西上州、小沢岳・稲含山 -半世紀ぶりの再入門 (2008.10.9-10)


☆期日/山行形式: 2008年10月9-10日 地元別宅宿泊、単独行
☆地形図(2万5千分1): 下仁田(長野3号-4)、神ヶ原(長野4号-3)

☆まえがき
    8月下旬から一ヵ月半ほどの間、老父のケヤー問題で山から遠ざかることとなったが、まわりの人々の暖かいご支援と幸運に恵まれ、ふたたび山に出かけられる状態に復帰できた。

  騒ぎの副産物として上州富岡駅の近くに "無料宿泊所" が得られたのでそこを足場に、西上州一帯のスリルと展望のオチビサン(山)たちを登り歩いてみようと考えた。
今回はその手始めの山行だったが、一ヵ月半ほどものブランクで足腰おぼつかず、山勘も弱っている状態だったので、山域中もっとも安易と思われたふたつの山、小沢岳と稲含山に行ってみた。

稲含山 鳥居峠の展望。 遠くに荒船山から浅間山、手前側には沢山のオチビサン(山)たち! (画像をクリックすると拡大)

☆行動記録とルートの状況

10月9日(曇) 坊主淵-椚峠-小沢岳-椚峠-坊主淵-下仁田駅
<タイム記録>

  上州富岡[8:13]=[8:37]下仁田[8:50]=(しもにたバス \250)=[9:09]坊主淵(9:00/05)-七久保橋(9:33)-八倉峠分岐(10:10)-椚峠(10:20)-小沢岳(11:20/30)-椚峠(12:10)-七久保橋(12:45)-坊主淵バス停(13:14)-赤谷(白石工業前 13:40)-(14:30)下仁田[14:48]=[15:11]上州富岡{泊}

◆小沢岳は方向によっては天を突く鋭峰に見えるので、子供の頃から気になっていた。
西上州のマッターホルンとも呼ばれる展望峰だが、椚峠から尾根をつたう一般ルートは容易で所要時間も短い。
一ヵ月半ものブランクのあとの最初の山として、また、何十年ぶりかの西上州再入門の山として、最適と思った。
  首都圏からだと結構遠い小沢岳だが富岡起点ならユックリ朝食を済ませてから出発しても楽勝だ。

  上州富岡駅で乗り込んだ電車は大勢の高校生でほとんど満席だったが、ふたつ先の駅でみな降りて行った。
残りの乗客もその先のふたつの駅であらかた降り、終点の下仁田駅まで行った者はごく僅かだった。

  何十年ぶりかで見た下仁田駅は予想外にきれいに整備されていた。
駅舎の左手前にしもにた(町営)バスのこじんまりした待合室がある。(左)

  小沢岳への登り口がある坊主淵行きバスは9人乗りジャンボタクシーのボディを利用したものだったが、ほかに客がなく、貸切状態だった。

  ドライバーと話しながら谷間の道を走って20分足らずで終点の坊主淵バス停に着いた。
道端にプレファブの小さな待合室があり、病院通いらしい老女が待っていた。

  "小沢岳" と記した道標にしたがって谷間の舗装路を進んでゆくと何箇所か林道が分岐している。
どの分岐にも間違いが起こらないよう、明瞭な道標が立っている。

  最奥の七久保集落を過ぎて舗装路が終わり、沢沿いの冶山道に変わるところにコースガイドの看板、物置小屋、避難小屋があった。(左)

  沢道は昨年秋の台風による被害で大分荒れていた。
この谷の道は、25年ほど前の3月末に、八倉峠から赤久縄-御荷鉾を歩こうと残雪を踏んで遡ったことがあるのだが、雰囲気がまったく変わっていて、初めて通るのと同じ感覚だ。

  八倉峠・椚峠分岐に着いた。
白地に行き先を記した道標が藪に埋もれかけていた。
八倉峠へのルートは沢の対岸の斜面を折れ登っていたように記憶しているが荒れ沢の土砂と藪に埋もれ、まったく分らない。

  椚峠へのルート右手に折り返して斜上する。
こちらは前に来たとき、道を間違って峠まで上がっている。
入り口は藪がかぶって狭ばめられているがすぐに昔の砂利林道になった。
 

