熊野、大日越、七越峰-山在峠、玉置山 (2007.4.22-24)


☆期日/山行形式:
2007年4月22-24日 グループツァー 温泉2泊3日

☆地形図(2万5千分1): 本宮(田辺2号-3)、伏拝(田辺1号-4)、十津川温泉(田辺1号-3)

☆まえがき
    シニア歴史散策グループの何人かの仲間で熊野古道を歩こうという話がまとまった。
みな年にしては元気だが、半分ほどは山歩き未経験という。
雲取越や小辺路は当然対象外となるが、 紀伊路か伊勢路を歩くにしても、核心部分は結構なロングルートで登高差もある。
下手なハイキングコースよりずっと大変だからいきなり突っ込んだら危い。

  まずは小手調べかたがた熊野全体のイメージを持ってもらおうと、熊野川谷を川口から源流まで遡るイントロの山旅を提案した。
さらにそのひと月前に、高尾山で練習ウオークを行って装備の点検と各自の体調の確認を行った。

  高尾山練習は下りを重視して稲荷山ルートを下降してみたが思ったより順調で、殆んど全員が余裕をもって楽勝し、本番の見通しが立った。

  本番は、新宮速玉大社と神倉神社、湯の峰温泉、熊野本宮大社と大斎原、七越峰から山在峠宝筐印塔、玉置山に登ったあと天辻峠まで熊野川谷を遡行し、さらに、吉野川谷を横断して奈良盆地の大和八木まで北上。
最後は京都を回って帰る、2泊3日の熊野縦覧の旅である。

  山道歩きは、湯の峰温泉から本宮大社までの大日越、七越峰から山在峠までの南奥駈道南端部、玉置山駐車場から玉置神社経由で頂上へ。
軽いショートコースで古道と奥駈道の味見をしつつパーティとしての力試しをしてみようという目論見だった。

七越峰、アンテナピークのパノラマ
南奥駈道南端部、七越峰アンテナピークから大斎原、本宮大社の森を望む    (クリックで拡大します)


  予定日はあらかた雨という予報が出て大いに心配したが、結果的には、行く先々を雨が避けてくれた形となり、一滴の雨に遭うこともなかった。
おまけに、チョッとバテかかったメンバーも出た時は、思わぬ助け船が現われるという幸運にも恵まれた。
楽しく計画を完遂し、熊野の長い歴史、豊な自然、人々の親切、などを実感して帰った。


☆行動記録とルートの状況

月22日
: 新宮速玉大社・神宝館-神倉神社・ゴトビキ岩-湯の峰温泉
<タイム記録>

    宮崎台=あざみ野=新横浜[7:53]=(ヒカリ#363)=[9:22]名古屋[10:06]=(特急南紀#3)=[13:25]新宮駅(13:35)-新宮速玉大社・神宝殿(13:45/14:50)-神倉神社入口(15:05)-神倉神社・ゴトビキ岩(15:20/35)-(15:50)裁判所前バス停[16:03]=(熊交バス)=[17:11]湯の峰温泉[民宿あたらしや]

◆アプローチは自由にと言うことで13時30分新宮駅集合とだけ設定していたが、結果的には全員が同じ新幹線と紀勢本線特急で行くこととなり、名古屋駅の紀勢本線ホームで勢揃いができた。
早玉大社入口   多気、紀伊長島、尾鷲を経て新宮への長い道程の沿線風景も見慣れたものとなった。

  新宮では語り部のガイドを依頼し、駅で会合するよう事前の電話で打ち合わせていた。
待っていたのが予想外の若い美人だったのに一同大喜び。
挨拶のあと、イントロの説明を聞きながら速玉大社へ向かった。

