備北 成羽天神山から吹屋 (2017.04.21-22)


☆期日/天気/山行形式: 2017年4月21-22日(晴天気) 前夜市中ホテル泊単独日帰り山行
☆地形図(2万5千分1): 吹屋(高梁7号-4)
☆まえがき
    シニア古道歩きグループ第10回のツアーで吉備路探訪に出かけた機会を活かし、"ついで山行" を行いました。
  特に目立つ山もない馴染みのない山域なので分県ガイドブックなどを参照して "山探し" を行った結果、吉備高原の最高点である成羽天神山(777.3m) を登ってみることにしました。




  ついで山行全ルート図
  前夜、新見に泊って登ってみた山は静かな芽ぶきの山で、沢詰めの斜面ではカタクリの大群落と出遭いました。
昼時に下山したあと吹屋ベンガラの里を訪ねるため、谷向かいの山の上に上がる途中、吉岡鉱山跡を通りました。
明治から太正にかけて、足尾、別子とならぶ国内三大銅山のひとつとして近代日本の発展に貢献した "ヤマ" の遺跡でした。
吹屋の繁栄を支えたのはベンガラだけではなく、銅鉱業もあったことを学びました。

新緑の坂本    (画像をクリックすると拡大スクロール)
☆行動時間
    新見[8:10]=(備北バス坂本行 470円)=[8:55-3]坂本(8:55)-天神山登山口(9:03/20)-第1渡渉点(9:33)-第2渡渉点(9:54)-五合目の標識板(10:03)-小休止(10:20/30)-七合目標識(10:40)-カタクリ群落(10:53)-頂上分岐(11:07/10)-天満神社(11:05/10)-天神山三角点峰(11:25/40)-下降点(11:52/55)-第2渡渉点(12:30/40)-登山口(13:02)-吹屋入口(13:10)-吉岡鉱山跡(13:40/14:00)-吹屋(14:40)-片山家分家・本家(15:14/30)-吹屋ふるさと郷土館(15:34/37)-(15:41)中野口バス停[15:45+3]=(備北バス 高梁バスセンター行)=[16:43]備中高梁駅/高梁バスセンターー(17:00)宿舎

☆ルートの概況
   天神山のある備北の山奥は公共交通機関が不便で、アプローチ行程の設定に苦労しましたが、日曜日以外は、新見駅前を8時10分に出る坂本行き路線バスの便があるのを見つけることができたのは幸いでした。
下山後の移動ルートは坂本から徒歩1時間あまりの山の上にある吹屋から備中高梁へ日に3~4便運行されている路線バスがあるので、これを利用する計画を組み立てました。

  新見での前夜泊が必須となりましたが、この町は岡山県西北コーナ近くの山中で、 すぐ西は広島県。 中国山地分水嶺をの北側は鳥取県です。
古代より吉備から山陰への交通の要として長い歴史が残っているこの町は、南北朝時代に後醍醐天皇の寄進によって京都東寺の寺領になったあと、戦国時代まで寺領が持続したそうですが、昭和の時代には三重連の D51 蒸気機関車が牽引する特急列車の運行で名を轟かせていました。

  岡山で伯備線特急に乗り継いだあとさらに1時間ほど掛かる遠隔地なので、程々の時間に家を出て、正午過ぎに新見駅に着くためには、"年寄り割引" が利かない "のぞみ" を利用する必要がありました。

  新見駅に着いたところでまずお昼をと、駅前広場に面した蕎麦屋に入ったら壁に並んでいるお品書きの中に "備中そば" というのがありました。
早速トライしてみたら、玉葱、人参、長ネギ、油揚げ、かしわが乗った具沢山の盛りそばで、甘口の穏やかな味の汁との組み合わせが絶妙でした。

  行きがけに伯備線沿いの小さい山をひとつ、と考えましたが天気予報が芳しくないので山は止め、新見市内にあるふたつの鍾乳洞: 満奇洞と井倉洞を訪ねてみることにしていました。
お昼が終わったあとバスが出るまでまだ少し時間があったので駅前広場に面した観光案内所に立ち寄り、鍾乳洞巡りに利用する路線バスの運行時刻の確認をしたり、新見市の案内パンフレットを貰ったりしました。

  路線バス利用による鍾乳洞めぐりは、案内所のおネーサンたちのアドバイスのお蔭で意外にうまく行き、夕方の程よい時間に新見駅に戻ることができました。

  与謝野夫妻ゆかりの満奇洞は規模は小さいがとても変化に富んだ美しい洞窟でした。
井倉洞の方は内部の高度差が100m を越す雄大な鍾乳洞で "地中登山" ができ次ぐ日の山登りに備えた足慣らしができました。

