滝山・高月城跡から秋川丘陵 雹留山 (2017.1.7)


☆期日/天気/山行形式: 201X年1月7日(晴れ) 城址巡りと里山探訪単独行
☆地形図(2万5千分1): 拝島(東京10号-4)、五日市(東京14号-2)
☆まえがき
    正月早々、初詣を兼ねて中央区の富士塚を探訪したのですが、今でも残っているのは鐵砲洲富士塚のみと言うことが分かり、いささか拍子抜けしました。
そこで急遽、年初の山行日程を繰り上げ、八王子郊外にある滝山城・高月城跡を探訪し、さらに秋川丘陵トレイルの二条城跡、雹留山から網代弁天山、城山への里山ルートを繋ぐ低山歩きに出かけました。

  滝山城跡は昨年訪ねているので二回目となります。
前回は、午後に恩方の千手山(浄福寺城跡)に登ることにしていたのでその前に一旦八王子駅に戻り、昼食を食べました。
事前の調べが不十分で要点を掴めでいなかったのと、昼食時間を確保できるかどうかが気にかかっていたのとで、本丸跡(霞神社)を割愛してしまいました。
今回はその穴を埋めながら、東京近郊でもっとも規模の大きなもののひとつと言われている山城の構造をよく見たいと思っていました。

  高月城は、木曽から移住して来た大石氏が滝山城を築く前に拠った城と言われています。
秋川の流れが屈曲しているところへ突き出した尾根の上に構築された山城の縄張りの跡を検分してみたいと思いました。

  午後歩く秋川丘陵トレイルは、かつて人気のある低山ハイキングコースだったそうです。
尾根沿いの山林がゴルフ場や共同墓地に変わり、もとの景観が失われたことに伴って歩きに来る人が減り、今ではほとんど忘れ去られていることを知って、興味を持ちました。
インターネット検索で調べてみると一部に藪が被ってきている所があったり、このルート上で最も重要な地点となる雹留山の所在が国土地理院地形図の通りなのかどうか議論があることが分かったり、で擦れっ枯らしの老残山屋にとっては、意外に面白く歩ける状態になっているのかも、思いました。

滝山城跡 中の丸北面の展望    (画像をクリックすると拡大)
  山行日は穏やかな晴天に恵まれ、改まった年の華やぎがそこはかとなく感じられる山里と里山のはざまのウオーキングを楽しました。

  滝山城と高月城では、巧みに地形を利用した先人の知恵に感銘を受けつつ、城跡の展望を楽しみました。
秋川丘陵トレイルは秋留橋からのアプローチ部が廃道になっていて、予想を越える藪潜りをすることとなりました。
雹留山はゴルフ場開発の影響か、2万5千分1地形図の表示より 120m ほど西寄りの鳥居と祠が置かれた高みに山名標識が移っていました。

体力切れ+時間切れのため、秋川丘陵の後半となる網代弁天山-城山-高尾神社奥社の部分を中止して終わったので次回の楽しみがひとつ増えました。

☆行動時間
   宮崎台[7:27]=長津田=八王子駅/北口11番乗場[8:47+3]=(西東京バス さ#01)=[9:08]滝山二丁目バス停(9:10)-尾根上三叉路(9:27)-食違い虎口跡(9:42)-中ノ丸跡(9:48/52)-霞神社/本丸跡(9:55/10:04)-駒形神社-166号線道路橋(10:25)-円通寺(10:41)-高月城入口(10:44)-高月城跡(10:52/11:10)-東秋川橋人道橋(11:20)-国道7号線交差点(11:28)-舞知川緑道(11:37)-(11:47)東秋留駅[12:07]=(JR五日市線)=[12:41]秋川駅-{あきる野東急で昼食}-秋川駅[12:46]=(京王バス ひ#7 京王八王子駅行)=[12:58]秋留橋-歩道入口(13:01)-稜線(13:12)-上戸吹道出合/祠・新しい道標(13:31/35)-二条城址(13:36)-網代弁天山へ 4.3Km道標(13:57)-網代弁天山へ 3.6Km道標(14:11)-送電線鉄塔の袂(14:16)-地形図の雹留山(14:29)-鳥居と祠の雹留山(14:35/45)-武蔵増戸駅 2.3Km道標(14:56)-山田大橋袂(15:17)-(15:39)武蔵増戸駅[15:40+3]=(JR五日市線)=[15:47]武蔵五日市駅[15:55]=(快速あきがわ 2号)=[16:30]立川=(JR南武線)=溝の口=(田園都市線)= [18:07]宮崎台

