外秩父、堂平山-旧定峰峠-大霧山-登谷山縦走(2006.3.26-27)


☆期日/山行形式:
2006.3.26-27  旅館利用一泊二日 単独

☆地形図(2万5千分1): 安戸(宇都宮16号-2)、正丸峠(東京13号-1)、寄居(宇都宮16号-1)

☆まえがき
    毎春行われる脚試しで知られている外秩父七峰縦走ルートに行った。
4月に小辺路(高野山−熊野本宮大社)を歩きたいと思っているので、そこそこの距離があって山道と車道がミックスしている点が似ているこのルートは、トレーニングの適地ではないかと思った。
かねてより興味があった寄居の町内の旅館に泊まって二日続きで歩けば、山越えと山間の旅館の宿泊を繰り返す小辺路のシミュレーションになると思った。

  ただし、山と宿泊地との行き帰りと、下山後の交通の便を考慮し、旧定峰峠を接続点として初日と2日目とで逆向きに歩く変則縦走とした。

  初日は池袋から東武東上線小川町駅に行き、バスで白石車庫(353)へアプローチ。
七重峠(695)から堂平山(875.8)に登ったあと尾根筋を辿り、白石峠(765)、pk828、定峰峠(625)を経て旧定峰峠(630)まで縦走して経塚(305)に下山。  小川町駅を経て寄居へ移動し、駅付近の旅館に宿泊。

  二日目は釜伏峠(555)に上がり、登谷山(668)から皇鈴山(679)、二本木峠(595)、粥新田峠(545)を経て大霧山(766.6)に登頂したあと旧定峰峠(630)から定峰(235)に下山し、バスで秩父に出て帰宅することとした。

はじめ、2日目のアプローチは波久礼から里道を歩き、風布から釜伏山に上がる予定だったが、寄居町外れの鉢形城址に興味を持ったので、山に向う途中、チョッと様子を見たくなった。
寄居駅のタクシーを利用し、城址から山麓秋山集落の奥にあるサンショウウオの里まで車で入り、そこから中間平、旧釜伏関所跡を経て釜伏峠に上がった。

  列島上空で冬と春が鬩ぎあい、気象が不安定になるこの時期にしては天気に恵まれた。
初日は曇りだったが降られずに済み、2日目は朝から昼過ぎまで素晴らしい快晴になった。
そのおかげで長丁場を楽しく歩け、まだ幾ばくかの脚力が残存していることを確認できた。

登谷山頂上の展望(寄居、熊谷方面)    (クリックで拡大します)
☆行動記録とルートの状況
26日(曇)
<タイムレコード>

    宮崎台[7:08]=渋谷=池袋[8:00]=[9:01]小川町[9:25]=(バス)=[9:56]白石車庫(10:25)-登山道入口(10:55)-七重峠(11:25/35)-堂平山(12:00/15)-剣ヶ峰(12:30)-白石峠(12:43/48)-定峰峠(13:30/45)-旧定峰峠(14:30)-(15:10)経塚[15:19+]=(バス)=[15:47]小川町駅=寄居駅{旅館泊}

◆ 普通なら日帰り山行2回で歩くルートを、山麓近くの寄居で泊ることにしたお蔭で時間的に余裕ができ、初日の朝の出発は比較的ユックリでよくなった。
山への入口となる小川町駅への交通ルートにはいくつかの選択肢があったが、乗換えがなくて時間が早く、コストも掛からない東武東上線で行くことにした。
日曜日だったせいか、川越を過ぎたあたりから続々ハイカーが乗り込んできて、都内のラッシュアワーなみの混雑になったのには度肝を抜かれた。
こんな大勢と同じ山を歩く破目になったら大変だ、と心配したが、ひとつ手前の明覚駅でほとんどが降りていった。
こんな大勢の群集が何処に行ったのか分からないが、この地域では、山歩きだけでなく、里道を大勢で歩くウオーキングが盛んなようだ。
  小川町駅で降りたハイカーの数は4、50人位。
駅前のバスターミナルの幾つかのポストに行列ができた。
9:25の白石車庫行きもほぼ満席になって発車。
官ノ倉山の麓を通って谷間に分け入って行った先のバス終点、白石車庫は左のように小奇麗な園地になっていた。