  途中、土砂の押し出しに埋もれている部分もあったがルートは堅く踏み固められていてまったく問題なかった。

  緩々と登って登り着いた椚峠はちょっとした広場になっていて、小沢峠への入り口と、峠裏側の椚への下降路と、ふたつの道標がが立っていた。
椚集落への林道の降り口は、鉄パイプを組んだ柵で閉ざされ、通行禁止の看板が立っていた。

  山道に入ってひと登りすると濶葉樹の間のおだやかな尾根道になった。
通る人が少ないのか、蜘蛛の巣がやたら多い。
顔にまつわりつくのが嫌なので手で払いのけながら進んだが、腕が疲れて来た。
手近の木の枝を折り、顔の前に木の葉を翳して蜘蛛の巣よけにした。

  峠から20分弱で針葉樹林の中に入った。


  尾根の幅が広がり、傾斜が強くなった所を折れ登って前衛峰(1050m+)に上がった。
こんもりした高みで標石がふたつ立っていた。

  前衛峰からやや急に下り、やせた鞍部を渡ると本峰の登りになる。


  紅葉が始まった中潅木の中を不規則に折れ登って頂上に着いた。
山名標、三角点標石、大日如来の石像があった。

  切り立った崖に囲まれた狭い頂上では広大な視野が得られたが生憎、まわり中雲だらけ。
どちらを向いても真っ白だった。

  楽しみにしていた展望が得られなかったのは残念だったが、久し振りの山の頂の休憩は気持ちが良かった。

  往路を戻り、椚峠近くまで下った頃、雲高がいくらか高くなり、磐戸方面の谷間が見えた。(下)

(画像をクリックすると拡大します)

  道端はにいろいろな花が咲いていた。
山が小さく低いわりには花の種類が多いように思った。

  林道の出口にある避難小屋の中を覗いてみた。
床の上に4枚の畳が敷かれ、布団も一枚置いてあった。
目の前に沢の水流があるから、仮泊には十分使えそうだ。
ただ、ここに泊まっても小沢岳のほかに行く所はあまりないかも知れない。

  ノンビリ、花の写真を写しながら林道を歩いた。
谷向かいに岩峰が立っていた。
昔だったらどこをつたわって登ろうかと考えたかも知れないような姿の岩峰だった。


  谷も左のような白岩の滑滝があったりしてなかなか綺麗だ。


  昼過ぎ早く坊主淵に着いた。
下仁田へのバスは2時間もの待ち時間がある。
駅まで歩いて1時間半足らずとガイドマップに記されていた。
思ったより楽に歩けて余力があるし、何もない谷間の待合室でボンヤリしているのは退屈だ。
駅まで歩けば足腰の強化にも役立つだろうと思った。
 谷を出外れると白石工業の石灰鉱山があり、そこから先は断続する集落をつなぐ里道となる。
谷の中ほどの赤谷には美しい山村風景が残っていた。
  歩いているうちに右膝の周りの筋が凝って詰まった感じになってきたが少しピッチを下げ、歩幅を広げてみたら楽になった。

  意外にアッサリと下仁田の市街に達した。
適当に街路を歩いて駅に向かったが最後のところで見当がつかなくなったので通りがかりの店で尋ねて無事到着。
駅には鉄道マニアらしい青年が2、3人いて写真を撮っていた。

  バスを待たずに駅まで歩いたお陰で予定よりひとつ早い電車で富岡に戻れた。
久し振りの山だったがあまり疲れなかった。
シャワーを浴びて着換え、電話で二、三の打ち合わせ・交渉をしたあと外に出た。
かねて気に掛かっていた遠縁を見舞ったあと、夕食の惣菜を仕入れて泊まり場に帰った。
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10月10日(晴のち曇)  鳥居峠-稲含神社-稲含頂上-一の鳥居-秋畑稲含神社-那須バス停

<タイム記録>

  上州富岡[7:54]=[8:21]下仁田=(タクシー\3860)=鳥居峠(9:00/15)-稲含神社(10:00/05)-稲含山(10:10/20)-赤鳥居(10:48)-一ノ鳥居(10:57)-神の池園地(11:08/15)-秋畑稲含神社(11:23)-(11:55)登山口-(13:00)那須[13:30]=(代換バス \450)=[13:48]小幡歴史資料館[15:48]=(代換バス \250)=[16:10]上州富岡駅[17:33]=[18:11]高崎[18:15]=[20:12]渋谷=宮崎台

