刻まれていることから、この地で "やまさん" を名乗る富士講があった事が分かります。
  右下へ急降下してゆく道の入口に取り付けられているトラロープを見送ったあと細尾根を渡りました。
 

  左手へ急に登って行く所は両側にロープが張ってありました。
 
 
  ロープの急登を抜けると右上が明るくなり、潮音台が見えてきます。
 
  すぐに登り着いた潮音台では午後の日を照り返している鏡ヶ浦の景色が見えました。
東屋の脇には前回那古山で出合ったような気がするジャージー姿のおじさんがいました。


  前に来た時には青空がいくらか見える程度でしたが、今度は空のあらかたが雲に覆われてしまい、遠くの山は見えなくなっていました。
それでもなお、後から登ってきたOLグループが歓声を上げたくらいの眺めではありました。 

潮音台の景色    (画像をクリックすると拡大スクロール)

  東屋の左脇に "山三" 富士講の祠があってここが富士遥拝所だったことを示しています。
また広場の奥の方には和泉式部と小式部と母娘のモニュメントと言われる石塔が並んでいました。
 
 
  また、広場の東寄りにはスイセン畑があり、清楚な白水仙が満開になっていました。


  2周間前に通っばかりで勝手が分かっている遊歩道を下り、観音堂の前まで来ました。

  那古山を背にしている観音堂は、坂東観音三十三箇所巡り結願の寺で、堂々とした雰囲気を漂わせています。


  この境内でもうひとつ目を引くものは多宝塔です。
多宝塔は一階部分が白い漆喰塗りになっていることが多いと思いますがここのは全部木造りで渋い色調の緻密な造作が印象的です。

  山門を出た所に "里見桜" の畑がありました。

  "里見" は故郷群馬の旧里美村(現在は高崎市)から出た武士集団だそうです。
戦国時代に移住してきて勢力を張り、有名な里見八犬伝の物語りにもなった訳ですが、江戸時代の外様取り潰しの対象となって倉吉に移封された藩主は失意のうちに早死したそうです。
ここにある桜は悲運の藩主を悼んで倉吉の人達が育てた苗木を移植したのだそうです。
  坂を下った所は那古寺本坊で玄関脇には大蘇鉄があります。
国道まで延びている参道の広さが印象的でした。

  時計を見ながら降りてきたせいで丁度山支度を解き,
ザックのパッキング直しができた所へ館山行のバスがきました。

  ここの路線バスは、南無谷、富浦から館山駅を越えて街の南にある自衛隊のあたりまで、週日は1時間に2便運行されていて田舎にしてはとても便利だと思っていましたが、乗客が減って採算が取れなくなり、補助金に支えられているとのことで、前途が心配です。
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  ルートマップ
     (Android アプリ: 山旅ロガー
      +地図ロイドで作成したウェイ
      ポイントと GPS軌跡とを国土
      地理院地形図を表示している
      カシミール3Dで読み込み、
      重畳標示させて作成)



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  原画フォトアルバム


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☆おわりに

    月初めに行った偵察山行で土地勘が得られただけでなく、地元篤志家が公開している山域情報サイト: 房総丘陵 1000 を探し当てる幸運に恵まれました。
詳細・精確な情報が得られたお蔭で確信を持って古峠の廃道や道なき藪山に進入し、無事に歩き切ることができました。
南房総は、ちょっと見には山とは言えない位の超低山ばかりですが複雑に折れ曲がって迷路のようになっている尾根筋のあちこちに崖、ヤセ岩尾根、急なザレ場、密生した篠笹の藪など、様々な難場があって、まるでクイズを解いているような気分を味わえる特異な山域です。
里に降りれば海と山から得られる豊富な食材を使ったおいしい食事があり、穏やかな気候の中でゆったり暮らしている温和で優しい人々がいます。
店じまいが近づいて高い山に登れなくなった老い耄れ山屋にとって最高の遊び場と思っています。
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