西穂山稜末端部 新穂高温泉-焼岳-中尾温泉 (2015.7.29-31)


☆期日/山行形式: 2015年7月29日-31日 山小屋利用2泊3日
☆2万5千分1地形図
    笠ヶ岳(高山7号-3)、焼岳(高山7号-4)
☆まえがき
    焼岳は百名山のひとつで最もポピュラーな山のひとつなのに訳あって登りそびれたままなっていました。
年を追って身体能力が衰え、そろそろまともな山に登るのが難しくなってきたかなぁ、と思うようになったので梅雨明けと夏山の混雑の間の僅かな隙間を狙って 「今生思い出の焼岳山行」を行うことにしました。
     この山行の主目的が焼岳の登頂であることは勿論ですが、あわせて西穂ロープウエイに始めて乗ってみることと、西穂山荘と焼岳小屋とに泊まることも楽しみでした。
  前者は、昔親しんだこぢんまりした山小屋から山上の大建築に変貌しています。
また後者は「北ア」南部で唯一、1950年代の風情を維持している貴重な旧型山小屋です。

  焼岳小屋からの下山先も、喧騒な観光地になってしまった上高地を避け、岐阜側の中尾温泉にしてみました。
豊富な温泉が湧き出している静かな山里ですから山が見える温泉に入り、ユックリ汗を流して帰ることができます。

☆7月29日(曇): 新穂高からロープウエイ利用西穂山荘へ
<行動時間>
    宮崎台=長津田=八王子[7:29]=(スーパーアズサ 1号)=[9:39]松本/松本BT[10:00]=(アルピコ交通 新穂高行急行バス)=[12:00]新穂高温泉[12:55]=(ロープウエイ)=鍋平高原/しらかば平[13:15]=(ロープウエイ)=[13:22]展望台(13:35)-西穂高登山口(13:36)-登山届出所(13:42)-2200m地点(14:35/45)-(15:05)西穂山荘
 

西穂高口展望台から眺めた抜戸岳-笠ヶ岳の山並み    (画像をクリックすると拡大スクロール)
<ルートの概況>

  夏山シーズン中は松本駅前のバスターミナルから新穂高温泉まで直通急行バスが運行されているので乗り換えなし、2時間で西穂ロープウエイ乗り場まで行き着くことが可能です。

  新穂高バスターミナルのすぐ上のロープウエイ駅の建物の中にあるカフェテリアで軽い食事を食べたあと山に向かいました。

  まず下の段の短いロープウエイで鍋平まで上がります。
蒲田川の谷もこの辺りまで来ると随分狭くなっているのが分かります。

  下の段のロープウエイ終点の鍋平駅から右手に僅か歩いて上段ロープウエイの乗り場に行きました。
こちらからは1時間に2便2階建ての大型キャビンが運行されています。

  2本のロープウエイを乗り継ぐことによって標高 1100m の蒲田川谷から 2150m の西穂高口まで、労せずして上がれました。
駅の屋上にある展望台に出てみると南の方に焼岳が見えています。

  谷向いは抜戸岳から笠ヶ岳への山並みです。
ページトップのパノラマ画像のように頂稜部に雲がかかっていました。

  この尾根筋は、ふた昔も前に薬師平から、黒部五郎岳、双六岳をへて長い縦走をしてきた最後の部分として歩いた尾根筋です。
笠ヶ岳からの下降路で異常に疲れて身体に変調が起きていることに気がつき、その年の秋遅く胃癌の切除手術を受けました。

  ロープウエイ駅の裏の広場で山支度をしている人達の横を通りすぎて山道に入りました。

  僅か進んだ所にある小さな小屋は登山届提出所でした。
  西穂から奥穂へ向かう難コースの入口ですから登山届の提出が奨励されているのでしょう。
こちらは焼岳方面への安易なルートを歩くことにしていたので素通りしました。

  緩やかに上下しながら森の中を進んで、主稜とのジャンクションに臨む高みに上がると正面の尾根の上に西穂山荘が見えました。

  千石尾根と主稜とを繋ぐ鞍部は湿っていて木道が渡されていました。
  「北」の一般ルートはどこも整備が行き届き、他所の山域に比べて格段歩きやすくなっていると思います