◆西上州再入門山行ふたつ目は稲含山だった。
下仁田駅からタクシーでアプローチし、山を越して秋畑の那須に下山する計画にしたのだが山の両側とも長い林道がある。
小沢岳で林道に昨年の台風による被害があることが分ったので、情報集めをした。
下仁田駅前広場に面した平和タクシーでは要領を得なかったが、駅前通りを50m ほど進んだ角にある成和タクシーでは、茂垣の少し先まで車が入れ、所要時間約25分、運賃3300円くらい、という返答が得られた。
  秋畑側の状況は、上州富岡駅内にある上信ハイヤー代換バスの運行所と甘楽町役場とに尋ねた。
こちらは徒歩でなら那須バス停まで通れそうなことを確認できた。
    前日と同様、ユックリ朝食を食べ、下仁田行きの電車で出発した。
ひとつ前の電車だったがなんとなく見覚えのある顔がいくつも見えた。

  前日にコンタクトしたタクシー会社の車で山に向かった。
  地形図の茂垣には大きな畜舎があったが、主人が亡くなって廃業したとかで、牛も人もいなかった。
その少し先から鳥居峠まで1時間半程度の林道歩きを予定していたが、車が峠まで上がれてしまった。


    峠には20台くらいなら楽に停められそうな広場があり、その縁からは、冒頭パノラマ写真のような山が見えた。
秋畑側は通行禁止で厳重な柵が立っていた。
稲含頂上へのルートは林道の終点に立つ道標から左手に上がる。(左上)

  ひと登りで赤鳥居に着き、その先から急登が始まった。

  つづら折れの丸太階段道が濃密な濶葉樹林の中に続いたが良く整備され、歩きやすかった。
(画像をクリックすると拡大)

  急登を抜けて尾根の背に乗ったところにベンチがあった。
危険防止のロープの先に西上州山域の展望が広がっていた。

  頂上が近くなると地形がかなり急峻になる。
写真で見た山容は、西上州ではもっとも穏やかな部類だからノンビリ稜線漫歩かと思って来たが案外そうでもなさそうだ。
鎖場が現れた。
特に危険と思うような所ではなかったが冬に凍結しやすいのかも知れない。
  急斜面を斜上するようになると谷側に金網のフェンスが続いた。
  どうでも転落しないように、と意地になって設置したような感じがした。
後日地元の知り合いに聞いてみたら転落死亡事故が続いたのでその対策として設置された、という答えだった。

  フェンスの切れ目に "熊に注意" と記した警告板が立ち、その横手に秋畑稲含神社ルートの分岐を示す道標が立っていた。 

  フェンスと鎖場とが断続する所を登ってゆくと頑丈な丸太の柵が続くようになった。


  丸太柵沿いを登りきって左に曲がり上がるとゲート状の小屋がある。
真ん中の開口部を潜り抜けると栗山稲含神社の前だった。
大きくはないが、峻険な山の上に良くぞと思うほどの、しっかりした作りの社殿だった。

  社殿の裏側に回りこんでゆくと南牧村の山々の展望が広がっていた。
社殿の南側にキキョウが咲いていた。

  門を出て向かい側の岩尾根を登るとすぐに頂上だった。
低潅木に囲まれたこじんまりした岩峰で、360度の視界が得られ、素晴らしい山岳展望を楽しんだ。

見える山々の名が刻まれた山岳展望版があった。
すぐ近くに見える右上がりの低い双耳峰は昨日登った小沢岳だった。

  下は西方に荒船山から浅間山あたりを中心としたパノラマで、画像をクリックすると拡大スクロールする。

稲含山頂上西方の展望  (画像をクリックすると拡大スクロールします)
  また次は中央のピラミダルなピークが東南方にある赤久縄山、左手に尖って見えるのが西御荷鉾山だ。
こちらも画像をクリックすれば拡大スクロールする。

稲含山頂上東方の展望 (画像をクリックすると拡大スクロールします)

