臥牛山から備中松山城、鬼ノ城山 (2017.4.23)


☆期日/山行形式: 2017年4月23日 市中ホテル泊、タクシー利用日帰り単独山巡り
☆まえがき
    吉備路ツアー "ついで山行" の二日目に成羽天神山に登ったあと吹屋を訪ね、備中高梁まで移動して駅前のホテルに宿泊した翌日の朝、タクシーで楢井坂経由、臥牛山後背稜線上の松山城展望台へアプローチ。
谷向かいの山上にある松山城の展望を楽しんだあと、大松山、天神山を経て松山城本丸がある小松山への中国自然歩道の尾根伝いルートを歩きました。

  登城路と呼ばれている大手道を歩いて下り、山麓の城下町で江戸時代の侍屋敷や明治・大正時代の史跡を訪ねて駅に戻りました。
お昼を食べながら JR伯備線・吉備線を乗り継いで東総社まで移動し、ふたたびタクシー利用のアプローチで鬼ノ城山ビジターセンターへ。
国内2大古代山城のひとつと言われている鬼ノ城山の朝鮮式山城を訪ねました。

備中松山城後背稜線 大松山頂上の展望    (画像をクリックすると拡大スクロール)
☆展望台から臥牛山を経て備中松山城へ
<2万5千分1地形図>
    高梁(高梁5号-1)、豪渓(高梁5号-3)
<行動時間>
    備中高梁駅[7:45]=(Taxi 2660円)=[8:05]展望台入口-備中松山城展望台(8:20/30)-車道末端 松山城 1.5Km 道標(8:35/40)-478.3m三角点峰(8:53/55)-切通し堀切(9:03)-吊橋西袂(9:11)-大池番所跡(9:16)-大松山城跡入口(9:18)-天神の丸跡看板(9:24)-せいろうが壇(9:28)-土橋跡(9:36)-二重櫓(9:41/43)-備中松山城(9:47/10:18)-ふいご峠(10:37/40)-休憩小屋(10:49)-登城口(11:02)-松山城登城口バス停(11:08)-石火矢町武家屋敷通(11:12/16)-商家石祠(11:23)-藩校有終館跡(11:25)-基督教会(11:26)-米川正夫生家(11:32)-(11:48)備中高梁駅(以下、鬼ノ城山の部へ)

<ルートの概況>
    食事を提供しない宿舎に泊まったので前日に調達しておいたカップ麺などで手早く朝食を済ませ、駅前のタクシー乗り場に行きました。

  町外れの大学町から楢井を通って臥牛山後背稜線上の松山城展望台へのアプロールートは思っていたより穏やかな地形の中を通っていて、20分ほどの快適なタクシードライブでした。
タクシードライブの良い所は、地元のもろもろに精通しているドライバーから色々な情報を仕入れることができることです。

  展望台の裏側にはちょっとした駐車広場があって端に沿って数基のポータブルトイレが並べられていました。
谷間を雲海が覆う季節には大勢の観光客が押しかけるようです。
  臥牛山には天然記念物に指定されている野猿の群れが住んでいて、下のような注意事項を記した看板が立っています。
  ・サルに食べ物を与えないでください。
 ・面白がって、サルに近づいたり、挑発しないで
    ください。
 ・目と目があってもにらみつけたりしないでください。
 ・手荷物などをしっかり抱えてください。
 ・サルが近づいてきても、相手にしないでください。

  左手の土手の上の林の中を 50m 程進んだ所に、大きな木組みの展望台が立っていました。

高梁川谷が朝霧に覆われ、雲上に浮かぶ松山城が見れる時期には大混雑になるのでしょうが、今はオフシーズンで、駐車場に車が1台いたものの人影は見えませんでした。

展望台の眺め[1]    (クリックすると拡大)

  展望台に上がってみると谷向いの山の上に城が見えました。
雲一つない快晴で少し霞みがかかっていますが遠くの山までよく見えました。

展望台の眺め[2]    (クリックすると拡大)

