瀬戸内・鷲ガ頭山、および四国・赤石山 (2007.5.31-6.3)



☆期日/山行形式:
2007年5月31日−6月3日 旅館・山小屋利用3泊4日 単独

☆地形図(2万5千分1): 木浦(岡山及丸亀15号-4)、
                                    別子銅山(高知9号-4)、弟地(高知9号-2)
☆まえがき
    昨年の春、剣山から三嶺・天狗塚へ縦走し、綺麗で静かな四国の山が気に入った。
夢よもう一度、今年は西赤石山から東赤石山へ縦走してみようと思った。

 赤石山は、昔歩いた四国愛媛、石鎚山−瓶ヶ森から東へ延びている尾根筋の分かれにあたる法皇山脈の主峰だ。
かつて別子銅山があって山屋には馴染めないところのある山だったが岩の質が特殊なため、高山植物が豊富で、花の名山として知られている。
特に5月上旬に西赤石山一帯をを彩るアケボノツツジ、アカイシツツジが有名でこの花の時期は混雑するらしい。
5月中旬になれば山が静かになってユックリ歩けるようになるだろうと計画を立てていたのだが、月初めに悪い風邪に引っかかって延期。  梅雨入直前の瀬戸際山行となった。

  四国は遠く、飛行機でも利用しないかぎり一日でアプローチを消化できないが山の自然に浸りに行く旅に大量の温暖化ガスを発生させる交通手段は馴染まない。
それに仕事で飛び回っていた頃のような慌しい気分に逆戻りしそうなのも嫌だ。

去年の剣山と同様、途中で一泊し、適当な山が見つかったら行きがけの立ち寄り登山をして行くことにした。

  近所の図書館から愛媛、香川の分県登山ガイド本を借りてきて、短時間で登れそうな面白い山はないかと、パラパラめくっていたら鷲ガ頭山が見つかった。
しまなみ海道の大三島にある山で、わずか 436.5m の低山ながら前衛峰の安神山から花崗岩の岩尾根を連ねている格好良さに惚れこんだ。
瀬戸内の島の最高峰だから展望は間違いなく良いだろう。

  山麓にある大山祗神社にも興味を惹かれた。
全国の大山祗神社の大元といわれ、神武東征の経路開拓とも関わりが深いようだ。


大三島、道の駅駐車場から見た鷲ガ頭山。 右端ピークが前衛峰の安神山、左奥が鷲ガ頭山
   アプローチの行程は大略、次の通り。
初日は、新幹線で福山駅まで行き、しまなみライナーバスに乗り継いで大三島へ。
大山祗神社(10)から安神山(267)を経て鷲ガ頭山(436.5)に登頂して、神社門前町の旅館茶梅に宿泊。

  二日目は大山祗神社に参詣し、国宝館なども見学したあと、しまなみ海道のローカルバスで今治駅へ。
さらにJR予讃線特急で新居浜まで行ってタクシに乗り継ぎ、西赤石山中腹の東平(トウナル)にある車道末端(800)まで上がってアプローチを消化。
第3通洞(800)を経て銅山峰ヒュッテ(1120)まで登って宿泊、というものだった。

大三島では、上の写真のような好天に恵まれて、楽しい立ち寄り登山ができた。


[行動記録とルートの状況]

月31日 -瀬戸内大三島へ。 鷲ガ頭山に登頂して宮の浦で宿泊
<タイム記録>

    宮崎台[7:07]=新横浜[7:53]=(ヒカリ#363)=岡山=(ひかり #459)=[12:08]福山[12:40]=(しまなみライナー高速バス)=[13:32]大三島BS[13:41]=[13:51]大山祗神社前-旅館茶梅(14:00)-大山祗神社(14:10/20)-展望台(14:40)-安神山(15:03/08)-車道(15:35/37)-鷲ガ頭山(15:55/16:05)-小休止(17:00/05)-(17:25)旅館茶梅