  鞍部を渡って主稜への登りに掛かるとやや岩っぽくなってきました。
人通りが多く、頻繁にすれ違うのでいつもやり過ごす場所を考えながら歩かなければならないのを煩わしく感じました。

  ジグザグに登ってきた道が右手に曲がり登ってゆくようになると小屋までひと息です。
やがて行く手に西穂山荘が見えてきました。
これはもはや小屋ではなく「大屋」だと思いました。

 
 (画像をクリックすると拡大)

  山荘の前庭は大勢の人達で賑わっていました。
雲が少なくなってきて上高地の谷の向い側にある霞沢岳が間近に見えるようになりました。
  山荘の前庭の周囲は色とりどりの花が咲くお花畑になっていました。
大昔の西穂小屋にはなかったものです。
種子を集めて蒔いてできた人工お花畑なのでしょうが、久しぶりに見る山の花はやはり綺麗だなぁ、と思いました。
  混雑した大きな小屋に何年ぶりかで泊まったので同室の人達との折り合いなど普段の山歩きでは無用な気遣いをしなければなりませんでしたが、小屋のスタッフの手慣れた「群衆扱い」と食事の出し方はさすがと思いました。
久しぶりの高所の宿泊でしたが薬の助けも得てそれなりに眠れ、疲れを癒やすことができました。

<ルートの詳細>




  GPS スライドショー
 
<1日目のまとめ>
      ポピュラーな山域の山小屋に泊まるので混雑を避けるため梅雨明け早々の早い時期を狙ったところ体調がもうひとつだったのと天気予報が悪くなったので一週間繰り下げました。
8月上旬から中旬にかけてのような極端な混雑にはならなかったのでどうにか安眠はできましたが、歳を取ると混雑した山小屋での雑魚寝は厳しいなと思いました。

  この日はロープウエイ終点から小屋までの標高差150m あまりを登るだけのごく楽な行程だったので近ごろの山でよく悩まされている筋肉の痙攣は出ませんでしたが、慢性貧血を抱えた状態で高所に滞在している事による類高山病から逃れることはできませんでした。

  小屋に入って暫く時間が経ち、身体が運動モードから安静モードに戻ってくると次第に頭が重苦しくなってきて、最後は吐き気を催し、食べ物が喉を通らなくなります。
これまでの経験で消炎鎮痛剤を服むと良くなることが分かっていたので様子を見ながら半錠ずつ服み足して行き、 1.5錠でほぼ落ち着きましたが、脈が早くなって心臓には結構な負担がかかっているように感じました。
 
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☆7月30日(霧雨のち曇): 西穂山荘-槍見台-割谷山-焼岳小屋-焼岳-焼岳小屋

<行動時間>

    西穂山荘(7:35)-積雪期ルート標識(7:44)-上高地分岐(7:54)-池塘(8:11)-槍見台(9:10/20)-池塘(9:28)-割谷山(10:05/15)-スリップして脚打撲(10:47)-上高地展望点(11:00)-池塘(11:20)-焼岳小屋(11:35/13:35)-展望台(13:46)-噴気口直下(14:10/25)-焼岳北峰肩2259m地点(14:40/59)-展望台(15:39)-(15:55)焼岳小屋

写真の説明    (画像をクリックすると拡大スクロール)
<ルートの概況>
   朝目が覚めたら12、3人居た同室の人達が全員いなくなっていました。
 いずれも西穂から奥穂へのロングルートを目指していて早朝に出発したようでした。

  窓の外を見ると霧が流れて小雨模様です。

  朝食を食べたあと、ゆっくり支度をしてそろそろ出かけようかと前庭に出たら作業着のグループが支度をしていました。
ルート整備かと思って声を掛けてみたら、測量作業で来ているとの返事。

  支度ができて歩き出した頃には、雨は小止みになっていましたがあたりに霧が立ち込め、煙っていました。

  ひと下りした所で上高地から登ってきた道と出合いました。
若いころ大きなキスリングザックを背負って何度も登り降りしていた懐かしい道です。
夏の涸沢合宿で先発隊が滝谷で事故った日の翌々日、長引いた停滞で食料が尽きた新人パーティを連れて下ったのが最後でした。