☆ルートの概況
   八王子駅前のバスターミナルの様子がよくわからず右往左往しているうちに予定していたバスを逃しました。
幸い複数のルートが運行されているおかげで、15分ほどあとに別の乗り場から出る便に乗れ、大幅な遅れは回避できました。

  1年前に通ったのでまだ見憶えのあるルートを走って行ったバスが、左入の交差点で左折して滝山街道に入り、僅か進んだ所に滝山二丁目バス停がありました。

  バス停から5、60m 西に進んだ向かい側に少林寺と滝山城跡入口の看板があります。


  車に気をつけて道路を渡って山に向かう道に進入。
山裾に突き当たった所に「滝山城址ハイキングコース 155-400」と記した手造り風の道標が立っていました。

  右折して尾根の右側に回り込んっでゆこうとするところには「不許薫酒入山門」と刻んだ石柱が立ち、その脇に地蔵堂がありました。

  右下に鶏舎を見下ろして進み、左に緩くカーブしてゆく所に少林寺の参道があり、谷向かいの山裾に本堂の屋根が見えました。

  非舗装で軽トラックがどうにか通れるくらいの幅の坂を登ると尾根の背で、左入の切通しから城跡に通じている尾根道とT字に出合いました。
左折して城跡に向かって進んで行く所は、頭の上に真っ青な空が広がって風はなく、爽快な気分になりました。

  行く手に滝山城の尾根筋が見えてきました。

創価大校舎と富士山 (画像をクリックすると拡大)

  左側の茂みの先に富士山見えました。
その横に立っている背の高いビルは谷向いの丘の上にある創価大学です。

  僅か進んだ所で麓から上がってきた道が出合うと八王子乗馬倶楽部クロスカントリーコースと書いた標柱が立っていました。

  滝山公園の幟と東京都立公園の看板が並んでいるところでは園内のイラストマップが見られました。
看板の柱に取り付けたボックスの中にイラストマップのプリントや案内人申し込み用紙が置いてありました。 

  尾根が堀り切られた所に橋が架けられていました。
今は固定橋ですがもとは引橋か跳ね橋だったに違いありません。

  滝山城址下バス停から登ってきた道が出合った所から右手へカーブして進みました。 

  道の両側が掘り込まれ人工的な隘路になっている所を渡ります。

中の丸跡 (画像をクリックすると拡大)

  一旦幅が広がった尾根の先で細尾根を渡り、右手に曲がると広々した中の丸跡に出ました。

  以前は公共の宿があったそうですが、今は広場の南側の公衆便所と北側にある建物の間が運動場のような広場になっています。

  広場の北の端は多摩川に面した河岸段丘の急崖でその縁に立つとページ冒頭のパノラマ写真のような景色が見られます。
正面は多摩川で、左手から流れ出して出逢っているのは秋川。
川の向うは拝島、昭島の市街です。
 
  歩いてきた道に戻って右折すると橋がありました。
この橋も元は引橋か跳ね橋だったに違いありません。

  橋から下を覗くと深い空堀になっていて、搦手の方に降りてゆく遊歩道が通っています。
 
 
  橋を渡った所で左手の高みに上がると「史蹟 滝山城址」と刻んだ石碑が立っていました。 

  石碑の前にある広場(中の丸の4分の1くらい)の向かい側の一段高い所に霞神社がありました。
特定の神様を祀っているものではなく、日露戦争に武勲を樹て散華された英霊を奉斎している慰霊殿でした。
  霞神社の背後にはもっと広い平地があり、その北端近く金毘羅神社がありました。
こじんまりした社殿ですが、左脇に石碑が立っていて、山裏の滝山村の守護神である旨の文言が刻まれていました。
この村は多摩川、秋川合流点近くにあって、養蚕も盛んに行われただけでなく、多摩川による物流と山地との接点として、大いに繁栄した歴史があるそうです。
船の交通安全を司る神様である金毘羅神社がここにある所以です。

  神社の北側の崖縁に立つと秋川と多摩川の出合が間近に見えました。

滝山城跡 本丸跡北面 弁天神社境内から秋川多摩川合流点、あきる野市街    (画像をクリックすると拡大)
 

  本丸跡からあきる野市方面の展望を楽しんだあと霞神社の前に戻り、坂を下って先ほど渡った橋の下を潜っって進むと金比羅神社参道の階の下を通りました。

  急坂を曲がり下る石畳の道を進んで前の方が開けてきた所に公園北口の標柱が立っていました。

標柱の横に東秋川橋への道標が立っていて東秋留の方に行けることがわかります。

  右へ坂を下って滝山の集落に入りました。
昔、盛んだった養蚕のモニュメントである滝山の大桑やかつての繁栄の証拠と思われる立派な門構えの大きな旧家の建物などを見ながら進んで都道 166号線に出合いました。 