◆ 福山までの新幹線は半日掛かりだった。
浜松から姫路あたりまでの各駅は、現役時代に数え切れないほど乗降し、どこにも山ほどの思い出がある。
何やかや回想に耽っているうちに福山駅に着いた。
ここはその先の三原、光、広島などに比べて馴染みが薄い所だったが駅前広場はこじんまりしていてバスターミナルも分かりやすく、今治行きのしまなみ海道急行バスの乗り場は難なく探し当てた。
待ち時間があったので近くのショッピングセンターの食料品売り場に行き、車中で食べる昼食を調達した。

  バスは、はじめ山陽高速道を西に向かって走ったが、長いトンネルを抜けて、尾道の街が見えてきた所で左に分岐すると、しまなみ海道(西瀬戸自動車道)になった。


  このあたりでは幅が狭まった瀬戸内の海に、向島、因島、生口島、大三島と大きな島が並んでいる。
陸地の間に入り込んで川のように見える海を次々に橋で渡って行き、四番目の、長大な多々羅大橋を渡ると大三島だ。
閑散とした大三島バスステーションで10分ほど待ってローカル路線のバスに乗り継ぎ、15分あまりで大山祗神社前に着いた。

  宿泊を予約した門前町の旅館に荷物を預け、サブザックで山に向かった。

  取り敢えず神社にお参りをしたあと、札所に立ち寄って安神山からのルートを尋ねてみたら、去年山火事があって登れる状態かどうか分からないという。

  一瞬困ったなと思ったが、役場から送って貰ったルート地図のコピーを持っていたのでそれを見せたら、それなら大丈夫だろうと、道筋を教えてくれた。

  教えに従って神門の前から右手の階段を登ると国宝殿入口の前だった。
念のため、受付の女性に進路を確認して先に進み、境内背後に回り込む橋の手前から右手の坂を登った。

  すぐに開けた台地の上の小公園に着いた。
園地奥手のトイレの先に安神山とエボシ岩が岩肌も露に立ち並んでいる。
低さに見合わぬ険相でこりゃチョッと手強いかも、と思いながらトイレの先から山道に入った。

  常緑潅木の間をひと登りで展望台に着いた。
5m 四方くらいのプラットフォームで、大山祗神社から門前町の家並み、宮ノ浦港の眺めが綺麗だった。

  展望台から先はコンクリートの階段になっている部分が多く、地形が険しい割りには気楽に登ってゆける。

  登るにつれて山火事で黒焦げになって立ち枯れている樹木が目立つようになった。

かなり急な斜面をジグザグに登り、尾根の背を左手に乗越すと安神山の頂上だった。
石鎚山の遥拝所になっているとのことで石祠がある。


  安神山から先は風化花崗岩の尾根伝いになる。
山火事の焼け跡のため殺風景だが葉が茂らないお蔭で見晴らしはすこぶる良い。

  エボシ岩を乗越す急登降では花崗岩の隙間のザラザラした踏跡を辿った。
立ち木が焼けて掴まり所が危なっかしく、二度と通りたくはないなぁ、と思いながら通過。


  前方に見えてきた頂上目指して尾根の背を進んでゆくと左手からの尾根を登ってきた舗装車道を横切った。


  車道の先はかなり急な尾根を直上する。
相変わらずコンクリート道で歩き難くはないが息が切れる。
山は低いが海抜ゼロメートルから登っているのと陽射しが強いのとで意外に大変だ。



  ようやくアンテナ鉄塔の袂に登りついた。
右手の柵越しに今治方面への展望を眺めながら歩いてゆくと三角点標石と丸太ベンチのある頂上に着いた。
茂みに囲まれ、展望はない。

暑さで大分汗をかいたので日陰のベンチに座って水分を供給しながらしばらく休憩した。


西の方には下のパノラマのような眺めが得られた。
鷲ガ頭山頂上から西方の展望、向かいは大崎上島    (クリックすると拡大します)


