高崎自然歩道 いしぶみの道 (2013.12.16)


☆期日/天気/山行形式: 2013年12月16日 単独日帰り
☆地形図(2万5千分1): 高崎(宇都宮15号-3)、富岡(長野3号-1)
☆まえがき
  10月に高崎自然歩道 白衣観音をめぐる道を歩いいてみたら意外に面白かったので今度は残りの半分 いしぶみの道を歩きに行ってみました。
上信電鉄山名駅から山上ノ碑、山名城址、根小屋城址、金井沢ノ碑、観音山ファミリーパークを経て観音山東麓の舘まで、少年時代を過ごした田舎町の縁辺の里山の中に散在している史跡を繋いで行くルートでしたが、はじめて訪れた場所が多く、随所で好展望を楽しみました。

妙義、浅間と上信国境の連山    (画像をクリックすると拡大スクロール)
☆行動時間
   宮崎台[7:55]=渋谷[8:38]=(湘南新宿ライン)=[10:43]高崎[11:03]=(上信電鉄)=[11:15]山名駅(11:30)-御野立場(11:48)-山ノ上碑(12:10/13)-山名城址(12:23/30)-望鉾山・根小屋城址分岐(12:46)-上城山・根小屋城址(12:59/13:22)-望鉾山(13:33)-南陽台分岐(13:50)-七曲り下(14:06)-金井沢ノ碑(14:21/24)-東屋(14:26/41)-県道71号線 観音山ファミリーパーク入口(15:06/07)-寺尾中城址入口(15:14)-観音山ファミリーパーク(15:40/50)-寺尾町歩道入口(16:08)-県道203号 金井高崎線(16:24)-(16:34)高風園前バス停[16:57]=(高崎ぐるりんバス)=[17:19]高崎駅

☆ルートの概況

  いしぶみの道は上信鉄道山名駅から始まります。
日中は無人駅になりますが建物の手入はよく、掃除も行き届いていました。
駅の玄関に向かい合った所に高崎自然歩道の案内地図を描いた看板が立っています。

  駅から僅か北に寄った所に山名八幡宮があります。
何十年ぶりかの参詣をしました。

  八幡宮本殿の脇から右手に上がってゆく道を進んでゆくと忠霊碑が立っている広場に出ました。

  広場の左隅に道標が立っていて、鋭角的に左折して高台の上にある住宅地の道を進むよう指示しています。
道が右手に曲がってゆ所の突き当りに園地があって山名御野立所跡と刻んだ石碑が立っています。
昭和の始めに天皇が軍事演習を視察されたとき、お立ちになった高台の展望所です。
 
  石碑の背後の石段から園地に降りて住宅街の道路に戻って少し進み、家並みが尽きる一番奥の家の手前の路地に入ると山と畑の間の歩道に入ります。

  歩道はすぐに終わってまた車道に戻りましたが、坂を下ってゆくとT字路があって右手の角に子育て地蔵のお堂がありました。
 
  さらに坂を下って橋を渡り、左折して行くと阿弥陀如来の板碑がありました。

  板碑の先に進んでゆくと道端に山ノ上碑入り口を示す道標が立っています。
右折して山道に入るとすぐの所に万葉歌碑があり、 「我が恋はまさかもかなし悲し草枕 多胡の入野の奥も悲しも」 と刻んだ文字が読めます。
万葉歌碑の先からまっすぐ山に上がってゆく長い石段がありました。