  神社入口の鳥居を潜ると、八咫烏の来歴を示す石碑、天然記念物の梛(ナギ)の巨樹などがあり、それらの説明を受けながら本殿境内へ。

  速玉大社の社殿は昭和の再建でごく新しいものだが、朱塗りが美しい。

  これまで何度か見ている神社だが、はじめてガイドの説明を聞き、学ぶことが多かった。

  歳の違いもあって可愛い感じさえするガイドさんだったが、さすが良く勉強しているなぁ、と感心するほどのしっかりした解説だった。

  神社参拝が終わったあと境内の神宝殿に入った。
薄暗い庫の中に、数々の国宝、重文級の遺品が無造作に並べられている。
仲間と熊野に来る機会があったら、是非とも見せたいと思っていた。

  わざわざ社務所に連絡し、神職に説明に出て貰ったのだが、若年でどことなく自信なさげな説明。
"勉強家の彼女" にやって貰った方がベターだったも知れない。

  神倉神社に向かう道は千穂が峰の山裾の裏通りで所々に古い寺や料亭がある。

寺の石垣に淡い紫の花が咲いていた。
東国ではあまり見掛けない花だ。

  15分ほどで神倉神社の入口に着いた。
この神社は毎年2月6日の夜のお灯祭りで有名だ。
2000人もの若者が松明をかざして山を駆け下りると言う。

  山の上にあるゴトビキ岩がご神体で、これに対する原始信仰が速玉大社のルーツになったとも言われている。

 

  社務所前の広場の先から急な石段が始まった。
580段ほど。
とんでもない急勾配の石段だ。
段差が大きく、ステップが不揃いのため登り難い。

  突然の急登に身体が対応しきれず、なかなか大変だった。
夜松明を持って駆け下るのはもっと大変だろうと思った。

  階段の中ほどにある小広場でひと息入れた。
そこから先は幾らか傾斜が緩んで楽になる。
登って行くにつれて徐々に傾斜が緩み、最後はほとんど水平に山腹を巻いてゴトビキ岩の神域を仕切る柵に入った。

  ボランティアらしい老人達が掃除をしている脇を摺り抜けると岩の袂の小広場だった。

  頭の上にツルリと丸い巨大な岩塊が据わっている。
どうしてこんな所にと思う不思議が古人に神を感じさせたに違いない。




  岩塊の懐に祠がある。
石段を登って参詣したあと、後ろを振り返ると、足許に新宮の市街が広がり、その先に熊野灘の水平線が緩やかな弧を描いていた。


  湯の峰温泉行きの最終バスは午後4時頃に山の下を通る。
見学はそれにあわせて進行して欲しいと、あらかじめガイドに頼んでいた。
階段の登りはきつかったが下りは足許に気をつけるだけでよいから楽なものだ。
程よいタイミングで山の下の裁判所前バス停に着いた。

  心配した雨にも遭わず、見たい物はシッカリ見れて満足した。


  十字路を右に曲がったバスが千穂が峰に続く端山に穿たれたトンネルを抜けると熊野川沿いの国道になる。
  まず湯の峰温泉への道の分岐がある請川まで北上する。
山の裏側ではいくらか降ったようで道が濡れていた。
しばらく走ると残り雨のエリヤに入ってフロントガラスのワイパーが動きだした。

  1時間あまりで湯の峰温泉に着いた。
12人で満杯という小さな民宿に11人で泊るので、ほとんど満員の貸切状態になる。

去年3人で泊ったときはヒッソリした宿だったが、今度は違って入口に提灯が灯され、手伝いのオバサンまで来ていた。
  宿の内湯が小さく順番待ちが長いので目の前の川の中にある壷湯に入ってみることにした。
小栗判官と照手姫のロマンを伝える歴史の浴場だ。
  誰も入っていないようだからすぐに入れるだろうと思って行ったのだが、タッチの差でカップルに先を越され、30分以上も待たされることになった。
ほかの仲間も何人か待ち行列に加わったので湯に浸かった時間は僅かだったがその割には良く身体が温まった。

  医薬がほとんどなかった昔の人の身体は、さまざまな化学物質で汚染されていなかった。
このような濃厚な硫黄泉の、皮膚病などへの効能は顕著だったに違いない。
  内外双方の湯の待ち時間のせいでメンバーがなかなか揃わないため、二度の "練習" を経て宴会が始まった。
もともと馬が合う仲間同士ゆえ、和やかに飲んで食べて喋って、気分よく楽しんだあと阿弥陀籤で決めた部屋に分かれて寝た。
                                                                                                                22日の先頭へ