  焼け尾根を下る気になれなかったので途中から車道に入った。
かなり回り道になるが舗装されているのに車が走ってこないため、気楽に歩けるのがありがたかった。
少し下った所で振り返ると奥秩父金峰山の五丈岩のミニ版とでも言える大岩が見えた。
岩の質が同じだと同じような形に侵食されやすいのだろう。

  舗装車道は途中に2箇所、 "自然休養林探勝路" のプレートが立っている歩道の別れがあったが手入れが行われていないようで藪に埋もれ、入口が塞がれていた。
里山とは言い条、知らない土地で藪道に突っ込むのは止め、山の裏側をぐるりと回って下って行くと大きな寺の脇に出た。

  寺の参道から人家の間に入り、見当をつけた方へ適当に歩いていったら道の駅の裏手に出た。
草原を横切って駐車場に上がると家並みの先にページ冒頭のような山の雄姿が見えた。
  しまなみ海道が通って参詣はみな車となり、大山祗神社門前町は寂れているようだった。
宿は江戸時代からやっているという老舗でちゃんとした旅館だったがほかに客がなかった。
魚料理は飛び切りだった。

  旅に出て手許にパソコンがないと夜が長い。
早々に寝床に入った。

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月1日 -大山祗神社参詣、国宝殿見学のあと、今治-新居浜経由、赤石山銅山峰ヒュッテへ
<タイム記録>
     大山祗神社前[10:52]=(瀬戸内バス)=[11:53]今治駅[12:50]=(特急しおかぜ #18)=[13:24]新居浜(13:30)=[タクシー\4560]=(14:00)東平車道末端(14:05)-第3通洞(14:15/20)-遠登志道分岐(14:40/45)-(15:35)銅山峰ヒュッテ

◆ 早い時間に寝たお蔭で早朝に目が覚めた。恒例のコーヒで目覚ましをしたあと、朝飯前の散歩に出た。
今治に行くのに船便を利用できまいかと思ったので港に行ってみた。
神社参詣の入口として賑わっていたことを示す桟橋があって今治行きの朝の便が出てゆくところだったが、お昼前後の便はないということなので諦めて宿に戻った。

  途中の門前町は通りの両側に石灯篭が立ち並び、家並みの中に "侍屋形" と墨書きした大きな表札を掛けた古風な建物があった。

  朝食で膨れ上がった胃袋を落ち着かせながらパッキングを済ませ、神社に向かった。

  石造りの鳥居を潜ると右手に "斎田" (さいでん) があって、広い堀の中の 4m 四方くらいの部分に稲が植えてあった。
四国第一の大社に相応しく、参道が広大で、幅50m 奥行き200m 位はある。
柄の長さが3m 程もある竹箒を持って何人かが掃除をしていた。


  本殿は、祭っている神がひと柱のため単純な作りだが均整が取れた美しい建物だった。

祭られている神は、天照大神の兄、木花開耶姫尊の父にあたり、日本民族の総氏神として日本総鎮守だと言う。
昨日に続いて二度目の参詣で、前日の登山の無事への感謝とこれから向う赤石山の無事を祈った。


  国宝館への石段を上がった所に大きな宝筐印塔があった。
熊野古道で知られている一遍上人が神社本殿再建の祈りを込めて建立奉納したものと言う。

  国宝館のパンフレットによれば、一遍上人は河野通信の孫にあたるという。
このあたりを根城にしていた河野水軍の将で、源平の戦いでは源義経を助けた。

  図らずも、義経-弁慶-堪増-熊野-一遍-瀬戸内-水軍-義経、と繋がる古の因縁に触れて感慨深かった。

  国宝殿は全国で国宝・重文に指定された武具の4割を所蔵するわが国第一の武具館である。

  源義経寄進の赤絲威鎧大袖付、護良親王奉納の牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵、斎明天皇奉納の禽獣葡萄鏡など、平安から鎌倉期にかけての多くの遺品を見ることができた

