高山不動-関八州見晴台-刈場坂峠(2007.11.27)


☆期日/山行形式:
2007年11月27日  日帰り軽ハイキング 単独

☆地形図(2万5千分1): 正丸峠(東京13号-1)

☆まえがき
    この前の奥武蔵への山行で丸山から大野峠、刈場坂峠、旧正丸峠を歩いた結果、主稜の未踏部は刈場坂峠から高山不動までのみとなった。

  あと僅かなのだから早いところ歩き切ってしまおうと、また出かけることにした。
ルートは西吾野駅を起点に、高畑から高山不動に上がって、関八州見晴台から刈場坂峠へ向けて歩き、峠の南麓の狩場坂に降りて正丸駅に出るよう設定した。

  生憎、高曇りで展望はもうひとつパッとしなかったが、週日だったので人が少なく、静かな山歩きができた。
関八州から刈場坂峠までのあらかたは車道を歩いたが車がほとんど来なかったのでノンビリ歩くことができた。
峠の麓の狩場坂の人家のまわりでは見事な紅葉を見た。

八州見晴台の展望、奥多摩から武甲山、双子山    (クリックすると拡大します)

☆行動記録とルートの状況

<タイム記録>

    宮崎台[6:47]=溝の口=府中本町=[7:44]新秋津/秋津[7:54]=飯能=[8:57]西吾野駅(9:00)-間野(9:15/20)-高畑(9:50/55)-高山不動(10:35/40)-関八州見晴台(11:10/20)-飯森峠(11:50)-ぶな峠(12:10)-刈場坂峠(12:40/55)-刈場坂(13:55)-子ノ神戸国道口(14:15)-(14:35)正丸駅[15:25]=飯能=[16:30]秋津-新秋津[16:37]=府中本町=溝の口=[18:11]宮崎台


◆西吾野駅から歩いて20分ほどのところに架かっている橋の先が高畑を経て高山不動に登るルートの入口で、道標が立っている。

  橋の袂から約1時間ほど、舗装車道を歩くと東屋に突き当たる。
屋根の下のベンチで小休止しながら足拵えをした。

高山不動へは、右手の山に上がってゆく道に入る。
炭焼釜の前を通り過ぎた所から山道に入り、尾根をひとつ乗り越してその裏側の沢を渡った。

杉林の中に左のような橋が架っていた。


対岸の杉林の中をもうひと登りして間野から登ってきた尾根道と出合った。
尾根の裏側の山腹に入り、斜面を横切ってゆくと祠があり、その先から竹薮が見えてくる。

  もうすぐ高山不動という所で道が分かれいる。
前回はそこを直進して参道石段の下にある駐車広場に出た。

  今回は左手に登って見たら僅か斜上した所で不動堂の横手に出た。

  こんな山の中にどうやって建てたのだろうか、と思うほどの大きな堂々とした建物だ。
  赤い屋根が散り残った紅葉の色を映して綺麗だった。

  お堂に入り、賽銭を上げて拝んだあと建物の先の車道を進んだ。

  グルゥーっと回り込みながら高度を上げてゆく車道のカーブのあたりでは武甲山や双子山が見えた。
グリーンラインに上がると茶店がある。
店は閉まっていたが軒下のテーブルでオバサン二人組が休んでいた。
関八州はどちら?、と聞いたのであっちですよ、と行く手を指差し歩き過ぎようとしたらあとに随いてきた。

  グリーンラインを100m ほど歩くと、落書きだらけの雨戸を閉ざした茶店があった。
関八州への入り口はその向かい側にある。(左)


  入口から10分足らずで車道を横切り、さらに10分あまり登ると関八州の頂上広場に着く。

  前回は早春の週末だったせいで混雑し、腰を下ろす場所を見つけるのに苦労したが、この日は茶店から随いてきたオバサンふたりだけでガラーンとしている。


  高山不動奥の院の中を覗き込んでみた。
石碑が立っていて、大和の中央勢力が関東方面に手を伸ばして来た時代、この頂上は重要な戦略ポイントだったと刻んである。
不動堂もそのような歴史と無関係ではなさそうだった。