  泊まり場にした新見市役所近くのビジネスホテルは食事が少々ご粗末でしたが居心地は良く、すぐ脇の十字路の筋向かいにある大きなショッピングセンターでなんでも手に入れられるのが便利でした。

  客室の窓から眺めると家並みの先に城山がこんもり盛り上がっているのが見えました。

  坂本行きのバスが出る駅前広場まで歩いて10分もかからなかったので、山行の朝は時間的な余裕がたっぷりありました。

  街を見ながらブラブラ歩いて行った駅前バスターミナルの2番乗り場には左のようなささやかな時刻表が掲示されていました。

  乗ってみて分かったことは、この8時10分発坂本行のバスは、町外れの山の上にある養護施設へ通勤する若者たちを運ぶために運行されているのでした。

  町外れにある中継場で若者たちが全員降りて行ったあとは 貸切状態"" になりました。
朝日で輝く瓦屋根の人家が散在している谷に分け入って行き、新見駅から40分ほど走ったところで小さな峠を越していったすぐ先が坂本でした。

  閑散とした山中の小集落に大きなバスの車庫があったので驚きました。
かつて鉱山で栄えた歴史の遺産で今も成羽川谷を遡って川上から北上してくる路線が運行されています。

  バス停から僅か南に進んだ所から左へ分岐している道路があり、入り口の角に吹屋への中国自然歩道ルートを示す標識が立っていました。

  T字路の角のすぐ南に "天神山登山口" のバス停ポストが立っています。
柱に取り付けられた運行時刻表を見たら、日に4~5便、高梁・川上方面からのバスが運行されていることが分かりました。
ただ、山登りに使えそうな時間帯は 10:49の便(高梁バスセンター発9:50) だけのようです。

  吹屋入り口の僅か先の道路の右側に天神山登山口がありました。
道路脇に立っている中国自然歩道の地図看板の背後に小じんまりした駐車スペースがあります。

  登山道入り口で足拵えしたあと地形図を確認て登山道に踏み込みました。

  首都圏から遠く離れた所にあるごく地味な山ですが結構な数の人が登り降りしている感じで、しっかり踏み固められた歩きやすい道でした。

  谷間に分け入って僅か進むと行く手が開け、先の方に山が見えてきました。

  道端にほぼ一定間隔で石像が置かれています。
左の写真の像は台座に "七番" と刻まれていますが進むに連れて順次番号が進みます。

このルートはもともと山の上にある天満宮の参詣道のようです。

  沢の左岸を登ってきた道が流れを横切り、右岸に移ると杉林の中の落ち着いた登山道になりました。


  日頃ルートを見廻って手入れをしている "山の主" がいるようで、左のような "短冊板" や "合目表示板" があります。

  やがて石段が現れました。
登山道の階段は段差や歩幅が合わなくて歩き難い事が多いものですが、ここの石段は、四角に削った石の棒を埋め込んだ緩やかな階段なので楽に登ってゆけます。

  ひと登りすると大分細くなった水流と再会。
ひと跨ぎで渡って左岸に移りました。

  傾斜が強まって擬木の階段に変わると間もなく "五合目あたり" と記した看板を見ました。

  水音が聞こえなくなってルートのまわりが岩っぽくなってきた所でひと息入れていたら4人組が登ってきました。
  当方より半回りくらいは若そうな熟年グループでし。
挨拶のあと訊ねられたので神奈川から来ていると言ったら、良くまぁそんな遠くから、と呆れ顔をしました。
四人組は福山からだそうですからほとんど "地元" ということになります。

  休憩地点かひと登りで大岩の脇を通りました。
人工か天然か、基部に凹所があり、不動像と思われる石像が祀られていました。
像の前の供え物も新しいものでした。

  沢の詰めにかかって急な斜面を折れ登るようになるとカタクリの花が見られるようになりました。
密度はやや低いがとても広い範囲に広がっている群落です。
これまでに見た最大のカタクリの群落は、十何年か前に、守門岳南肩で見たものですが、それ以来最大の群落で、花の総数はこちらの方が格段多かったでしょう。