  車の往来が激しくて歩き難い道ですが、コンビニの先に「手の外科 スポーツ医学研究所」と言う看板をだしている病院があったり、山を背に堂々とした本堂の圓通寺があったり、見どころもある道です。 

  寺の前を通り過ぎるとすぐ、「HOTEL 高月城 入口」と記した看板が現れました。
ラブホテルの看板ですが、城址探訪路の入り口の目印にもなっています。

   

  看板の下で左折して山に向かい、緩やかな坂を登ってゆくと空堀跡と思われる切通にかかりました。
出城跡と思われる右の台地の上は今はラブホテルがあります。
その向かい側の石垣には左の写真のように隙間があってその間から山に入ってゆく道が城址探訪の始まりです。

  道標のようなものは全く見えませんが地形図と GPS 座標から間違い無しと判断して踏み込んでみると細目ながらしっかりした道形が延びています。 


  杉林の中へ僅か入ってところにある空堀跡と思われる帯状の窪地に壊れかかった小屋がありました。

  小屋の脇から左手へ斜面を登って行き、ひと登りした所で右手に折れてさらにひと登りすると秋川を見下ろせる尾根の背に上がりました。
 

 (画像をクリックすると拡大)

  左に向かって緩やかに登ると左のように思いがけない広さの平坦地の端にでました。
一面藪原になっていたのが刈り払われたあとで、道形を踏み外すと枯れ枝が積もって歩き難い状態になっていました。

  広場の奥の方の、多分このあたりが本丸だったのかも、と思われる辺りを囲っている柵の中は野菜畑になっています。

  辺りを見て回りましたが何もないので道に戻り、木の根方の草地にザックを下ろしました。
 重機が動いている音が風に乗って流れてくるほかは何もない山上台地でした。
 
  十分に休んだあと立ち上がり、山を下り始めると左下に秋川の流れを縦観し、ここが戦略的な場所だったことが分かりました。
  国道に戻って家並みの間の狭い道路を歩いて行くと東秋川橋に着きました。
片側一車線の橋をひっきりなしに車が走って居ましたが平行して歩道橋が架けられているのでのんびり歩いて渡れます。
手前の右岸の広い河原は一面野菜畑になっています。

  対岸は崖になっていて高月城の前に築かれた二宮城はあのあたりか、と見当をつけました。
歩いてきた方を振り返って見ると家並みの上に高月城の丘が頭を出していました。 
5
  橋の先の坂を登ると都道7号線との交差点がありました。
筋向かいの熊野神社の境内に入って見たら神域に犬を連れ込んではいけない旨を記した掲示がありました。
小さな神社なのに境内が奇麗に清掃されていたのは珍しいと思いました。

  住宅街の中の道を拾ってゆくと小学校があり、校舎の裏を水の綺麗な小川が流れていました。
このあたりには湧水が多いそうですがそのひとつから流れ出していると思われました。
5   舞知(もうち)川と呼ばれている川に沿って遊歩道(のような道)があったので校舎の反対側まで歩いた所で右折すると間もなく踏切が見えてきました。

  踏切を渡って左折するとすぐ東秋留駅で、午前の部の城跡めぐりの終了点でした。

  駅のまわりには良さそうな食事場が見えなかったので次の電車で隣の秋川まで移動しましたがそちらでも駅のまわりに日本蕎麦屋がみつからなったので少し離れた東急ショッピングセンターに行き、フードセンターで "おこわ稲荷" を買って食べました。

☆ルートの概況
   下は、朝から昼までの城跡探訪ウオークと、昼過ぎに歩いた秋川丘陵の行動軌跡を書き込んだ Google マイマップの画面キャプチャーです。




マップを拡大して見る



  お昼を終わって駅に戻ると駅前広場にバスが停まっていました。
ドライバーに聞いてみるとこのバスは滝山街道を通って八王子に行く路線バスで、秋川丘陵トレイル入口の近くを通るとのこと。(毎時45分発)
少し疲れたし時間も遅れ気味だったのでタクシーを使おうかと思っていたところだったのが僅か200円ほどで20分あまりの時間と体力を節約することができました。
 
  秋留橋を渡った所にあるバス停で降り、西に向かうと東京サマーランドの看板が見えました。

  僅か進んだ左側にある広場の入口は車止めがあって車は入れないようにしてありましが、広場の奥の方に道標のようなものが見えました。

  広場を横切って山裾にかかる所に秋川駅への道標が立っていました。
何故かその支柱から近くに立木へロープが張り渡してあり、道形も見えるものの、最近はあまり人が通っていないような感じです。