  山の下は高梁川の谷幅が広がって河内地形になっていて左岸の段丘の上には高梁の家並みがギッシリ並んでいます。

  車道に戻って先に進むとすぐ猿の大群と出合いました。
ざっと見たところ50頭はいたでしょう。

  猿の大群との遭遇は、飯豊、津軽、志賀高原などで何度も経験し、"猿慣れ" している積りですが、ここでは猿の方も "人馴れ" している様子で、すぐ脇を人が通り掛っても知らん振り。こちらを見ようともしません。

  猿の群れと擦れ違った所から僅か進んだ所で舗装車道が尽きました。

  その先の林道の入り口には中国自然歩道のマップ看板が立っています。
 
  入り口から先は幅の広い土道でしたが、ときどき作業用車が出入りしているようで、轍の跡が残っています。
 

  平らな車道を進んでゆくと前方が開け、水平に山腹を巻いてゆく道とと緩やかに巻き登ってゆく道とふた筋の道が見えました。
さらにもうひとつ、すぐ右手から尾根の背に上がってゆく歩道があって入り口に中国自然歩道の道標が立っていました。

  尾根の背に上がる道に入り、杉林と伐採地の境の道を登って行くと、山の天辺につきました。

  左は後ろを振り返って見たものです。
左横の林の中に大高松山の 478.3m の三角点があるようでしたがこの日の目的は藪ルート歩きではなかったので三角点標石の確認はパスしました。

  左側の山林は伐採されて広大な視界が得られ、ページ冒頭のような展望が得られました。

  最高点を乗り越えた先から急斜面に設置された丸太階段を下降しました。
間もなく濃密な常緑樹低木林に入り、尾根の右側の急斜面を折れ下ってゆきました。

  ひと下りで小鞍部降り着くと中国自然歩道の標識が立っていました。

  鞍部の西側には左のように尾根を掘り切って作った空堀の跡があり、このあたりが松山城背後の防御ラインであったことが分かります。

  石垣があって、その上の小平地に不動像が据えてありました。
中世松山城の搦手番所跡だったようです。

  すぐに谷詰めの険しい地形を交わしてきた大吊橋の西端の横を通りました。
歩行者専用の吊橋ですが、猿が入り込まないよう上蓋が被され、出入り口にドアが取り付けられています。

  左手へ回り登ってゆくと大きな溜池の縁にでました。

工事中の看板が立ち、綱が張られていて近寄ることはできませんでしたがこれまでに見た山城の水の手のうちでは最も大きなものでした。

  池の向かい側に松山城の略歴を記した看板が立っていました。
13世紀早期の承久の乱のあと三浦半島から来た秋葉氏が大松山に築いた砦が松山城の始まりだそうです。

  戦国時代には備中の重要な拠点として繰り返し争奪戦が行われて城主が交代。
江戸時代も含めると16回も主が入れ替わったそうです。

  左手へ回り込んだ所に "天神丸跡 80m" と記した標識が立っていて、臥牛山中央峰の肩まで来ていることが確認できました。
早く天守を見たかったので先に進みました。

  左手に回って進んでゆく所にはツガの大木が林立し、臥牛山のアベマキの事を記した看板が立っています。

  顕著な堀切空堀跡を横切りました。
中世松山城の本丸は天神山にあった訳ですからこの堀切は城正面の防御線の跡ということになります。

  堀切の先の小さな高みに "せいろうが壇" と刻んだ石柱が立っていました。
ここは、天神の丸跡に本丸が置かれていたときの出丸と考えらます。

  "相畑" と刻まれた石柱の脇を通過しました。
天正2年~3年(1574~1575)に起こった松山合戦(備中兵乱)の古戦場だそうです。

  小じんまりした高みに不動像と "番所跡" と刻んだ石柱が立っていまして。

  番所跡のすぐ先にある深い空堀を木橋で渡りました。
もとは可動橋で合戦の際には外せるようになっていたと言うことです。

小松山手前の眺め    (クリックすると拡大)