  近くのトイレで身体を軽くしたあと、山支度を整えて歩き出したのだが、初めて来たところのため、方向感覚が狂い、あらぬ方に歩き出した。
ご粗末な迷い歩きのため、15分以上ものタイムロスをした。

  バス停に戻って正しい方向を確認して歩き出し、10分ほど進むと林道笠山線の分岐があった。
左の様に角に道標が立ち、2、3台の車を停められるスペースがある。


  クネクネ曲がりながら山腹を斜上して行く舗装林道を、ばらくの間、歩いてゆくと道標があって、七重峠への登山道の入口を示している。

  暫く谷の側壁の杉林の中を登って行くと、グルッと迂回してきた林道に再会する。
ここまで来れば峠までの高度差の七割方は消化したことになる。
このあとは左のような気分の良い自然林の中に入り、ひと登りで笠山と堂平山をつなぐ縦走路が通っている七重峠に出る。

  七重峠では登山道と車道がクロスしている。
車道で山が切り崩され情緒には欠けるが、堂平山入口に上がると、笠山が良く見える。(下左)

  笠山をながめながら休んでいると年寄りハイカーのグループが歩いてきた。
同じバスで来た人たちのようだ。
どっちへ行けばよいかガヤガヤ話し合っていたが、ひとりが道標を見つけ、こっちだよと言いながらこちらに上がってきた。
地形図やコンパスなどのような面倒な物は持っていないようだった。
  前を通り過ぎるのを挨拶代わりにニコニコ顔で見送ってしばらくすると、小学2、3年生くらいの子を連れた若い父親が来た。
こちらは息子に山歩きの手ほどきをしている様子で、いろいろ話しながら歩いていった。

  山で遭う子供はみな元気だ。
身体が軽い割にエンジンが強力な所へ、子供の野生が解き放たれるせいだろう。

  休憩のあと、杉林の中を30分ほど登ると開けた草原の縁に出た。(下左)
草原の向うにある高みが堂平山の頂上で、左側の木立の蔭に今は使われていない天体観測ドームがある。  
  ドームの下の草原にザックを下ろして休憩した。
曇りで大気が濁っていて眺めはパッとしないが、今上がってきた槻川谷が縦観でき、その左岸沿いに今日と明日に歩く頂稜が長々と延びている。
どうということもない低山の連なりだが小刻みなアップダウンを繰り返しながら春霞みの中に消えていて、これを歩き通すのはなかなか大変かも、と思った。

  ドームの後側を通って舗装車道に出た.
暫く車道を歩いたあと、正面の急な丸太階段を登ると剣ヶ峰だ。
頂上はアンテナ鉄塔に占領されている。
鉄柵の脇で右折し、白石峠に向った。


  檜と自然林のミックスした尾根を下って白石峠に降り立った。
広場の向かい側の山の入口の階段に腰を下ろして小休止。

  舗装車道が五辻に交わっている広場で、マイカー、自転車、大形バイクなど、色々な車が上がって来てはしばらく休み、やがて峠の反対側に降りてゆく。

  峠からは200段近くの急な丸太階段を登る。
鈍っている足腰が苦しがったが、トレーニングに来ているのだからと言い聞かせ、辛抱した。


  階段が終わると、穏やかなトラバース道になった。
ピークを巻き終わって尾根の背に乗ると山の裏側が見えてきた。
奥手に高く、アンテナ鉄塔を乗せているピークが見えた。
地図を参照したら、丸山(960.3)だと言う事が分かった。
真近かに見たのは多分初めてだ。