  刀剣類の数が多かったが、平安から鎌倉に掛けては2m を越す長刀や長刃の薙刀が使われていた事を知った。
我が国唯一の女性用鎧と言う鶴姫着用の鎧も興味深く見た。

  国宝館の横手に海事博物館があった。
大山祗神は海と山の守り神ということで、海の物だけでなく山の物もいろいろ陳列されていた。

  昭和天皇が海生物研究に使われた木造快速船(葉山丸)は思い掛けない展示物だった。
敗戦直後、米軍の接収を避けるため大山祗神社に寄進されたのだが見つけられ、いったんは持ち去られたのがのちに返還されたと言う。

  鉱山関係では、別子の銅鉱石、菱刈の金鉱など、各地の鉱山の鉱石が珍しかった。

  ひとわたり見終わってまだ時間があったので神社の裏手に回ってみた。
この神社にも神仏混交の痕跡があるようで、"奥の院" と記した道標があって。
それが指示する方に進んで行くと楠の大木の根方を潜る "生樹の門" があった。
"門" を潜ると奥手に阿弥陀堂がヒッソリ立っていた。
かつてこのあたりは寺の敷地だったのではないかと思われた。
    神社のまわりはひと通り見まわり終えたので鳥居の前に戻った。
美術館の前にあるバス停の時刻表を見ると、大体1時間おきに今治行きの便がある。
次のは10時50分で、あと10分あまり。
丁度良いので宿に戻り、玄関先に預けて置いたザックを受け取って、乗り場に戻った。

  来たバスは空で、暫くは一緒に乗り込んだ地元の老女とふたりだけだった。
進むに連れて少しずつ乗り込んできて、来島大橋を渡れば今治という伯方大島では八分の入りとなった。
しまなみ海道の橋が架かって車の便が良くなり、以前の通船に変わって路線バスが便利に利用されるようになっているようだった。


  早い時間に今治駅に着いたので、計画より2時間も早い特急列車の指定券に変更できた。
まだ時間の余裕が十分あったので駅ビルのうどん屋に入って肉ウドンを食べた。
奥のテーブルで白装束の男が食べていた。
四国八十八箇所巡りの途中のようだった。


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☆今治から新居浜経由、赤石山銅山峰ヒュッテへ

   今治から新居浜へは約30分の旅だった。
進路の左側に見え隠れする瀬戸内の海と、右手に聳える石鎚山脈をかわるがわる眺めて楽しんだ。
ここを通るのは、半世紀近くの昔、直島を朝立ちして、高松から石鎚山に行った時、その次は20年程前、仕事で西条に来たとき以来だ。
フォッサマグナに繋がる大断層の産物か、石鎚山脈は海岸平野からストンと立ち上がっている。
標高は1800m 台だが高距は甲府盆地から見上げる甲斐駒、鳳凰山脈と大差なく、かなり迫力がある。

  早朝は快晴だったが、時間とともに薄雲が広がり、頂稜部が見えなくなって来ているのが気に懸かったが、予定より2時間早く新居浜駅に着くとすぐ、タクシーに乗り継いで赤石山に向った。

  赤石山中腹の東平(トウナル)までの長いドライブでは、ドライバーからいろいろな話を聞いた。
新居浜は古くから住友グループ企業の門前町だ。
別子鉱山なき後も様々な事業が行われ、今でも四国随一の産業都市として繁栄しているようだ。
ドライバーは山に関心があるのだが、日頃運動不足のため、膝が痛んだりして思う様に登れないという。


  2時過ぎに東平車道の末端に着いた。
下から見たときは雲の中と思ったが来て見ると薄日が射し、割に暖かい。
登りで汗を掻きそうなので薄手のTシャツに着替え、歩き出した。