  橋を渡って尾根の左側に出てゆくと横手の視界が開け、谷向いの山が見えました。
奥手の三角形の高みは楢井から上がって来た尾根に隣接している 523.5m 峰のようです。

松山城二重櫓    (クリックすると拡大)

  右手に回ってゆくと本丸の背後を固める二重櫓が見えてきました。
大岩の上に築かれた高櫓で、いかにも山城らしい雰囲気が漂っています。

  二重櫓の左袂には "後曲輪跡" と刻んだ石標が立っています。

  本丸の前の広場に向かって高い石垣の裾を進んでゆく所では、頭の上の白壁塀に鉄砲狭間が並んでいるのが見えます。

  本丸前の広場に出ました。
ちょっと可愛いなぁ、と感じられるくらい小じんまりしたお城でした。

  江戸時代以降は実戦に備えた城郭というよりむしろ備中松山のシンボル的な建物だったと思われます。

  入城券を買って天守の内部を見学しました。
入り口の石段を上がると広々した前庭を見下ろせます。
 
  階下には珍しく囲炉裏がありました。
急な階段を上がった上階には落城時に城主が自刃する場所と言われる装束の間があり、神棚のほか幾つかの展示物がありました。

 それらの中でとりわけ興味深かったのは、高梁藩と新島襄との繋がりを示すパネルでした。

  新島襄が希望していた米国留学を安中藩主 板倉勝殷が阻んでいたところ、独自に交易船を運行していた備中高梁の藩主 板倉勝静が文字通り助け舟を出し、函館まで行かせたのだそうです。
そのおかげで米国船に乗り継ぎ、渡米することができたのだそうです。

  留学を実現させてくれた藩主に礼を言うため新島襄が明治15年に高梁を訪ねた時にプロテスタントの教義を説いたのが影響して高梁基督教会が創立されたことなどが記されていました。

写真の説明    (クリックすると拡大)

  本丸から出てきて二の丸前から降り始めようとする所では山麓に広がる高梁の家並みが一望にできました。

写真の説明    (クリックすると拡大)

  大手門跡の下まで下降したところで振り返ると複雑に入り組んだ石垣がまるでエッシャーの騙し絵のようでした。

  下降路がふたつに分かれていたので左手に入ってみたら舗装林道になりました。
作業用車専用路のようで上部に停めてあった作業用トラック以外の車は見えず、人も歩いてこずで、のんびり歩くことができました。


  斜面を左手に向かって斜降してゆく所では谷側への視界が開け、谷向いの山が間近に見えました。
頂上にアンテナが立っているのは愛宕山のようです。

松山城下降路の景色    (画像をクリックすると拡大)

  道が右手に回ってゆくとパッと前が開け、ふいご峠の広場に飛び出しました。
高梁駅から運行されているシャトルバスの折り返し点です。
ここまでバスで来て、30分弱歩くのが一般的な登城ルートになっているようです。

  下山路の続きの入り口は広場の奥の方にありました。


  入り口から僅かで中国自然歩道と出合いました。
右手へ登ってゆけば松山城まで 700m、左手へ下って行けば登山口まで 900m と記した道標が立っています。

  下降路の上部はかなり急で石段になっていました。
ひと下りした所にある石の傍らに "播州赤穂藩家老 大石良雄腰掛石" と記した看板が立っていました。

  記録によれば、17世紀の後半に高梁藩主の水谷家が断絶した時、松山城を預かることになった赤穂藩の代表として派遣された大石内蔵助が腰掛けた石だそうです。
松山藩家老 鶴見内蔵助との、二人の内蔵助の話し合いが上手くできたおかげで無血開城が実現した事などが記されています。