  小さな沢溝に入ってゆく所で、地形図的には取り付き点であることは間違いないと判断しましたが、踏み込んでみたらかなり藪が濃密で完全な藪ルートになっていました。

  藪の中の切れ切れの踏み跡を追跡して谷を詰めてゆくと次第に傾斜がきつくなってきましたが、間もなく上のほうが明るくなってきて、稜線が近付いてきた雰囲気になりました。 

  最後はかなりの急斜面になりましたが、草薮の中に疑似木の階段が残っていて、案外容易に登り続ける事ができました。

  やがて尾根の背に登り着くと左のような道標が立っていて網代弁天山へのルートに出合えたことを確認できました。

  今しがた登ってきた方の腕木には「この先通行できません」と書いた掲示板がぶら下げられ、こちらのルートが廃止になっていたことが分かりました。

  右折して西に向かて進むと両側が雑木の中木林になり、笹も生えているものの、道形はしっかりしていて藪が被っているようなところもありません。

  左の林の下に、人家か何かの屋根が見え隠れして山深い感じはありません。

  僅か進んだ所に立っている木の幹に
「この先倒木・危険箇所あり ご注意ください」
と記した掲示が取り付けてありました。

  掲示の向きは二条城の方からきた人の方を向いていますから、先程見た秋川駅ルート廃止と連動したものでしょう。

  尾根の右側は急傾斜で所々が崖になっていまが、そのおかげで視界が得やすく、秋川の北岸に広がるあきる野の市街が見えたりします。

  左側が孟宗竹の林になったあと少し進んだ所は右側の樹木が刈り払われ、小高い所に祠が据えてありました。

  左下から登ってきた歩道が出合い、出口に "上戸吹バス停 1.5Km" / "網代弁天山 4.9km" と記した新しい道標が立っていました。


   祠の先に3連の野外ベンチがあったのでザックを置いて休んでいると下から中年の男性が登ってきました。
山支度ではないので近くに住んでいる人が車で通りかかったついでにちょっと登って来たような感じです。

  昔はよく人が来ていたがトンネルが通ったあと山の北側が崩れやすく通りにくくなって人が減ったようなことを言っていました。

  ベンチのあたりから歩いてきた方を見ると左のように立木に取りつけられた掲示があって、「秋川丘陵コース この先通行できません」と書いてあります。
 

  祠の前からわずか西に寄った所に左のように錆で読めなくなったプレートが立っていました。
あとから写真を拡大してよく見ると "二条城" の文字が見えました。
祠やベンチのある所からこのプレートの付近が二条城跡だったようでした。

  プレートの文字が読み取れないまま、二条城跡はまだかなぁ、と思いながら進んでいったら尾根筋が妙に屈曲している所がありました。
多分堀切か虎口の跡だったのでしょう。

  右側が崖状になっている尾根の背を外れて左下にひと下りすると穏やかな谷筋を登ってきた幅広い土道に出合いました。
軽トラックくらいなら楽に走れそうな穏やかな坂道です。

  尾根の背に戻ると右側の山林の縁に、「この先私有地につき、立入禁止」と記した看板が立っていました。

  道が尾根の背を乗り越えて北面に入ろうとする所に「網代弁天山へ 4.3Km、二条城跡から 1.0km」と記した道標が立っていました。 

  北面を進むようになった道は人道と林道と二筋に分かれていました。
今は乗り入れ禁止になっているようですが、一時期、オフロードバイクのコースだったようです。

ハイカーが来なくなったのはバイクが走り回るようになって山が危険になったためかもしれません。

  幅広の旧バイク道は砂利がゴロゴロしていて歩きやすいような難いような、妙な感じです。

  大きな車止め広場に着きました。
バイク時代の名残りと思われます。
広場の縁には「この先行き止まり 車の通行はできません」と記した掲示板があります。

  尾根の背に沿って上下している幅広の道を進んでゆくと左横の高みの上に送電線の鉄塔が立っていました。

    鉄塔の少し先に踏跡があったので尾根の背に登ってみたらすぐ下はゴルフ場縁の車道になっていてその先が広大なゴルフ場になっていました。

  地形図と GPS 座標を参照しながら進ん行き、このあたりが雹留山(264m)の筈と言うところで周りを見回したのですが左の高みはゴルフ場に削り取られ。右側は幅広の土道の切通しになっていて、山の頂上とは程遠い状態になっています。