  さらにもうひと下りしたところに衣笠の池がありました。
霧に霞んでよくみえませんでしたが二重山稜の凹所に水が溜まってできた池のようです。

  やがて緩やかに上下しながら進んで行くようになると、まるで北八ヶ岳の森の中を歩いているような気分になりました。

 

   槍見台のあたりで雨が降りだしたのでゴアパンツを履き、折りたたみ傘を広げました。
槍見台から一段下ったところにも小さい池塘がありました。
 

  焼岳小屋から尾根伝いをしてきて西穂山荘に泊まった人は、倒木があったり笹が被っていたりで道が良くなかったと言っていましたが、ごく最近倒木を片付けたと思われる形跡が数箇所あっただけでごく普通の山道でした。

  割谷山は双耳峰の吊尾根の左寄りを乗り越えて行きますが左のように至って地味な笹薮の間の乗越になっていました。

  ルートが尾根の左側を進んでゆくようになるとまわりが開けてきました。
雨は止んで気持よく歩いていたのですが、濡れた赤土の斜面でスリップして膝をついたところで右脛を尖った露岩に当て、一瞬息が詰まるほど痛い目にあいました。

  出血はないようだったので痛みが和らぐのを待って歩きだしましたが右足に力が入らず、新中尾峠への下降で大幅なスローダウンをしました。

  やがて道が平らになってくると「新中尾峠」の道標が現れ、林の先に小屋の屋根が見えてきました。

  焼岳小屋は一番客でした。
「期待通り」 の昔風の山小屋で、「寝室」は垂直な梯子を登った屋根裏にあります。
あとから来る人達の邪魔にならぬよう一番奥の寝床を確保した上で前庭の野外ベンチに茶道具や行動食を持ち出し、長い昼休みをしました。


  脛の打撲の痛みが和らぐまで2時間近くもの長い休憩をしたあと、焼岳の頂上に向かいました。

類高山病は軽くなったものの足の痛みはなくならないので登頂はあきらめ、行けるところまで登って終わりにしよう、と思っていました。 

  小屋の向かい側をひと登りすると尾根の背に上がり、行く手にスッキリした草尾根が見えてきました。

  小屋から10分ほどで焼岳展望台に着きました。
火山性の地質で風の通り道にもなっているためか疎らに低灌木が散在する草原が広がっています。

  雲と霧のため展望は捗々しくないものの足許に咲いている色とりどりの花が綺麗でした。 

(画像をクリックすると拡大) 

  4時までに登れた所から引き返そうと決めていたところ、頂上より150m ほど下の火山ガスが吹き出している溝のすぐ上で時間切れになりました。

下降に移る前に休んでいたら雲が切れてきて短い時間の間、頂上が見えました。
 
 (画像をクリックすると拡大)

  展望台との鞍部へ下ってゆく所では上高地が見えました。
欧州アルプス周辺でよく見る氷食谷と同じような地形になっていることが分かります。

  展望台のまわりには色々な花が咲いていました。
とりわけシナノキンバイ(?)が可憐でした。

  痛む足を引きずって小屋に戻る道の最後のところに咲いていたタカネツメクサが清楚でした。

<ルートの詳細>




  GPS スライドショー

<2日目のまとめ>

    二日目は西穂末端稜線から焼岳小屋を経て焼岳へ歩きました。
前半は霧雨模様で展望はほとんどゼロでしたが、西穂山荘付近と旧中尾峠付近でさまざまな山の花と出会う事ができました。
割谷山付近の登山道の赤土の所でスリップして、右脛に打撲傷を負ったため、焼岳は頂上直下までしか到達できませんでしたが、下降に移る頃一時的に雲が切れ、上高地や蒲田川谷への展望を楽しめたのは幸運でした。

  この夜の同宿は7人。 昔風の山小屋のフレンドリーな語り合いを楽しみました。
客の中にチェッコから来た若者がいて、年寄り山ガール達の話の的になっていました。
今どきの国際化というか日本ブームを実感するとともに、東欧の小国の若者の冒険心に感心しました。
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☆7月31日(晴): 焼岳小屋-中尾温泉-中尾温泉口=松本