  雲高が高いので遠くまで見通せ、奥多摩から武甲山へかけての山連なりが一望だった。
ただ、日の光が当たらず、やや平板な眺めだったのが残念だった。

  東屋のテーブルでガスストーブを焚きだしたオバサン二人組に別れを言って先に進んだ。

  頂上のすぐ裏手に小屋があった。
脇に大きなアンテナが立ち、入り口の横に "JPI-YCQ リピ-タ局" と記した看板が掛けてあった。


  無線小屋の前から車道に下り、刈場坂峠に向った。
すこし進んだ所にあるカーブで前方の視界が広がった。
遠くに見える山の頂上にアンテナ鉄塔があって丸山と分かった。


  30分ほどで飯森峠に着いた。
太い標柱と説明看板がある。

  さらに車道を30分ほどでブナ峠に着いた。
木偏に義の字の旁というあまり見た事のない文字を "ブナ" と読ませる。

  乗越道の別れの角が小さな園地になっていて紅葉が綺麗だった。


  園地から山に上がって尾根の背を辿る歩道もあるようだったがアップダウンがある割りには近道にならなさそうに思えたので易きについて車道を歩き続けた。

  山の肩を乗り越して行ったところに "ときがわ町" と記した境界表示標が立っていた。
裏側には "飯能市" と記されていた。


  行く手の右側に白石峠から堂平山への山並みが見えてきた。

  間もなく刈場坂峠の "りんどう小屋" の屋根が見えてきた。
関八州の茶店と同じで閉まっているかと思ったが、そうではなく、2週間前に立ち寄った時のおジィさんおバァさんと、その子と思われるオバさんが店番をしていた。
さすがに寒いらしく、全員毛糸の帽子をかぶっている。

  半月前は紅葉だった裏庭の木も葉が全部散っていた。

前回と同じ田楽味噌こんにゃくのおでんを食べながら休んだ。
腹具合が芳しくなかったので、ほかはジュースとコーヒを飲むだけにした。

峠からの下りは山道を歩けば近道になるようだったので一旦は入り口から入って歩き掛かったがあまり歩かれていないように見えたので思い止まって回れ右。

  沢道なので下っていった先が崩壊でもしていたら面倒だと思ったので、後戻りして車道に上がった。
時間が早く余裕があったし、車がほとんど来ないので車道を遠回りした方がかえって良いかもと思った。

  刈場坂峠から15分ほどで虚空蔵峠に着いた。
このあたりも木の葉が落ちて角の東屋が良く見える。


  東屋の前から尾根の裏側に回りこんで谷に下って行くところでは向かいの山肌の紅葉が綺麗だった。



  谷底に降り着いた所に刈場坂の集落があった。
人家のまわりはまだ盛りの紅葉が美しかった。

  刈場坂から20分あまりで坂元集落に入るとすぐ国道に出た。
大型トラックが疾走している脇を歩いてゆくと "帝王切開発祥の地" と記した記念碑が立っていた。

  碑文に、村医者がオランダ医学書の記述を頼りに、難産で苦しむ母子を救ったこと。
母親は80歳過ぎまで、長命を全うしたことなどが記されていた。
昔の人の勇気と逞しさに打たれた。



  旧正丸峠からの道が合わさると間もなく正丸駅が見えてきた。
駅のトイレで腹具合の手当てをしたあと横手の茶店に入って、ラーメンを食べた。
温かい食べ物をユックリユックリ食べているうちに腹が温まり、気分が良くなってきた。

  電車の時間が近付き、駅に行く前に香煎棒を3袋買った。
この前、一袋買って家に持ち帰ったのがとても美味しかった。
家への土産と自分用とで調達量が多くなった。

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☆おわりに
  今回の山行で奥武蔵主稜のトレースがあらかた終了した。
長年掛かっての歩き繋ぎだが、奥秩父北端の小川山から、金峰、甲武信、雁峠、雲取、日向沢ノ頭、有馬/大持/小持の連山、正丸峠/刈場坂峠を経て高麗川両岸稜線の末端(日和田山と多峯主山)まで、長い尾根連なりを歩き切れたこととなった。

  これで、奥武蔵・外秩父山域も一段落と言うところだが、あだ歩いてみたい所は沢山残っている。
いくつかの支稜と山越えのルート、荒川北岸にあるいくつかの山々。

  少々遠くて低目の山ではあるが、歳を取ったからこそ、かえってそんな所を楽しめるかも知れない。
昔歩いた所はそのあとどうなっているか、良さそうな時季を狙って再訪してみるのも悪くない。

まだ暫くは楽しめそうだ。