4月23日: 大日越-熊野本宮大社・大斎原-七越峰-山在峠-十津川温泉
<タイム記録>

     湯の峰温泉(7:45)-鼻欠地蔵(8:20)-月見ヶ丘神社(8:40/50)-熊野本宮大社入口(9:40)-熊野本宮大社(9:51/10:05)-大斎原(10:25/51)-備崎橋(11:28)-備崎展望台(11:56)-七越峰園地(12:10/13:20)-アンテナピーク(13:30/40)-吹越宿跡(14:20/迷/?15:00)-山在峠・宝筐印塔(15:15/15:20)-山在(15:40/45)-(16:00)上切原=(宿の迎車)=(16:30)十津川温泉[昴の里]

2日目はまず大日越を歩いて本宮大社に向った。
夜のうちは少し降ったようだがった天気は登り坂で、午後は晴れてくると言うありがたい予報が出た。

  朝食のあと支度ができ、宿の前に勢揃いした所で女将さんと記念写真を撮った。

  宿の向かい側の石橋を渡った所が古道の始まりだ。
古道に入るとすぐに湯の峰王子があり、道の左の高みの上の小広場に王子の祠があった。

  入口から30分あまり、鼻欠け地蔵まで登る。
始めは結構な坂だが尾根に上がると傾斜が緩む。
  ほぼ水平になった道の脇に鼻欠け地蔵があった。(左)
鼻欠けと言うより顔が欠けて無い状態になっている。
ハンセン氏病患者を象徴しているとも言う。
昔、多くの患者が熊野古道を彷徨っていたという。

  山の左側をやや下り気味に進んで行った所に月見ヶ丘神社があった。
歩き出して約1時間経っているので小休止。
岩の隙間から染み出している御神水が美味しかった。

  月見ヶ丘神社から先は石畳の急降下になる。
登りは皆元気に歩いたが、下りは個人差が開いた。
  とりあえず疲れが目立つ者にストックを渡して支えに使って貰い、ユックリ慎重に歩くようケヤ-した。

  高尾山練習で問題がなかったのに気を許し、ザックのパッキング、背負い方、疲れない歩き方など、基本をキチッとアドバイスしてなかった。
自宅近所の坂道を選んでウオーキングするよう奨めはしたものの、ザックと身体の重心の無駄な動きを抑えて疲労を最小にする歩き方の要領までは言わなかった。
手抜かりを悔やんだがこの期に及んではもう手遅れだ。
どうにかこうにか本宮町の裏通りに降りつけてホッとした。
表通りに出るとすぐの所に、大斎原出口がある。
  鳥居のまわりの小広場で休憩しながら、あらためて、ウエイストベルトとショルダーベルトに負荷を均分するザックの背負い方の基本を説明した。

  本宮大社に向う道は拡幅工事が進み、家並が建て換えられて綺麗になったが最初に来た時の鄙びた門前町の風情は失われたような気がする。

  10時に語り部ガイドと本宮大社の鳥居で会合する事になっていた。
下りで時間が掛かったものの、かなり早目に着いたのだがもう来て待っていた。
あとで知ったことだが、地元観光協会が割り当ててくれた語り部ガイドは、もと請川の郵便局長で、この一帯の山を隈なく歩いている人だった。

  挨拶のあと記念写真を撮り、石段を登った。
奥駈道を歩いて来たときは、疲れた身体に鞭打って登った厳しい階段だった。

  登りついた神門の脇に八咫烏のいわれを詳しく記した看板が立っていた。
神の使いの三本足の烏はサッカージャパンのトレードマークにもなっている。
似たような烏の伝説は北欧や印度などにもあるそうだ。