  腰掛石のわずか先に小さな小屋掛けの雨宿り場があり、その先で尾根の背を乗り越えると傾斜が緩みました。

  麓の運動場で何かの練習をしている声が聞こえてくるようになると間もなく行く手が開け、登城口のゲートに着きました。

  山裾を流れている川を渡って車道に出合った所を右折するとすぐ、松山城登城口バス停ポストが立っていました。

  ポストの脇に "山田方谷先生家塾 牛麓舎跡" と刻んだ石碑が立っていました。
  山田方谷は幕末から明治初期にかけて活躍した人で、陽明学を基盤としながら様々な分野で活躍した人物だそうです。
自前交易船の運行による藩財政立て直し、長岡藩、長州藩(奇兵隊)に伝承されたイギリス式の軍隊編成など、日本の近代化に様々な影響を与えたそうです。

  川沿いの車道を下って左折した所から石火矢町の通りに入りました。
白壁の土塀が続くまっすぐな歩道には江戸時代の雰囲気が漂っていました。
塀の中の住宅は現代風に建て替わっているようでした。

  石火矢町を通り過ぎて右折、川沿いの道を僅か進んで藩校有終館跡の前まで来たところで左折すると十字路の角に望楼とベランダが際立つ洋館が建っていました。
  新島襄所縁の教会堂で、入り口に "高梁基督教会" と記した看板があります。

(新島襄の出身地群馬県安中市の隣の富岡市の世界遺産富岡製糸場のすぐ裏に高梁のと同じ名の "富岡基督教会" があり、遠く離れた上州と備中の田舎町の間に意外な繋がりを感じました。)

  幅広くなった街路を歩いていると、著名なロシア文学者米川正夫の生家があったり、コンクリート桁を組み合わせたユニークな構造の医院があったりして、この町がただの田舎町ではないと感じました。

  市役所とホテルの間を通り過ぎるとすぐ、備中高梁駅が入っているモダンな建物が見えてきました。

  予定よりひとつ早い時間の伯備線列車に間に合うこととなったので、お昼の食料を駅前のコンビニで購入して、総社方面行ホームに行きました。

<ルートの詳細>




  ヤマレコの山行報告



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  ルートマップ
  (国土地理院地形図を利用し
   Android アプリ 地図ロイドで作成)
<午前の部のまとめ>
   馴染みのない土地の初見の山だったところへ、城址や城下町探訪を組み合わせ、やや込み入ったスケジュールを上手く完遂できるかどうか不安でしたがこの上ない好天に恵まれたのと、想定より地形が穏やかでルート整備が良かったのとのお陰で、至極順調に歩き通し、予定より30分ほど早い時間に駅に帰り着くことができました。
紅葉の季節、雲海の季節にぜひ、松山城を再訪したいと思っています。
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☆東総社から鬼ノ城山
<2万5千分1地形図>
    総社東部(高梁4号-4)
<行動時間>

    備中高梁駅[11:52]=(伯備線播州赤穂行)=[12:16]総社[13:01]=(吉備線岡山行)=[13:04]東総社[13:10]=(Taxi 2420円)=[13:30]鬼ノ城山ビジター・センター(13:35/43)-鍵岩展望台(13:49/55)-西門(14:01/08)-第1水門跡(14:16)-南門(14:27/33)-岩切観音(14:37)-第4水門(14:41)-東門(14:42/44)-鍛冶工房跡(14:46)-屏風折れ石垣・礎石建物群分岐(14:51)-湿原(14:58)-倉庫跡礎石群(15:05)-管理棟跡(15:07/08)-鬼ノ城山頂上(15:18/22)-鬼ノ城山ビジター・センター(15:40/16:05)-鬼ノ釜遊歩道分岐(16:11)-車道出合(16:21)-(16:51/17:00)砂川公園[17:11]=(Taxi 1460円)=[17:21]宿舎(サンロード吉備路)

展望台から見た鬼ノ城山南門とと吉備平野    (画像をクリックすると拡大スクロール)