花が今冬甲信越のより、ふたまわりほど大きいように思いました。

  カタクリ群落の斜面の傾斜が緩むと、天神社と明星崖を繋ぐ道と交差する十字路がありました。

  とりあえず天満宮に行ってみました。
平坦な境内地の北寄りにこじんまりした社殿が立っていて、まわりにイヌシデの大木が林立していました。

  神社の由緒などはよく分かりませんでしたが、山麓の坂本はもと鉱山町でしたから、その鎮守神として拝まれていたに違いありません。

  十字路に戻って左折するとすぐ、林道末端の広場に出ました。
すぐ先まで来ている舗装路の端に軽トラックが止まっていました。

 トラックに乗ってきたらしい犬と、運転席にいた人に挨拶して進むとすぐ道の左側に頂上への入口がありました。

入口の向かい側に中国自然歩道のマップ看板が立っています。

  ひと登りで常緑灌木に覆われた広い尾根の背に上がりました。

  緩やかに進んでゆくと南面から登って来たルートが出合い、角に石柱道標が立っています。

  右手へ直進して進むと先刻出合ったあと先行していた福山の四人組が戻ってきました。

  空いている山では一度出逢った人はみな友達です。にこやかに挨拶してすれ違いました。

  僅か下った鞍部からひと登りで頂上に着きました。
直径10m かそこらの落ち着いた雰囲気の頂上広場で、三角点標石と山名標と禁猟区の看板が立っています。

  周りを囲んでいる山林の東側の木の枝に「十方世尊」 と読める文字を記した木札が下がっていました。

  芽吹きの林の中で咲いているムラサキヤシオが印象的でした。


  山林の枝が邪魔になってはかばかしい展望が得られませんが北の方は少しまばらで枝の隙間から近所の山地が見えました。

自然林に囲まれた頂上    (クリックすると拡大スクロール)

  見知らぬ土地の、はじめて登った山の天辺でしばしの休息を楽しんだあと来た道を戻って谷詰めの十字路まで来ました。

天満宮の先の鈴振崖の眺めが良いと聞きいていましたが、山を下ったら吹屋を見て午後3時45分の高梁行きバスに乗らなければならず、時間が気になっていたので割愛し、登ってきた谷道を下降しました。

吹屋方面の山  
 (クリックすると拡大)

  谷の下部まで来ると行く手が開け、吹屋の山が見えてきました。

下組の人家  
 (クリックすると拡大)

  登山口に戻って左折し、坂本に向かって歩き出すと右手の畑の先の山裾に大きな古民家が見えました。
このあと吹屋への道を歩いて分かったことは、この背後の山の上に旧吉岡鉱山精錬所の遺構があったことでした。

  すぐ先で右折して吹屋に向かう所では右側に市営プールと生活改善センター、左側に運動場のような広場がありました。

  帰宅したあと、ネットで見つけた旧吉岡鉱山レイアウト図と照合してみると、こあたりにはかつて吉岡鉱山の本部があったようす。


  舗装林道のような坂を登ってゆくとT字路があり、吹屋へは右折するよう指示する道標が立っていました。


  高度が上がるにつれて徐々に視界が開け、高原のような雰囲気になりました。
左下の谷は坂本で、ページ冒頭のような美しい山村風景になっています。
背後を振り返ると林の上に天神山が見えました。

  山に突き当たって右手に回り込んでゆくと "道端に世界遺産を目指します" と記した幟が立っていました。
幟の脇から中に入ってみたら広い草原がありました。

  一面桜の幼木が植えられている広場はかつて銅精錬所があった所だったそうです。
右手の谷に臨んでいる所にある大きな角形の石積みは選鉱場の沈殿槽の跡で、広場の中ほどの南寄りにあるトンネル形の石積みは煙道の遺跡のようでした。

  広場の入口近くの草原に腰を下ろし、天神山を眺めながら腹ごしらえをしました。

  昼休みを終えて元の道に戻り、坂を登って汗が出てきた頃、新しい幅広の車道と出合いました

  出口には左の写真のように "吉岡鉱山跡" と記した大きな看板が立てられています。


  道路の向かい側に "腰折地蔵" の幟が立ち、丸太階段の上に地蔵堂が見えました。
登り口の脇に立っている看板には、鉱山で働く人たちの信仰を集めていた地蔵堂が荒廃していたのを修復したと、記してありました。

  鉱山や石切り場は危険の多い仕事場なので、必ず守り神がいた(る)ものです。
吹屋でその役を担っていたのは地蔵尊だったと言う訳です。

  吹屋バイパスとでも呼べそうな幅広の車道は車が殆ど走ってこないのでのんびり歩いてゆけました。

  気がついて後ろを振り返ったら個性的な姿をした天神山が立っていました。

  僅か歩いていった所から左に分岐している道路があり、入り口に "吹屋ふるさと村" と記した看板が立っていました。

  左折してすぐ先の人家の庭先に人が出ていたので挨拶し、吹屋への道を確かめました。

  間もなく赤っぽい色の壁が目立つ家並みに差し掛かりました。
  古い集落だから道幅が狭いのは当然ですが、どの家にも前庭がなく、建物の間の隙間もごく狭く、まるで市街地です。
朱色の土壁はもちろん、軒下の土、格子戸など、あたりのものは全て赤みがかっていて、独特の雰囲気が漂っています。