  鉱山の跡とは思われないほど濃密な森の中に遊歩道が通じている。


  10分あまりで第3通洞に着いた。
明治の中頃に山の裏側から鉱脈を貫通して穿たれたトンネルの出口だ。

  手前に架かる橋を渡った所から左手の沢沿いに入ると、幅広く石畳の道を緩やかに登るようになる。


  20分ほどの所に道の別れがあった。
右は馬の背を経て銅山峰に上がる尾根道。
左は柳谷を経て行く谷道だ。
やや遠回りの様だがその分傾斜が緩そうな谷道を登ることにした。

  この道は昔銅山峰にあった鉱山集落と山麓をつなぐ歩荷道だったようで、緩やかな巻き道とジグザグ道とが巧みに組み合わさり、楽に登って行ける。
空模様はパッとしなかったが、時間も早いし、すぐに降ってくる気配もないので、ノンビリ登り続けた。
  途中休憩したとは言え、標準タイム50分の所を1時間20分ほど掛かってようやくヒュッテに着いた。

  あとひと登りで銅山越の稜線という高所に思い掛けない大きさの小屋だった。

  年中営業の小屋を管理していたのは70代後半の老女ひとり。
最近、山守をしていたご亭主をなくされたらしい。

  車道末端から約1時間登らなければならない高所でどのようにひとり暮らしているのだろうか?

  小屋の前庭は細長い平坦地になっていた。
昔、鉱山鉄道のターミナルがあったという。

  山の下の方に新居浜の市街と港が霞んで見えていた。
大気が澄んでいれば瀬戸内の眺めが綺麗だろうな、と思った。

  広場の西の林の縁にアカモノの群落がパッチ模様になっていた。
オリンパスのデジタル一眼にニコン用の90mm マクロレンズを付けた "新兵器" で撮影を試みたが、時間が遅くて光量が不足し、あまりうまく撮れなかった。

  ある程度焦点深度を確保したいのでレンズを絞ったらシャッター速度が下がってカメラぶれが生じやすい。
長焦点のマクロレンズを使うときは三脚、せめて一脚を使わなければ良い結果が得られない。

  上のアカモノと左のイワニガナ?は、数駒撮ったうちでもっともぶれが少なかった Raw データを現像した画像である。
  この夜、泊り客はほかになかった。
一人で食べるには大きすぎる林檎を持っていたので半分を管理人に食べてもらった。
寂しいほどの静かな泊まりだったが、暗くなったあと庭に出てみたら、新居浜の明かりが綺麗だった。




月2日
-銅山峰ヒュッテから銅山越に上がり、赤石山を縦走して筏津へ

<タイム記録>
    銅山峰ヒュッテ(7:15)-銅山越(7:55/8:00)-東山(8:20)-小休止(9:15/20)-西赤石山(9:40/50)-物住ノ頭(10:35/45)-石室越(11:30/35)-赤石山荘(11:55/12:15)-第2渡渉点(12:25)-小休止(12:55/13:05)-第1渡渉点(13:15)-小休止(13:45/50)-瀬場谷分岐点(14:05)-水場(14:30/40)-(15:10)筏津山荘


  この山旅のメインイベントの日になった。
小屋の高さも1100m あまりと言うことで寝ている間に酸素不足になることもなく、体調良好だったが雲行きが芳しくない。
テレビが見れず携帯の天気予報と天気図が頼りだったが悪くすると昼から降りだすかも知れない。