<ルートの概況>
    備中松山城山を順調に歩き終え、予定よりひとつ早い伯備線列車で午後の部で訪ねることにしていた鬼ノ城山に向かいました。
昼時のローカル線列車はガラ空きで、高梁川谷の景色を見ながらノンビリお昼を食べました。
早い時間に総社に着きましたが吉備線の接続が悪くて長い待ち合わせをし、結局もとの計画と同じ時間になりました。
  午後の部でも時間と体力を節約するためタクシーでアプローチすることにしていました。
翌日から3日間の吉備路探訪ツアーの参考にもなると考えたので東総社からのタクシー・アプローチをトライしました。

  事前にストリートマップでチェックしたら東総社には両備タクシーが客待ちをしている画面が表示されていましたが実際は、空のタクシー用駐車スペースがあるだけでした。(翌々日の夕方、グループの移動のためこの駅から両備タクシーを呼んでみたらフル稼働中だから30分あまり待つよう言われ、急遽総社の日本タクシーを呼び寄せて用を足すこととなりました。)

  タクシーは東に向かって走り、結局、隣の服部駅の真北まで来たところで左折し。砂川公園、鬼釜を経てビジターセンターに着きました。

  日曜日だったせいか、かなりの数の車が来ていて老若男女が歩いていました。


    歩き出す前にボランティアガイドに簡単なレクチャーをしてもらいました。
九州地方北部・瀬戸内海周辺に残っている古代山城跡のひとつだが、その存在は近年まで知られていなかったのだそうです。
たまたま山火事があって山が裸になり、石垣が顕になったのを調べてみたら古代山城跡だった事が分かったのだそうです。

  遊歩道に進入すると、車椅子でも見て回れるよう緩やかなに折れ登ってゆく道と、短い階段を連ねたショートカット道が絡み合うように整備されています。

  芽吹きの林を見ながら進んでゆくと学習広場展望デッキへの入口がありました。

写真の説明    (クリックすると拡大)

  短い渡り廊下の先にある展望デッキに立つと谷向い間近に西門が見えました。

  展望デッキにもボランティアガイドがいて、あれこれ説明してくれました。
展望台正面は回廊状の平坦地で、吉備路が通過しています。
倉敷の後背丘陵の向こう側は瀬戸内で、空気が澄んでいれば瀬戸内海や讃岐の屋島まで見えるそうです。

  最高の戦略的な地点に城を築いた古代人の知略はスゴイと思いました。

  元の道に戻って先に進んでゆくと版築法で築いた城壁の裾にそって進むようになりました。

  西門は大きな櫓の上の回廊に盾を巡らせて、なかなか威圧感がありました。

  門の中の広場では古代劇のビデオ撮影をやっている最中でしたがちょっと覗いてみただけでは話の筋が分からないので先に進みました。

  城壁の縁に沿って平石を並べた回廊の上を進んでゆくと第1、第2水門がありました。
水門は、城内に湧き出している水を外に排水するのに、人が侵入したりせぬよう、石垣を通す仕掛けです。

  山火事のせいか歩道に沿った山林は全て低灌木でした。
芽吹きが美しく、所々にちらほら見えるムラサキヤシオが綺麗でした。


  南門に着きました。
楼門は復元されていませんが発掘された礎石に柱が立てられています。


  左手への視界が広がり、この山から流れ出している血吸川と、その先に緩やかな谷を形成している足守川が一望できました
右手の遠くの方には、次の日から歩く事になっている吉備路の造山古墳が見えています。

鬼ノ城山南門付近の展望    (画像をクリックすると拡大スクロール)

  不動像と思われる石像がありました。

写真の説明    (クリックすると拡大)

  高石垣、岩切観音、小沢の橋、第4水門跡、東門、鍛冶工房跡と順次進んで行って前方に屏風折れ石垣が見える高みまで行ったところで反転し、頂上を通ってビジターセンターに戻る道に入りました。