  「この自然歩道は地主の(私有地)の方々の協力と善意によって設置されています。 利用者は以下のマナーを守って利用してください、云々」 と書いてある看板が立っているほか、はかばかしいものがは見えません。 

  あてが外れたのでまわりを見回しながら進んでゆくと100m あまり先の道端の藪の中に左のような標識が見つかりました。
あきる野志在住、大正生まれの男、と言う人が平成21年に設置した道標で、 "←雹留山" と言う標識がついています。

  道標の横の踏み跡に入り、足場の良くない斜面を登り上げると鮮やかな赤色に塗られた鳥居があり、その後ろの石祠に榛名神社の御札が収められていました。

  GPS で位置を確認すると2万5千分1地形図に雹留山の山名が書き込まれている所とこの鳥居・石祠の位置は明らかに違い、120m ほど西に移動しています。
多分、ゴルフ場工事に伴って削り取られた頂上にあった祠を、西隣りの高みに移動したのでしょう。

  このあたりの山の北面は「あきる野引田 企業の森」 になっていました。
ここの看板には日本事務機の名が記されています。

  少し先には東京サマーランドの裏門があり、ゲートの中に入るには大人600円、子供 300円が必要と記した看板がかかっていました。

  ゲートの脇には富士通グループの看板が立っています。

  さらにもう少し進むと二条城のと同じように赤錆びたプレートが立っていました。
このプレートではハイキングコースが右折していることが何とか読み取れました。

  このあたりから道幅が一段広くなり、車でも楽に通れそうと思えるほどになりました。

  尾根の裏側(南面)は広大な共同墓地になっていて墓石が傾いた日の光を反射しています。
 
  「網代弁天山 2.5Km」/「武蔵増戸 2.3Km」と記した道標が立っている所まで来ると行く手を横切っている舗装路が見えてきました。

  車止めの間を通って舗装路に出た所から右手に向かい、山の横手を回ってゆくと道端に並んでいるふたつの石に幣が掛けてありました。

古くから伝わっている自然石信仰のようです。

グリーンの先に大岳山    (画像をクリックすると拡大) 

  間もなくゴルフ場の中に進入しました。
左右に視界が広がってきて、左側のグリーンの先に大岳山が見えてきました。
大岳山から右手へ尾根を辿っていった所にあるピラミダルな山は御岳山に違いありません。 

  右側のフェヤーウエイの先に秋川対岸の市街が見えてきました。
白い大きな建物は富士通のようです。
 

  山田大橋が見えてきました。
橋の袂に左手に進むと網代弁天山に行けることを示す道標が立っていましたが、時間が遅くなってきたし、疲れも出て来ていたのでここまでで中断して帰ることにしました。

  信号待ちをして道路を横切り、橋の東側の歩道を歩いてゆくと、とても高い橋の上になり、遥か下の河原の運動公園で少年たちがサッカーをしているのが見えました。
その近くには、正月の松飾りを集めて立てたドンド焼きの小屋が見えました。

グリーンの先に大岳山    (画像をクリックすると拡大) 

  橋の大半を渡ったあたりで上流側を見ると夕日を浴びている大岳山、御岳山が高く見えました。 

  坂を登って行くと都道7号線との交差点がありました。


  住宅街の中を進み、二股に分かれている道の右手に入ってゆくと間もなく、武蔵増戸駅のモダンな建物が見えてきました。

  待合室にある時刻表を見ると、上り電車は出ていったばかりで20分あまり待たなければならないことが分かりました。
汗で濡れた着物で開け放しの待合室に長く座っているのは体に良くないのではと思っていたところ、居合わせたた地元の女性に勧められ、数分あとに来た下り電車に乗りこんで五日市駅へ行って折り返したのは大正解でした。
五日市で折り返して快速おくたまとして発車する前に大勢のハイカーが乗り込んできて始めから満席の混雑となりました。

<ルートの詳細>




  ヤマレコの山行報告



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☆おわりに

   年の初めの山行では、落城・廃城の歴史が残っている古城跡巡りと、人気が落ちて一部が廃ルートになってしまったハイキングコースと、老残ハイカーに相応しいルートを歩くこととなりましたが里山ならではの意外な展望スポットとの出遭いがありました。
  中世山城の跡だけでなく、かつて繁栄を極めた村を通過したり、大規模な自然破壊とそれにストップをかけようとした人達の苦心の跡を目撃したり、里山ならではの歴史ウオークとなりました。

  この山行の大きな収穫は、秋川の谷筋には甲斐の武田と対峙した北条の山城チエンがあったのを知ったことでした。
この谷筋の山城跡と寺社などを、梅・桜から新緑の季節にかけて順次訪ねてみたいと思っています。