  オバァさん心づくしのオヤツの包みをいただいて出発。
小屋の西、僅か進んだ所に銅山越への登り口があった。


  昔の採鉱集落の道の名残のようで幅広く、石畳になっているところが多い。

ひと登りした所に墓場があった。
昔の鉱山集落の墓所だったに違いない。

 さらにひと登りで銅山越の鞍部に上がった。
尾根筋を辿る道と日浦に乗越して行く道とが十字に交わり、東側の石積みの中に地蔵が立っている。


  たまたま日浦から登ってきた老ハイカーがいた。
昼までは天気が持ちそうなので来てみたと言ったあと西山の方に歩いて行った。

大した荷ではないのだが、久し振りに背負った中型ザックの重さのせいか、この登りも標準タイムを大分オーバしている。
歳のせいだから仕方ない。
この先も時間が掛かりそうだがこの程度のペースで歩いていれば、バテる心配はなさそうだし、前赤石の悪場は雨になる前になんとか通過できるだろうと計算した。
  地蔵の石垣の右脇から先の尾根道に入ると穏やかな縦走路になった。
樹木が繁茂し、数十年前まで鉱山があった山とは思えない。
ひと登りして東山を越すとまわりが開け、前方に西赤石山が見えてきた。

しばらくの間、穏やかな尾根道を歩き続け、中間ピークで休憩。
中間ピークの先も穏やかな尾根が続いた。

  散り残りのツツジの花を見たあたりから登りがやや急になったがひと頑張りで西赤石山の頂上に着いた。

  時間は掛かったが順調に最初の主峰に登りつけた。
雲行きは良くないが何とか降らずに踏みとどまっている。
休憩していた所へ単独の熟年がやってきた。

  香川から来たと言う。
今は神奈川に住んでいるが大昔にチョッと直島に居たことがあると話したら急に打ち解け、この間は丹沢に行ってきたという。
丹沢など、東京付近の山はオーバーユースになっているのが多いが、四国の山は傷んでなくて綺麗なのが気に入り、また来ていると話した。
西赤石山頂上付近から西方を望む。 中央やや右よりはちち山から笹ヶ峰    (クリックすると拡大します)


  行く手は穏やかな物住頭だがその次ぎは少々険相な前赤石山。
さらにその先の八巻山の頂稜の背後に東赤石山と思われるピークが覗いている。

香川男と前後して物住頭に向ったが間もなく後に遅れた。
雨で濡れないうちに前赤石山の岩場を通過できれば良いし、すぐに降りだすこともなさそうだと思ったのでマイペースで進んだ。

  しばらくすると後ろで人の気配がした。
振り返ると中年男が追いついてきていたので、どうぞ、と言って道を譲った。


  物住頭の近くにはツガザクラの群落が真っ白な花を咲かせていた。

花の白さが際立っている。

この花の大群落を見るのは羅臼平東斜面のお花畑以来、何十年ぶりだ。

  ひと登りで物住頭に着いた。
頂上には二人居る筈が香川男しか居なかった。
訝りながら話していたら中年男が北側の薮の間から顔を出した。
上兜山、下兜山をつなぐ尾根上にある薮ルートの様子見をしたと言う。

  真近かに迫った前赤石山のルートを観察した。
コルから南面の岩の間を登って行く所はよく見えるが途中から先、石室乗越付近は山の陰で分からない。

  前赤石山はこのあたりで難場として知られているようで、地元のふたりはお互い通った事があるとかないとか言うやり取りをしていた。

こちらとしてはなんとしても通リ抜けて行かなければ、筏津の泊まり場に行き着けない。
 銅山越に戻る二人に別れを告げて先に進んだ。

  鞍部付近には遅咲きのミツバツツジの紅が美しかった。

  コルの先から始まる岩場のトラバースのはじまりは、至って安易な様相だった。
幅広のバンド状のルートは至って歩きやすいし、来てみればどうと言うこともないな、と思いながら進んでいったのだが、それは少々早合点だった。

  岩角を回り込んでガリー状の浅い凹角を渡る所は上下がすっぱり切れ落ち、久し振りに三点支持の基本を復習させられた。

一眼レフに変わって嵩張るようになったデジカメのケースが岩角に引っ掛ったり、サイドポケット付きで横幅が広いザックが当ったりしてヒヤリとさせられた。

  無事に通り抜けた所で後を振り返ってみたら結構な崖のまん中をトラバースしてきている事が分かった。
七十過ぎたジイサンが一人で通る所ではなかったのかなぁ、と思ったりした。