<行動時間>
    焼岳小屋(6:40)-旧道出合(7:19)-秀綱神社(7:35)-笠ヶ岳展望点(7:45)-鍋助横手(8:34)-白水の滝展望点(8:58/9:10)-廃林道(9:13)-車道手前の橋(9:37/46)-地熱蒸気井(9:55)-合掌の森中尾キャンプ場(10:10)-焼乃湯(10:20/12:40)-鎌倉街道石標(12:46)=(車便乗)=(12:55)中尾高原口バス停[13:34]=(アルピコ松本行急行バス)=[15:30]松本[16:58]=(スーパーアズサ28号)=[19:02]八王子=長津田=宮崎台
<ルートの概況>

  山行3日目は雲ひとつない快晴になりました。
小屋の前庭に出てみると上高地の向う側にある霞沢岳が朝日に輝いています。
朝食のあとゆっくり支度をしているうちにみな出て行ってしまい、いつものように殿の出発となりました。

 

  中尾への下降路は、まず旧中尾峠から下ってきた本道との出会いを目指して左手へ山腹を巻いて行きます。

  大きな石を乗り越えたりしながら進むので足の痛みも気になり、歩きずらく感じましたが、左のような標柱が立っている三叉路で旧道に出合うと、そのあとは一転して歩きやすくなりました。

  谷奥の平坦地にある大岩の前に鳥居が立っていて「秀綱神社」と墨書きした扁額が掛けてありました。
 
 (画像をクリックすると拡大)

  平坦地の縁から尾根の背へ回りこんでゆくと左手へ視界が広がり、抜戸岳から笠ヶ岳への尾根筋が見えました。
  薬師岳の方から黒部五郎。三俣蓮華、双六を経て笠ヶ岳まで歩いてきたあと蒲田川への降下で大バテになり、身体の何処かがおかしくなっている事に気が着きました。
それから間もなく胃がんが見つかったのですが、弟のツテで名医に切り取ってもらえ、命拾いしました。
 
  やがて隣の沢溝に入ってジグザグに下るようになりました。
大木林立する自然林には神聖な雰囲気が漂っています。

  もうひとつ左側の尾根の背を乗り越えた所から始まる長いトラバースには「鍋助横手」と記した看板が立っていました。

  隣の尾根の背に乗り移ってまたジグザグに降り、最後に大きく折れ下って行く曲がり角に「白糸の滝展望所」の看板が立っていて、谷向いの崖にきれいな滝が懸かっているのが見えました。

  やがて廃林道との交差点に着きました。
角に「焼岳登山口」と記した標識板が立っています。

  緩やかになった尾根の背を下ってゆくと右下から沢音が聞こえてきました。

  やがて流れに架かっている丸木橋が見えてきて、沢の縁に降り着き、入山以来初めて見る水流で顔の汗をすすぎ、喉を潤しました。
 
  流れを渡るとすぐ舗装林道に出ました。
左折して僅か下った所に蒸気が噴出していましたが、 そのまわりの広い土地が柵で囲まれていたので何かなぁと思ったら下手のゲートに地熱発電開発用地であることを示すプレートが取付けてありました。

  ここの温泉の湧出はとても豊富なようで、歩いてゆく道の脇に何箇所も温泉井戸があります。
みちばたのU字溝を大量の水が流れていたので手を入れてみたらアツアツだったのでびっくり!
 

  合掌の森キャンプ場から京都大学の観測所、中尾温泉組合を通り過ぎると幅広い車道のU字カーブの頂点にあたる十字路に着きました。

  角に大きな案内看板が立っていてその脇にバス停のポストがありましたがここを通るのは僅かな本数のコミュにーティバスだけで遠くに行くバスは通らないことが分かりました。
  焼岳小屋で教えて貰った「焼乃湯」旅館は交差点を直進して100m 程進んだ道の右下の広い敷地にゆったり建てられた建物でとても感じの良い温泉旅館でした。

  玄関に入り、入浴、休憩、食事をしたいと言ったら、料理人が出かけているので食事は出せないが温泉に入ったあと2時間ほど部屋で休ませてもらって1500円、ということになりました。

  主屋から一段下った所にある外屋の裏側の露天風呂は間近に錫杖岳を見上げる素晴らしい展望風呂でした。
  バスは谷底の道路を通っていて、焼乃湯から最寄りの中尾温泉口バス停まで30分あまり掛かります。
足を傷めていたので余裕を見込んで宿を出ました。