  深い緑の森の中に佇むモノトーンの熊野本宮神殿の前には、独特の安らぎと静けさが漂っている。

  奥手に据えられた和泉式部所縁の石碑の説明を受けたあと、門を出たところにある札所で熊野牛王神符を求めた。

持っていればあらゆる災厄から護ってくれると言う。
ボケ防ぎの役にも立ってくれるのではないかと期待している。

  石段を下って鳥居に戻り、大斎原に向った。
家並みの裏の田の畦に出ると大日越の山が見えた。

  大斎原には明治22年の大洪水まで12柱の神を祭る熊野本宮大社があった。
上、中、下、3社のうち僅かに上社、4柱のみが流失を免れ、丘の上の現在地に移された。

ほかの神々は二基の小さな石祠となって旧地に残っている。
  大斎原は一遍上人所縁の場所でもある。
石祠と向かい合わせにその歴史を記した石碑が立っている。

  大斎原の見学が終わり、出口の鳥居でガイドと分かれようとしたら小形トラックで来ているから七越峰まで面倒見をしてあげると言う。
これもあとから気がついたことだが、山好きで本当は本宮や大斎原よりむしろ、大日越や奥駈道南端部の案内をしたかった様子だった。

  思い掛けないありがたい申し出だったので、疲れが見えていた一人と全員のザックとを運び上げてもらうようお願いした。

  国道沿いを備崎橋に向って歩いていると日焼けした髭面の若者と出遭った。
「どこから来たの?」と聞いたら「吉野からです」という答え。
長途を一人で歩き遂せてあと僅かで本宮大社まで辿りついた若者の内心の感激を自らの先年の経験と重ね合わせ、感慨深かった。

  備崎橋入口には大峯奥駈道を示す道標が立っている。

  渡りかかった橋の上からは、熊野川の河原の先の方に玉置山が高かった。


  備崎に渡り終えた所から右手に回り、尾根の裏側の谷窪の車道から遊歩道に入った。
特に急とも言えない登りだったが標高50m 内外の大斎原から250m 程の山に上がるのはひと仕事ではあった。

谷窪から尾根の背を乗り越すと傾斜が緩む。

  左手に巻き上げて車止めのある見晴台に上がると川越しに大斎原の大鳥居と本宮の森が見渡せる。
2、3基の野外ベンチがあって格好の休憩ポイントだった。

  賑やかに休んでいたらガイドの車が降りてきた。
疲れたメンバーと全員のザックを運び上げてくれた親切に丁重な礼を言って別れた。

  展望台から僅かで七越山の園地に着いた。
疲れた御仁はスッカリ元気になって待っていた。
ここには12時半より早くは着けないだろうと予想していたのに意外に早く着いた。

  湯を沸かしてお茶を淹れ、宿が作ってくれたメハリの握り飯をパクいた。
食後は、抹茶・コーヒなど、いろいろな飲み物を楽しみながら長く休んだ。

  昼休みが終わるとすぐに北側のアンテナピークに向った。
語り部ご推奨の展望峰だ。
  砂利の林道からひと登りで上がった頂上は以前ハンググライダ-の離陸ストリップだった部分の樹木が伐られ、冒頭パノラマのように広大な展望が得られた。
足下の大斎原、本宮の森の先には中辺路の山並み。
南の方には去年の11月に越えた大雲取、小雲取の山々が並んでいた。

  アンテナピークの先から大峯南奥駈の山道が始まった。
杉林の中で展望はないが緩やかに上下する道は歳よりグループが奥駈道の味見をするにはお誂え向きだと思った。

  1時間ほどで舗装車道に出たら、向かい側に "宝筐印塔" と記した道標が立っていた。
"宝筐印塔" の文字につられて、まだ吹切宿跡だったのを山在峠と勘違いしたのはご粗末なウッカリミスだった。

  記憶では車道から一分で宝筐印塔の筈が、急斜面を上がり、10分ほども進んだのに杉林ばかりで何もない。
経験不足の老人パーティで深入りは危険と判断したので、反転、元に戻る事にした。