  難場を通過している時は疲れを感じなかったが,そのあとの浅い鞍部から石室越への緩やかな登りはきつかった。

  地名から鞍部を乗越すのかと思っていたがそうではなく、小ピークの肩を乗越すのだった。
まだかまだか、と言う感じで登り続け、ようやく乗越の道標の袂に着いた。
道端に咲くスミレの紫と茂みの中に見えたシャクナゲの薄紅が美しかった。

  乗越から先はゴーロ状の下りになる。
老夫婦が登ってきたのに遭った。
こちらより年上でその分長く山をやっている風体だった。

  ひと下りで草原の縁に出た。
左上は八巻山の岩尾根で、その先に東赤石のモッコリした岩峰がある。
山の名の通り岩が赤く "南" の赤石岳と良く似た色だが成因は違うらしい。


  思ったより長く掛かって赤石山荘に着いた。
小屋の裏手の引水で喉を潤したあと表側に回った。
週末で管理人が来ているようだったが入口の構造がチョッと入り難い感じなので前庭の野外ベンチにザックを下ろした。

  登るか下るか、飲み食いをしながら暫く考えた。
少々疲れてきていたし、雲行きもパッとしないのでそのまま筏津へ下る事にした。


  下降路は緩いゴーロから始まり、引き続き沢の源流に沿うようになったあと、第2渡渉点で右岸に渡った。

  まわりの地形が徐々に険しくなり、第1渡渉点で左岸に戻ると滝場の高巻道になった。
濃密な森の中で現在位置の確認は難しくなるが脇に逸れようもない一本道なのでひたすら下り続けた。


  尾根の裏側を回ってきたもう一本の下降路と合流するとそのすぐ下に架かる丸太橋を渡り、また右岸に戻った。

ひと下りで八間滝の高巻道になった。
左下の崖が終わるあたりで谷を覗くと綺麗な滝が懸かっていた。

  まわりの地形が緩んで来てノンビリ下山のムードになり始めたあたりで木の間に谷向いの山が見えた。
地形図と照らし合わせ、東光森山ではないかと推定した。
河岸段丘の上にある人家も見えてきて終わりが近い事が分かった。

  山裾を右手に回りこんでゆくと工事が終わったばかりの駐車場の脇に出た。
さらに一段下って銅山川谷沿いの道路に降り立つ手前で対岸に筏津山荘が見えた。

  筏津山荘は保養所風の建物で落ち着いた良い泊まり場だった。

  山荘のすぐ裏手に筏津鉱山の坑口があった。
入口から30m ほどが展示坑道になっていて、かつて構内を走っていた電車や削岩機などを見学できた。(左下)

  大きな浴槽の湯に浸かって山の疲れを解した。

風呂上りでユックリ休みながら携帯で家に無事下山を知らせた。

  筏津は非常に交通の便が悪い。
朝7時前の日浦・新居浜行き地域バスか、8時半過ぎの伊予三島行き路線バスか、の選択肢しかない。
さらに地域バスの方は前もって電話で予約しておかないと乗せてくれない。
  テレビの天気予報が芳しくないのでどうなるか分からないが、いずれにせよ新居浜方面に向かえば何かできるだろうと、前者を選んだ。
  天気と疲れで東赤石山登頂は果たせなかったがそれ以外は大体イメージ通りに歩けた。
特に、美しいツガザクラの大群落は久し振りだった。
はるばる出かけてきてそれなりの山歩きができたことで満足して早く寝た。
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月3日 -地域バスで赤石山を越え、別子鉱山マイントピアから新居浜へ
<タイム記録>
    筏津[6:50]=(別子山地域バス)=[7:35]新道トンネル前-遠登志(8:05)-マイントピア別子(8:25/9:40)-(10:55)山根[10:59]=(瀬戸内バス)=[11:10]新居浜[11:23]=(しおかぜ #14)=[12:57]岡山[13:33]=(ひかり#376)=[17:26]新横浜=長津田=宮崎台