  初めての西上州山域の展望を堪能したあと神社前に戻り、登ってきた道を下った。

  金網フェンス横の分岐から秋畑稲含神社へのルートに入ってみたが、あまり踏まれていないようで道形も不明瞭だった。

  もとに戻り、赤鳥居のすぐ上手にある分岐から一の鳥居へのルートに入った。
こちらは良く歩かれているようで杉林の中に幅広の道が続いていた。

  ひと下りで送電線鉄塔の脇をかすめ、
  さらにひと下りで一の鳥居に着いた。
この鳥居は秋畑側参道のもので、稲含神社の由来を刻んだ石文が立っている。

  一の鳥居のすぐ下で砂利の林道を横切り、さらにもうひと下りしたところに神の池があった。
山中のヒッソリした池の脇に東屋と3基の野外ベンチがあった。(下)

  園地の下を通っている林道の横にはトイレもあった。
林道が通れる時はここが秋畑側の登山口になるのかもしれない。
(画像をクリックすると拡大します)

  神の池から林道を15分ほど下った所に新しい社殿が建っていた。

  拝殿の軒下に "秋畑稲含神社" と記された古びた扁額が掛けられていた。
険しい山中にある社殿の参拝・保守が容易でないため、車で林道を上がれば容易に来られるこの場所に移したらしい。

  神社から3、4分下ったところで林道の補修工事を行っていた。
左側の斜面が台風の大雨で崩れたらしい。

  補修面の寸法を巻尺で計っていたから工事はあらかた終わりで、近じか一般車が通れるようになるのではないかと思った。

  山中の林道は自然破壊の一種だが、林の中の歩道と違って視界が開け、山が見えるのが良い。

  秋雲の空の下、左手の谷越しに御荷鉾方面への尾根連なりが見えた。
スケールの点ではまったく比較にならないが、転付峠付近の林道から大井川谷越しに眺めた荒川・赤石連峰の姿を思い出した。

  谷間に下ってゆく途中にある梅ノ木入りの集落は、奥武蔵顔振峠と同様、南斜面の陽だまりを利用した集落で、美しい山村景観だった。

  谷底近くにある那須の集落を通って県道に降り着いたところに那須庵と言う蕎麦道場があった。
中には人がいるようだったが暖簾は出ていなかった。
ここの蕎麦は、週日に通りがかったのでは食べられないみたいだった。

  那須から小幡、福島を経て富岡まで運行されているバスの終点は、小峠を経て日野・藤岡方面に通じる道路が分岐する那須大橋の袂にあった。
橋の下手に立つと谷奥に聳え立つ稲含山が高く見えた。
  車が鳥居峠まで上がったお陰で予定より2時間も早い13時30分のバスに乗れた。
良い機会だと思ったので小幡で途中下車し、江戸時代の史跡や歴史民族資料館を見学した。

  何もない田舎町だと思っていたのは大違いだった。
徳川によって織田信長の次男がここに封ぜられ、その後には松平の系譜の居城になったことにより、広大な武家屋敷や庭園の跡が残っている。
  資料館の方は、江戸時代の品物とともに、明治時代に盛んになった養蚕と生糸生産に関するさまざまな資料が展示されていた。
子供の頃見た憶えのある道具類もいくつかあって興味深く見た。
この項目の先頭      

☆おわりに


   一ヵ月半ぶりの山行で西上州に再入門した。
長いブランクの後で年寄りの足腰はどうなっているのか不安だった小さい山なら結構歩けそうなことが分り、ほっとした。

  この山域、若い頃ホームグラウンドにしていた裏表の妙義をはじめとして、荒船山、八倉峠-赤久縄-西・東御荷鉾、両神山、二子山など "大物" はひと通り歩いているのだが、それ以降足を向けていない。
妙義時代からなら約50年、赤久縄-御荷鉾、両神、二子を歩いた時期から数えてもかれこれ20年ぶりの再入門ということになる。

  この山域には "スリルと展望のオチビサン(山)" 達が何十もあってかなり歩き出がある。
数年前、日和田山から手を着けた奥武蔵・外秩父山行でカバーした領域は荒川左岸まで達っしているから、今後は反対の北側から攻めて行く形となる。

少しずつ歩き継いでゆけば、足腰が立つうちに、このあたり一帯のあらかたをカバーできるかも?

10月下旬は、かねてよりの計画で紀伊半島に出かける。
それが済んだ11月以降、引き続き西上州に出かけて見ようと思っている。