  車道に戻った所であらためて地形図と照合を行って現在位置を確認。
左手の車道を進んで山在集落の上のT字路に出た。

  角を右に折れて5、6分の所が山在峠で、すぐ近くの林の中に宝筐印塔が見えた。
最前の迷い歩きでは、峠のすぐ上まで来ていたようだった。


  そこは奥駈道南端部の祈祷所で、広場の奥手の石祠の中に奥駈の行者が置いていった木札があった。
あたりを見学しながらしばらく休憩。
記念写真を撮ったあと下山にかかった。


  山在峠から僅かの所で熊野川が見えた。
いつの間にか青空が広がり、この上ない好天になっている。
正面は熊野萩から八木尾のあたり、右下の山裾は三里のあたりだろうか?
錯誤で少々の無駄歩きはしたがまだ時間は早く、メンバーは全員元気で気分良さそうに歩いている。

  T字路を直進した先でヘヤピンカーブを回って高度を下げ、牛舎の上を通り過ぎると間もなく山在の集落だ。
道の下の柵の中では前に通ったときと同様、猪が走り回っていた。

  事前の打ち合わせに従い、携帯で十津川温泉の宿に連絡し、車の迎えを要請した。

  山在から15分ほどで上切原の川沿いの道路に出た。
迎えを待ち合わせるためザックを下ろそうとしていた所へ車が来た。
まさにジャストインタイムだった。

  車で三里橋から熊野萩に渡り、八木尾、七色を経て果無の尾根末端近くの昴の里に入った。

  この宿は十津川村の第三セクターが運営している施設のひとつのようで、山中に似合わない大きな建物だった。
十畳ほどの四人部屋三つに分かれて泊まったが、ユッタリした浴槽で身体を清め、神前結婚式用に作られた大部屋で宴会をした。

僅かなトラブルもあったが思わぬ好天に恵まれたおかげで予定した通りに、古道歩きと、本宮参詣と、奥駈道歩きとを終えた。
宴会は前夜以上に賑やかだった。


                                                                                                                23日の先頭へ


4月24日: 十津川温泉-玉置神社-玉置山-谷瀬大吊橋-天辻峠-樫原神宮-大和八木駅
<タイム記録>

     十津川温泉[8:00]=(貸切マイクロバス \63,000)=玉置山駐車場(8:40)-玉置神社(9:00/9:40)-玉置山頂上(10:00/10)-玉置山駐車場(10:25)=猿飼橋(10:55)=十津川村役場(11:10/30)=谷瀬大吊橋(12:05/50)=天辻峠(13:20/35)=橿原神宮(15:00/25)=(15:30)大和八木駅[16:01]=(近鉄急行)=[16:55]京都[17:00]=(ひかり#380)=[19:26]新横浜=あざみ野=宮崎台

最終日はチャーターしたマイクロバスの機動力を利用した。
まず玉置山に登り、熊野の奥社と言われる玉置神社に参詣したあと玉置山に登頂。
山を下ったあと、熊野川谷を詰めまで遡って大和八木まで行く長途のバスツアーを行う。

  玉置山へは急な山腹を縫っている車道を登った。
いつもの山と違って座っているだけで、ドンドン高度が上がり、まわりの山への視界が広がってくるのは妙な感じだった。
登りついた駐車場は3、40台の車が停められそうな広さがあった。

   玉置神社への道は、しばらく山腹を水平に巻いて行く。
海底火山の痕跡と言う枕状溶岩の露頭があった。
海の底にあったものが標高1000m を越す山の上に来ているのは不思議なことだ。


  枕状溶岩の少し先からやや下り気味に進んだ所に鳥居が立っていた。
さして大きくはないが険しい山中の、大杉が林立する森の中にある社殿には荘厳な雰囲気があり、霊力と言うか、なにか特別な力を感じさせた。

  代わる代わる本殿を拝んでいる所へ神主が出てきていろいろ説明してくれた。

  現在社務所兼宿坊として使われている建物は明治の廃仏毀釈までここにあった寺院の庫裏だと言う。

  内部を仕切る襖絵は重要文化財で、一人300円の拝観料で見せてもらえる。
奥駈で泊めてもらった時は見る暇がなかったので自分でも楽しみにしていた。
年経て煤け気味ではあったが描きあげられた当時の鮮やかな色彩の名残を止めていた。

