下北 福浦、縫道石山(2012.9.27)



☆期日/天気/山行形式: 2012年9月27日(晴) 山巡り宿舎より単独日帰り山行
☆地形図(2万5千分1): 牛滝(青森1号-3)
☆まえがき
    下北山巡りの四番目は縫道石山でした。
最果ての地の海岸近くにそそり立っているこの岩塔の頂きに上がってみたいと思ったのが津軽の山をあと回しにしても下北半島をしっかり回ろうと思ったきっかけでした。

  ガイドブックに載っているこの山の写真は、こんな岩塔の山にどうやって登るのだろう?と首を傾げるような姿ですが、特に難しい所、危険ば所があるとか言うようなことはなさそうです。
  前日の夕方、この山に登る足溜りになる福浦港へ、唯一の公共交通機関である定期連絡船で入ろうとして脇野沢まで来たところ、福浦には昼前の1便しか寄港しないないと言う事が分かって大いに困惑しました。
仕方なく最寄りの牛滝に上陸。 宿に出した貰った迎えの車で 6Km ほど、崖の上を屈曲している道路を走ってようやく辿り着くことができました。

縫道石山頂上の展望    (クリックすると拡大)


  この山に登ったあとの泊場を予約していた佐井へも昼前の便しかないのでそれに間に合う時間に下山しなければなりません。

  船便の時間から逆算して朝早く出発。
登山口まで宿の車で送ってもらいました。

  往復登山だからルート上に難しいところがあって行き詰まっても、そこから反転して降りてくれば辻褄はあわせられると割り切っていたのですが、意外にもあっさり登れ、岩頭で最果ての山の展望を満喫しました。
☆行動記録
<行動時間>
    福浦民宿[6:20]=(宿の車)=[6:30]登山口(6:35)-野平分岐(7:00)-縫道石山(7:50/8:00)-野平分岐(8:35/40)-登山口(9:05/10)-展望点(9:34/42)-福浦宿舎(10:42/11:00)-(11:05)福浦港[11:35+15]=(シィライン ポーラスター号 \1420)=[12:00+20]佐井港-アルサス(12:30/13:40)-三上剛太郎生家(13:48/14:10)-(14:25)民宿みやの{夕食付 \5000}

<概要>
  登山口は、福浦から野平への舗装林道が尾根を乗り越えている峠の脇にある車止め広場で、山に入る所に熊に注意の看板と、無料貸し出し用熊鈴のボックスがありました。
ルートは幅広く平坦な道から始まりましたが僅かな高みを乗り越した先から幅が狭ばまり、やがてやや急な下りになりました。
鞍部に下った所で野平分岐を通過、またそのすぐ先で福浦分岐を通過しました。
いずれも入口を示す道標が立っていましたが道形は笹に埋もれ、すでに廃道になっているようでした。

  鞍部の先から登りにかかるあたりは倒木が多く、やや混沌としていますがコースマークが多く見えてルートに迷うことはありませんでした。
頭の上の木の葉の隙間に、間近に迫った岩塔が見えたあたりでルートの左脇の林の木の枝から黄色いリボンがぶら下がっていました。
岩登りルート入口の目印のように思われましたが、今は岩壁に着生している地衣類を保護するため、岩登りは禁止になっているようです。

  右手へ斜上してゆく良い道を進んでゆくといつの間にか高度が上がり、林立するヒバの間からまわりの山を見下ろせるようになりました。
大岩が突き立っている所で尾根の背を乗り越えて左折。 露岩の多い尾根を登って行って固定ロープのある岩場を登りあげると頂上の一角で、パッと視界が開けました。

  目の下は福浦川の谷で、谷の中間にある貯水池と下手の集落がみえました。
西の海の彼方は津軽半島で、次のみちのく山巡りで訪ねる予定にしている袴腰岳、丸屋形岳などをはじめ、津軽の山並みが一望でした。
北の方は北海道の渡島半島で、よく見ると霞を通して函館らしい市街地と函館山が見分けられました。

  船の時間が気になるので周りの景色をカメラに収めるとすぐ下山を開始。
固定ロープを下ったあとは特に注意を要するような所もなく、坦々と歩いて登山口に戻りました。

  借用した熊鈴を箱に返し、中に置いてあったノートにお礼の言葉を記したあと、福浦へ向けて林道歩きを始めたらすぐ、林道の上に何匹かサルが出ているのが見えました。
声を上げててこちらの存在を知らせたら飛び上がって道の両側の藪に飛び込んで行ました。
長目にセットしたストックを持ち、脅し声をかけながら林道を進みましたが、現場を通り過ぎるとき、左手の擁壁の藪の隙間にボスらしい赤ら顔が見え隠れしていたので吠えかけて脅したら茂みの中に引っ込みました。