  家並みが途切れた所に階があり、一段上がった所に山神社が祀られていました。
石段を上がると雛壇状の平地に小さいが威厳の漂う社殿がありました。
境内から階に下り掛かる所にある玉垣の柱に三菱マークが彫り込まれていました。

吹屋山神社から天神山  
 (クリックすると拡大)

  階の降り口に立つと、赤みがかった屋根がびっしり連なっています。
北の方の家並みの先に、天神山の尾根筋が見えました。

  稲妻形に折れ曲がった所を通りりすぎると先の方に吹屋のメインストリートが真っすぐ延びているのを縦観できました。
真っ白な壁が際立つ大きな家が向かい合わせに立っているのは、片山家の本家と分家でした。

  バスが来るまでに少し時間があったので入場券を買って内部を見学しました。

  片山家分家の二階の欄間の繊細な透かし彫りなど、首都圏で保存されている幾つかの著名人の屋敷と比肩する贅沢な造りに驚きました。

  時間がなくなってきたので本家の方は座敷に上がりませんでしたが、屋敷の奥行きがとても深く、大きな建屋が残っていました。


  左の写真の右側の大きな建物の中には、下の写真のように、ベンガラ製造工程のジオラマが陳列されていました。

ベンガラ製造工程のジオラマ  
 (クリックすると拡大スクロール)

  片山家を見学したあと、高梁ゆきバスの時間を見ながら通りを進み、展示館で吹屋が繁栄していた時代の写真などを見ました。

  集落を出外れようとする所には飲食店や土産物屋がありましたが、バスの時間が近付いていたので通り過ぎました。
  吹屋の大通りとバイパス道路が出合うT字路のすぐ手前の土手の裾に左の写真のようにバス停ポストが立っていました。

  ポストの柱に取りけてある時刻表に高梁行のが見当たらず、一瞬焦りましたが、よく見たら柱の後ろ側の面に取り付けてあり、想定通りの時刻が書き込まれていました。

  バスは、はじめ狭い谷間を細かく折れ曲がりながらソロリソロリとノロノロ運転でしたが、笹畝坑道の下を通り過ぎたあたりからようやく普通の道になりまともに走れるようになりました。
  宇治で左折して高梁川に向かうようになると谷が開けて道が良くなり、これまでのスローペースを埋め合わせるかのような驀進になりました。

  高梁川谷に出たあとは川沿いの国道ですからどんどん走り、あっという間に備中高梁駅に着いてしまいました。

  備中高梁駅はふた昔前に三瓶山・伯耆大山からの帰りに通過したときは、古めかしい木造駅舎だった記憶がありいますが、今はバスターミナル、カフェ、図書館が併設された、超近代的な建物に建て替えられていました。

  高梁の泊まり場はうっかりミスで駅に近いだけが取り柄かな、と思われる素泊まりオンリーの安宿を予約してしまっていたのが不安でしたが、客室は思っていたより設備が良くて問題はありませんでした。

  夕方、散歩を兼ねて宿の近をひと回りしました。
落ち着いた良い感じの街で家並みの上に備中松山城の城山が見えました。


<ルートの詳細>



 
ヤマレコの山行報告



  GPX ダウンロード





天神山ルートマップ
  (国土地理院地形図を利用し
   Android アプリ 地図ロイドで作成)

 
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☆おわりに

   吉備路歴史探訪ウオークのついで山行で登った吉備高原の最高峰: 成羽天神山は芽吹きが綺麗でカタクリの大群落がある落ち着いた雰囲気の山でした。

  山を下ったあと備中高梁行きバスが出る吹屋まで歩いたら途中で吉岡鉱山跡を通過しました。
かつて足尾、別子と並ぶ三大鉱山のひとつとして威容を誇った鉱山の遺跡の一部を見られたのは奇縁でした。

  吹屋はベンガラが有名ですが、明治から太正にかけての近現代の繁栄は、三菱が経営した銅鉱山によるものだった事を知りました。
  入社時期が遅く、部門も違ったので "吉岡" という名前は耳にしたものの詳細には無知だったのですが、吉岡鉱山は明治の始めに三菱が金属鉱業を手がける契機となった鉱山ということです。

  天神山は鈴振崖に行き損ねたので機会が得られたら登り直しに行きたいと思っています。
その際には、山麓の坂本や、南方の成羽川沿いに散財する近代産業遺産の遺跡もたっぷり時間をかけて探訪してみたいと思います。