  石段を登り上げた所に円墳があり、その左横に山ノ上碑の覆屋が立っていました。

  施錠された入り口ドアのガラス窓から中を覗きこむと中に立っている石碑が見えました。

石碑に刻まれている文字から、7世紀末期に近在の寺の僧が母親を供養するために建てたことが分かります。
 
  円墳の前に戻ったあと右手へ回りこんでゆく道を進むと明るい尾根の背に乗りました。

  道端に高崎自然歩道 いしぶみの道と、関東ふれあいの道の標識が並んでいました。
 
  少し先の分岐から右手に僅か進んだ所に山名城址がありました。
山の頂きが平らに均されて整備され、ちょっとした園地になっています。

  もとにの道に戻るとまた明るい尾根の背を辿って行くようになりました。
 
  道端に沢山の石碑が立っていて万葉歌などが刻んであります。
「伊香保」 云々の歌を刻んだのが目立ちました。

  180m 圏の小ピークに上がりました。
望鉾山の別名がある高みで南の方に御荷鉾山が見えました。

 
  望鉾山の東肩から東北の方角に派生している支尾根があって、そちらへゆく道が分岐している所に 「根小屋城 500m」 と記した道標があります。

  ほっそりした尾根の背を進みました。

  小さいコブをひとつ越えた先で右手の山腹に入ってゆくと 「根小屋城址」 と記した看板が立っていました。

  榛名山の麓にあった箕輪城を占拠していた上杉勢を破ったあと、武田が、北関東西端部の平野を監視する前哨基地として構築した城だったと記した立て札がありました。
 
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  197.7m の頂上の肩をグルリひと廻りするように道が付いていましたが、「追手」 と記した立て札が立っている所を通り過ぎて行った先の広場では右手の平野へ視界が開け、烏川の向こう岸を通っている新幹線の高架橋、その先の遠くに見える低い山は足利・桐生あたりの山々かと思いました。
 
  少し戻った所からひと登りすると本丸跡で、広い平地の端に三角点標石と野外ベンチがありました。
ベンチで暫く休憩したあと来た道を戻って望鉾山の先へ進んでゆくと笹混じりの綺麗な尾根道がありました。
 
  市民の森へ行く道の分岐を通り過ぎで先に進むと、左手に林道が見え、まもなくT字路に突き当たりました。
正面に 「←南陽台|金井沢碑→」 と記した道標が立っていたので右折して金井沢碑に向かいました。

  右折した所から沢の詰めの斜面を横切って行くと尾根の背に乗り、小さなコブをひとつ越すと道の表面が真っ白になっている所がありました。
石膏系の地層が露出しているせいかと思いましたが、以前この近くで亜炭が採れたのではないかと思いました。
この辺りから出た亜炭は、明治のはじめ、富岡に建設された製糸場の燃料だったそうです。
 
  右手の斜面に入り、歩き難い丸太階段を急降下した所に、 「鎌倉街道 七曲り」 と記した立て札がありました。

  中世時代、鎌倉方面に通じている道のひとつがこの辺りを通っていて、急斜面を七度折れ登らなければならない難所だったと記した看板が立っていました。

  沢に架けられた橋を渡って右折。
熊笹の間を進みました。
この辺りにも万葉歌碑が幾つか立っていました。
歩道のすぐ左上を車道が通っており、時折車が走って来る音が聞こえきました。
 
  車道に上がった所に金井沢碑入り口バス停のポストが立ち、その少し先から左手の沢沿いを進む道が分岐しています。
すぐ先に大きな東屋が立っている園地がありました。
東屋の正面に架っている橋の袂に 「特別史跡 金井沢之碑」 と刻まれた石柱が立っていました。
 
  橋を渡った所にある公衆トイレの前から山と畑の間を通っている細い道を進んでゆくと右手に神社の参道のような石段がありました。
 
  石段の上には堅固な覆い屋が立っていてドアのガラス窓から覗き込むと左のような石碑が見えました。

  石碑は8世紀初期、鏑川対岸の佐野にいた三家一族によって立てられたもので、この時期にはこの辺りまで仏教信仰が伝わっていたこと、刻まれた家系の人名から母系家族制だったことが分かるそうです。
 
  東屋に戻ったあと、長目の休憩をしながら糖分とイオンの補給をしたあと、下ってきた坂を登り返して先へ進みました。

  山の上は近年開発された城山の住宅地で、東京近郊とまったく同じ雰囲気の佇まいでした。
家並みの奥の方にも城跡があって、 「茶臼山城址」 と記した道標が立っていました。
そろそろ歩き疲れて来たので寄り道をせず、先に進みました。