  社務所で護符を頂き、神主に加わってもらって記念写真を撮ったあと頂上に向かった。
  神社から頂上まで、標高差は100m 弱だが結構な急登だ。
足自慢の何人かはドンドン登って行ったが大部分は突然の急登に悲鳴を上げている。

  玉石社を過ぎた所からさらにひと頑張りで饅頭型の頂上広場に着いた。
沖見岳の別名を持ち、頂上には沖見地蔵があるくらいだが春霞が濃く、海はもとより、少し離れた山も定かでないほど霞んでいる。

  標高差のほとんどを車で登るカンニングをやったとは言え、とにもかく南奥駈道南部の臍と言われている山の頂上に立つことができ、一同満足のようだった。
  登頂記念写真の撮影で、セルフタイマーのセットを誤り、その代わりにシャドウ・コントロール・スポット露出にするという失敗をしたが、トーンカーブ補正ソフトのおかげで無事救出できた。
ともかく、 楽しく賑やかな休憩のあと駐車場に下った。
  下降路は途中まで奥駈道の飢え(カツエ)坂の上部を歩く。
南奥駈南部でも屈指の美しい尾根道だ。
ようやく芽萌きになろうとしている自然林が綺麗だった。
  プランニングはかなりラフだったし、時間管理にも大して気を使わなかったのだが丁度よいタイミングで駐車場に戻れた。
  良い道が整備されているとはいえ、山下りのドライブはかなり際どいもので、いくらかの金を払うことによって地元のプロに委ねることにしたのは正解だと思った。

  午後4時半くらいまでに大和八木に行ければよいとすれば十分な時間の余裕がある。
要所で観光しながら行く事にした。
役場の隣にある十津川村の歴史民族資料館は休館日だったが、役場は開いていて色々な資料が貰えた。
自称日本一の谷瀬の大吊橋で昼食。

  明治の大洪水の原因となった山崩れの跡は、文字通り山が動いたことを示していて驚いた。

また、3年ほど前の台風で崩落した国道の修復工事がまだ終わっていない急斜面にも驚いた。

熊野川谷の源流部には護良親王と天誅組のモニュメントが並んでいる星の里公園がある。

  そこでトイレ休憩をしたあと、天辻峠の下を長いトンネルで抜けて吉野川谷へ下った。

  吉野川北岸にある五条の市街を抜け、低い峠を越すと大和盆地になる。

  時間の余裕があるのでどこかに立ち寄って行こうと相談した結果、樫原神宮を選んだ。

  樫原神宮の名はみな良く知っているがその割に実際に訪れてことがある者が少なかった。
また、ここ立ち寄ることによって、今回の山旅が、熊野から吉野を経て大和に入った神武天皇東征の足跡を辿ることにもなると考えた。

  樫原神宮は畝傍山を背にする広壮な神社で、拝殿脇の札所には八咫烏のお守りも置いてあった。

  樫原神宮から大和八木駅までは10分足らずしか掛からない。
僅か2、3時間で辺境の只中から都市圏に舞い戻ったことになる。
駅近くの売店で帰途の食料と、家への手土産に柿の葉寿司を買い、予定より1時間半も早い時間の電車に乗った。
                                                                                                                24日の先頭へ

☆おわりに
    シニアグループ初めての熊野古道歩きだったので慎重な準備と計画を行った。
天候に恵まれた結果、ほぼ目論み通りの楽しい山旅ができ、メンバーの興味と意欲を高めることができた。

次回は秋で、中辺路の終端部の二日半の道程を歩くことになりそうだ。
15Km のロングウオークが二日続くのをどう消化するか?
疲労や時間遅れなど、問題が生じたときのエスケープをどうするか?
頭が痛いが楽しくもあるパズルだ。

那智にも早く行きたいと言う声もある。
雲取越えを歩かずに那智へショートカットするルートがあるかどうか?
こちらも工夫のし甲斐のある宿題だ。


                                                                                                              ページの先頭へ