◆ 天気予報が当り、早朝から本降りになった。
ザックが軽く疲れていなければともかく、傘をさして山に上がる気にはなれなかったので日浦から鹿森ダムへの銅山越えの山歩きは中止。
地域バスで新居浜に出て、適宜観光をして帰る事にした。

  約束の時間に迎えに来たバスは、よそ行きを着た地元の老婆が一人乗っているだけだった。
5分ほど走った所にある役場支所前で7時の時報が鳴るまで待機したあと走り出した。
雨模様だが日曜日だったせいか日浦の銅山越口とその先の三ツ森山登山口、中七番の平家平登山口とトンネル入口にはそれぞれ1、2台の車が停めてあった。

  長大な大永山トンネルを潜って瀬戸内側に出ると路面が乾いていた。
これなら歩けそうだと思ったのでドライバーに相談し、発電所の上手で新しいトンネルが4っつ続く手前の道端に下ろしてもらった。
旧道が残っていて谷を見ながら歩くことができる。

車が走れる道が通っているとは信じられない険しい谷だ。

  尾根に守られた所にある発電所の上を通り過ぎて暫くの所に銅山越から下りてきた歩道の出口があった。
ここから銅山峰ヒュッテのあたりまで歩荷道が通じ、物資を運び上げ、鉱石を担ぎ下ろしていたと言う。

  出口の下手に女性の歩荷の銅像があった。
普通、女30Kg、男は50Kg 程度の荷物を運んでいたと記してあった。

  ダム湖の脇に茶店があり、その先のトンネルのUターンをふた曲りするとマイントピアの建物が見えてきた。

  営業は9時からでまだ大分早い。
園地の奥の野外ベンチで休憩しながら9時の開店を待った。


  時間が来たので中に入り、まずカフェテリアに行った。
予備食程度でマトモな朝食を食べたなかったので麺類でもと思ったがまだ準備中で出せないと言うので諦め、売店に行って目ぼしい菓子折を買って家への土産にした。

  9時50分の新居浜行きバスがあると思ったのは錯覚でこの便はウイークデイにしか運行されない。

旧鉱山鉄道の一部を復元してレプリカ機関車を走らせていたり、旧鉱山の迎賓館だった建物を移築復元して展示していたりしたがそれ以外はあまり見るところがない。

  バス乗り場のベンチに座って時間潰しを始めたら間もなく雨が降り出した。
どうせ降られるならと、谷の出口まで歩いて見ることにした。
  橋を渡った所に旧発電所の大きなレンガの建物がある。


  歩いているうちに本降りになったので道端にあった神社の軒下に入ってしばらく雨宿り。
ついでにトイレも使わせてもらった。

  張り出した尾根の裾に沿ったヘヤピンカーブを抜けると山が終わり、大山祗神社と運動公園があった。
公園の入口にバス停があったが吹きさらしのため橋を渡って町に入った。
市街に入ってすぐの家並みの軒下のバス停で数分待った所へバスが来た。
帰りが予定より2時間ほど早まったので、予讃線と新幹線の座席指定券を変更して、岡山経由、夕食前に帰宅した。

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☆おわりに
    長い風邪のあとだったのと天気がもうひとつだったので東赤石山頂上を割愛し、計画完遂とまでは行かなかったが、与えられた条件の中ではほぼ満足できる山歩きができた。
石鎚から赤石付近までの愛媛の山は瀬戸内海岸の海抜ゼロメートルいきなり1700から1800メートルまで立ち上がっている大高距と、山上に残されている豊な自然とで非常に魅力がある。
山に住む人々の純朴も好ましい。