  広い坂道を下ってゆくと西上州やまびこ街道に出ました。
60年ほど昔、高崎市と吉井町の境にある中山峠を越えるか細い砂利道が通っていた所で、観音山の麓にある高校へ通うため毎日自転車で通っていました。

今は片側2車線の幹線道路になっていてまったく昔日の面影はなく、途切れることのない車の往来が見られます。
    十字路の向かい側の道路の入り口に 「観音山ファミリーパーク」 と記したサインが見えました。
ファミリーパークへの道は比較的最近の工事で造成されたもので紙の地形図はあてになりません。
最新の地形図を表示させたタブレットの画面に GPS ポジションマークを出したのを見ながら先に進みました。

  新しい道路は少し遠回りになっていましたが暫く進んだ所で 「寺尾中城址入り口」 を確認しました。

  ルート崩壊のため進入禁止と記した立て札が立ち、通せんぼのロープが張られていたのでそのまま道路を進みました。

  深く大きな谷に架かっている長坂大橋を渡るとすぐ観音山ファミリーパークの正面ゲートがありました。

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  自然の地形を大きく改変して形成された広い平坦地でしたが、赤城山方面への視界が開け、素晴らしい園地になっていました。

  広場の脇手にある休憩棟に入って小休止。
地形図でルートをチェックしたあと、管理事務所に立ち寄って道の様子を確認した上で寺尾経由、舘へ行くルートに侵入しました。

 

(画像をクリックすると拡大)
 

  ファミリーパークの北の高みに立っている送電線鉄塔のたもとにある道標に從って左折すると尾根の背を通ってゆく道になります。

  右に左に展望が開けましたが、とりわけ右手に見えた榛名山が、夕日があたって綺麗でした。
 
  やがて寺尾の集落に入りました。
高崎市内にもこんな所があるのか、と思うような鄙びた山上の村でしたが、意外に大きな集落でした。
道路を子供が走り回っていたりして、あちこちの山中で見かけるような過疎の村ではありませんでした。
 
  集落の中に立っている道標に従って左下に降りてゆく山道に入りました。

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  茜色に染まってきた西の空を背に妙義山・浅間山から上信国境の山並みが見え、ページ冒頭のようなパノラマを楽しみました。
  左手には、西上州 御荷鉾山から赤久縄山、稲含山への連なりが見えました。

  年中で一番日が短い時期だったため、薄暗い竹藪の中から雁行川谷へ下ってゆくあたりでは迫ってくる夕闇と競争で歩きました。

  雁行川には立派な歩道橋が架かっていました。

  金井高崎線の道路に上がったときはすでに薄暗くなっていて道端に立っている道標もよく見えないほどでした。
    右折して進むとすぐに舘西のバス停ポストがありました。
何もない殺風景な場所だったし、バスが来るまでにまだ時間があったので通過。次の高風苑前バス停まで進みました。

  ここは高崎自然歩道を東西ふたつに分かつ分岐点で、観音山側の入口の角に自然歩道の道標が立っています。
バス停の手前には食料品スーパーがあって暖かいレモンジュースを買うことができました。
高崎駅行きのバスが来たのは、あたりが真っ暗になったあとでした。

☆ルートの詳細


  GPS スライドショー



  元画像スライドショー



  ルートマップ


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☆おわりに

   高崎自然歩道のいしぶみの道は上信電鉄山名駅から山上ノ碑、山名城址、根小屋城址、金井沢ノ碑、観音山ファミリーパークを経て観音山東麓の舘まで、旧吉井町と高崎市の境の低山一帯に散在している史跡を繋いで歩く道です。
少年時代を過ごした田舎町の縁辺でしたがこれまで行ったことがない場所が多く、随所で新鮮な景色に触れ、故郷の山々の展望を楽しみました。