  沢溝をV字型に折れ曲がって渡り、さらに下って行くと右上の尾根の背後から岩峰が頭を出してきました。
谷の下手に下って行くにつれて岩峰は次第にせり上がり、本谷出合付近まで行った所で振り返るとページ冒頭のように堂々たる姿になりました。
これまで各地でマッターホーンの異名を持つ山に登ってきていますが、この最果ての地に立っている岩塔こそは、"北アルプス" の槍ヶ岳と並ぶ国内マッターホルンの双璧だ!、と思いました。

縫道石山頂上の展望    
(クリックすると拡大、スクロール)

  福浦港11:35発の佐井行きの定期船に間に合えばよいので、地図と時計を見比べながら程々のペースで歩きり続け、程よいタイミングで福浦に下山しました。
民宿に立ち寄って預けてあった中型ザックを受け取り、パッキングをやり直して港に向かいました。

  通りに面した旅館兼商店で乗船券を買って福浦港の乗船場に行き、こじんまりした港の景色を眺めながら船を待っていたところ、定刻が近づくとさきほど乗船券を売ってくれた店の若主人が制服制帽姿で自転車に乗って来ました。

いつものことだそうですが定刻より10分以上も遅れてくる船が入港するまで雑談をしました。
この頃の都会で喧しいは原発論議を "地元" の人達は、複雑な気持ちで見守っている様子が伺われました。
下北半島のモロモロの社会インフラは原子力施設の受け入れと引き換えに供与される資金に依存していて、今度乗る定期船と港湾施設、釜臥山の道路や展望台など、非常に多くのものがこれによって設置・維持されています。
「怖いけれどもそれがないとやって行けないんですよ」、と言うのが本音のようでした。

福浦港


  もとの計画では午後5時40分佐井着の便に間に合うよう、ゆっくり縫道石山に登ったあと、夕方ここに着いて日暮れ時に宿に入る積もりだったところ、昼時に佐井に着いてしまいました。
なんとも早すぎるのでまず港に面したビジターセンター アルサスに入り、2階の "まんじゅうや" で名物の昆布ラーメンを食べました。
汁が少々塩辛いように思いましたが地元で採れた昆布の粉を練りこんだ麺の歯応えは格別でした。

  腹ごしらえができたあと、同じフロアーにある海峡ミュージアムを見学しました。
佐井本村のあたりは、蝦夷地に渡る北前船の最後の寄港地として繁盛した歴史があるようですが福浦や牛滝のあたりは近世までアイヌのテリトリーだったらしいです。

  泊場の民宿みやのは、街なかで見学した三上医院跡から歩いて10分あまり。
山を背にした畑の中の、一見大きめの民家様の建物でした。
早い時間に着いてまだ誰も来ていなかったので大きな浴槽を独り占めしてゆっくり湯に浸かり、長旅の垢を洗い流しました。

  夕飯時までに十数人の泊まり客が来て賑やかな夕食になりました。
土地柄、本マグロの刺身を始め、様々な魚介料理が並び、半分胃袋の老人がいくら頑張ってもとても食べきれない大ご馳走でした。
片田舎の民宿なのに設備が良く、女将さんも美人で応対がよく、快適な宿でした。

この夜、大勢の客で混んでいた割りには静かでした。
お蔭でよく眠れ、連日の山歩きで溜まった疲れを癒すことができました。

<ルートの詳細>




縫道石山の GPS スライドショー



Flickr の元画像スライドショー


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☆おわりに
      アルサスの展示で佐井の村医 三上剛太郎のことを知りました。
日露戦争に軍医として従軍したとき、ありあわせの材料で作った即席の赤十字旗を掲げてコサックに包囲された野戦病院を守り、ロシア兵も含む大勢の戦傷者を救った功績は、国際的に高く評価されたと言うことです。

  アルサスから歩いて10分足らずの街なかにある村医の生家が開放されていたので見学しました。
門構えの大きな民家で玄関を入った右側の部屋が板敷の診察室になっていました。
古めかしい展示品の中に、島津製作所製のレントゲン装置まであり、よくここまで!と驚きました。
大戦後まで地方ではレントゲン装置は中心都市の大病院にしかない貴重な装置だったように記憶しています。
  医は仁術の教えを実直に実践し、私財を注ぎこんで地域住民の医療に尽くすかたわら、定期的に中央の医学機関に出向いて生涯、学習・研鑽に励んだこと。
90歳代になってから 「レ ミゼラブル」 を読むため、フランス語を学習したと言うエピソードまであって感銘しました。

  佐井に泊まった翌朝は朝食抜きで朝一番のバスに乗り、大間-大畑-むつを結ぶルートでマサカリの残りの部分をまわったあと、尻屋崎にも立ち寄りました。
下北の旅の最終日はこれまでで一番天気が悪く、風の強い小雨模様になたため、本州最北端の岬の草原を強風が吹き渡り、傘や着物に横殴りの雨がぶつかりました。

  5泊6日にわたる下北の山巡りは、好天に恵まれ、展望を楽しみ、純朴な人々に触れ、美味しい魚を食べて、大満足の旅でした。