  僅か進んだ所で道端に左のような地蔵堂があったので近寄ってみると「鎌倉道」と記した立て札が立っています。
飛騨高山から焼岳の脇の鞍部である中尾峠を越えて行くルートは中世時代から利用されていると記されています。

  また道に戻って歩いていると後ろから来た白い車が脇に停まり、運転席のフィリッピン女性が手招きしました。
  日本語でないのでよく分かりませんがバス停まで乗せてってあげると言っているような感じだったので「アリガトウ」と言って乗り込んだら後ろの席に焼乃湯で見かけた女中さんが乗っていました。

  中尾温泉入口バス停は左のような広場で横手の坂道の入口に「ゆ」と大文字を記した看板が立っています。
  足を傷めていたところでとても有難かったので丁重に礼を言って車から降りるとまもなく高山行きのバスが来ました。
女中さんが乗って行ったあと、松本行のバスが来るまで30分ほど待ちましたが山行の余韻を楽しみながらログハウスの小屋の中で待ちました。

<ルートの詳細>




  GPS スライドショー
<3日目のまとめ>
    3日目は痛む足を引きずって焼岳小屋から中尾温泉まで標高差 1100m 程を下降しました。
中世から人が通っていた古道の道筋をたどりながら、抜戸岳から笠ヶ岳へ連なる山並みを眺めたり、白糸の滝の展望を楽しんだりしました。
中尾温泉 焼乃湯の浴場は、錫杖岳を正面に見上げる素晴らしい展望露天風呂でした。
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  山行全体の記録
         (Yamareco))

  GPXログ ダウンロード

☆おわりに

    60年を越す長年月にわたって山登りをしている中で槍穂高はかつて最も足繁く通った山域でした。 なのになぜ焼岳に登りそびれていたのか?
その訳は下のようなものです。

  焼岳との初対面は、初めての涸沢合宿で前穂の北尾根を登ったとき、前穂の山の上から見下ろした時でした。
遙か下の方にゴソゴソッと盛り上がった岩群からポヨポヨッと煙が立ち登っているのが見え、「つまんねー山だなぁー」と思いました。
  臆病者のくせに、尖っていて岩や雪がなければ山じゃないと若気の血気にはやり、峻険な山ばかり追い求めていましたが、20台の半ば過ぎの夏、涸沢合宿で3人の仲間を失う事故に遭いました。

  その年の夏山合宿では、サブリーダ格のひとりとして新人パーティを引率し、島々から徳本峠を越え、西穂山稜を辿って奥穂経由、涸沢に入っている本隊に合流することにしていたところ、南から接近してきた台風が吸い込む寒気の強風があまりに強烈で岩稜縦走は危険と判断して西穂付近から後退。
西穂小屋の前のテン場で沈殿したのですがその日かその翌日か、涸沢から幾つかのザイルパーティに分かれて滝谷を登った本隊メンバーの一部が北穂稜線で低体温症になり、亡くなってしまったのです。

  新人隊はその翌日も続いた沈殿で食料が尽きかけたので上高地へ下降し、横尾から涸沢に入ろうとしたものの横尾谷の登山道が閉鎖されて前進できず。
やむを得ず坂巻温泉を経て山を下ったので無事に帰京できたのですが、この事故により所属山岳会のセクションが活動停止となりました。

  事故のあと始末が一段落するのに年末まで懸かりましたが、立場上やらなければならないことが全部済んだところで山岳会を抜けました。
会を抜けたあとも個人山行は続け、槍の北鎌尾根や残雪期の鹿島槍天狗尾根などを登ったりしていたのですが、穂高山域に足を向ける気持ちにはなれず、その一隅にある焼岳にも足が向かわないこととなりました。

  年月が経つにつれて仕事で多忙になり、山行頻度が下がるとともに焼岳は忘却の彼方に消え去っていましたが、年取ってまた時間が自由になると山行頻度が回復。 「北」 にも結構な回数の山行をおこなって主要な尾根筋のあらかたをトレースしたのですが穂高連峰の南の端にぽつんとある焼岳までわざわざ出かける気にはならないまま年月が過ぎてしまったということです。

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