  台地状の山のため頂稜は不明瞭ですがルートは、湿原の左脇を通過したあと僅か登って尾根の背に乗ったようです。

  赤松林の中に倉庫跡や住居跡の礎石が並んでいました。

  しばらく歩くと行く手の高みに大きな東屋が見えてきました。
このあたりが標高 397m の鬼ノ城山頂上と思いました。




  東屋のまわりは草原が広がって視界が開け、吉備平野を見渡すことができました。

鬼ノ城山頂上の展望    (画像をクリックすると拡大スクロール)

  歩いてきた道に戻ってビジタセンターに向かうとすぐ左手に西門が見えました。
この景色は、雑誌やポスターで時々見られ、この山の定番風景になっているようです。

  ビジターセンターに戻ってもう一度展示室に入り、少し丁寧に展示物を見学しました。
  人口もさほど多くはなかったであろう7世紀後半に、これほど大きな規模の山城を築いた人達のモチベーションは何だったのだろう?、と考えました。

  時間が少し遅くなりましたが山が終わる砂川公園まで歩いてみることにしました。
車道を少し下った所に左のような道標が立っていて左に分岐する歩道があります。

  踏み込んでみた歩道は小沢に沿った明瞭な道でしたが近頃は歩く人が少ないようで路面が緩んでいました。


  感じの良い道でしたやがて左下に車道が見えてきてあっけなく元の道に戻ってしまいました。

出口には、"ウオーキングセンター" と記した道標が立っていましたが、歩いてきた途中に建物は見えなかったような気がしました。

  またもとの車道歩きに戻りましたがこの道筋ももとの参詣道に沿っているようで路傍に一定間隔で地蔵石像が立っています。

  大きな溜池の縁に出ました。
池の奥の山は経山で古い城跡があるようです。

  道が左手に曲がって行き、カーブが終わった先から公園になりました。

  灌漑用と思われる水路にそって歩いてゆくと、宿泊小屋などが並んでいました。

砂川公園    (クリックすると拡大)

  赤松林の間を流れている川を利用した親水公園が整備されていましたが、一面の敷石は少々やり過ぎなようで、元の自然の川の景色とはかけ離れているような気がしました。

  公園管理事務所に着いたところでタクシーを呼びました。
総社の宿舎まで10分ほどのタクシードライブでしたが野球フアンのドライバーとの野球談義で盛り上がりました。

<ルートの詳細>



  ヤマレコの山行報告



  GPX ダウンロード





  ルートマップ
    (国土地理院地形図を利用し
   Android アプリ 地図ロイドで作成)

<午前の部のまとめ>
   人口が少なく、機械力も持たなかった古代人がこれほど大きな規模の城郭を作り上げてしまうほど "命懸け" になったのは何故なんだろうと、考えました。

  耄碌頭が思いついた妄想は次の通り。
  白村江の大敗は、天智天皇から持統天皇の時代に起きた大変革のトリガーになったが、その情勢の中で、大和政権は唐・新羅軍の侵攻に対する防備を固める事を通じて国内統一を推進し、"倭国" から "日本" に国の名を変えた。
  百済遺民グループは朝鮮半島での戦いを通じて磨いた築城技術を顕示することによって統一国家体制に必要な要員として認知されるよう努めたなどなど。

  この時代の歴史をよく学ぶことは、現代の日本人にとっても大いに役立つのではないかと思いました。
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☆おわりに

    国内最高所にある近世城郭 備中松山城と、国内最大級の古代山城跡 鬼の城とを同じ日に訪ね、変化に富んだ山城巡りとなりました。
備中高梁と、上州富岡と、ふたつの田舎町はお互いに遠く離れているものの、古代から近世までの歴史上のイベントの点で、いろいろと相通じている所があるように思いました。
高梁、新見のあたりは非常に興味深い領域なので、いずれ機会を設けて再訪し、ありこち訪ね歩いてみたいと思っています。
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