  定峰峠への急な下り坂には光沢メッキの手摺が連なっていた。
駅の階段などでは良く見掛ける物だが山中でははじめて見る珍しいものだった。
少々大袈裟なような気もしたが、雨の時は水が流れる地形で、滑りやすくなるのかも知れない。


  定峰峠は車道を挟んで二軒の茶屋がある。
車で来た人達とハイカーと、両方の休憩地点になっていて賑わっていた。

  白石からここまで、身体は少々苦しがったが時間的には割に順調に歩いてこられた。
時間的な余裕もできたので茶屋に入り、甘酒を飲んだ。
プックリした顔の茶屋のオバサンは愛想が良く、話し好きで、何やかや話し掛けてくる。

  毎年4月中旬に行われる外秩父七峰縦走大会は、なんと6000〜7000人もが参加するのだそうだ。
沼津アルプスで驚いた150人など問題にならない桁外れの大人数だ。
小川駅から官ノ倉山のこちら側まで人の列がつながると聞き、恐ろしい事だと思った。

  甘酒の糖分で元気をつけて峠の向かい側の山に取り付いた。
檜林の中をひと登りすると傾斜が緩んだ。

  701m ピークの北側の下りの途中には、左のような形の "獅子岩" がある。
このあたりで向うから歩いてきた二、三のグループと擦れ違った。
同じバスで来て、粥新田峠から大霧山に登った人達のようだった。

   最低鞍部からダラダラ登っていった所に旧定峰峠がある。
鞍部ではなく、平らな尾根が急に立ち上がる変曲点にある狭い切通しだった。
東秩父村の経塚と秩父市の定峰を繋ぐ峠道が乗越し、"ダイダラボッチ" の伝説を記した看板が立っていた。
  道標に従って経塚への下山路に入るとすぐに舗装林道に出た。
僅かな車道歩きでまた山道に入る。
よく整備され、大勢が歩いている道のようで、至って歩きやすい。
心積りよりかなり時間が早かったのでバスの時刻表を出してみたら、ユックリ下っても3時過ぎのバスに乗れそうな事が分かった。
  予定より1時間早い。
かりに3時のバスを逃がしたら、谷沿いの山村風景を眺めながら歩いて次のバスに乗ればよい。
半ばクールダウンの積りでユックリ歩いた。

  やがて人家が見えるようになってきた。
穏やかな山の斜面に散在している人家の様子は何となく阿武隈の山村風景を思い出させる。

  経塚バス停には丁度よい時間に着いた。
山支度を解き、一休みしていると2、3台タクシーが行きするのが見えた。
どうしたのかな、と訝っている所へ来たバスを見てその理由が分かった。
  大混雑で、通路まで一杯だ。
立っている人の隙間をすり抜けて通路の前部に行くといくらか隙間があったので、混んで来るまでの間、床に置いたザックに腰を下ろした。
バスではこうしないと沿線の山が見られない。

  小川町駅では待つほどのこともなく寄居行きの電車が出た。
電車は山裾の台地を走って寄居駅に着いた。

寄居はやや寂れた感じの町だったが川向いの鉢形城址が有名で、遠くからわざわざ見に来る人が多いらしい。
町中の安宿を予約してあった。
数日前にチラッと見た地図の記憶で歩いて行き、すぐ横手の角まで行き着いたまでは良かったのだが左と右を間違えて曲がったため、町外れに出てしまうまで見付からず、もう一度駅に戻って仕切りなおす始末となった。
二度目の失敗をせぬよう、駅前交番で場所を確かめて行き着いた。
旅館は、かなり流行った時代があったようで建物は大きく立派だったが今は寂れ、何となく薄汚い感じがした。

  ほとんど民宿なみの宿料だったが夕食は大ご馳走でとても食べきれなかった。
朝食には小さな握り飯を三個作ってくれるよう頼んで、早い時間に寝た。
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27日(快晴→薄曇)
<タイムレコード>

    寄居=[タクシ-\2020]=サンショウウオの里(7:10/20)-中間平(8:00/05)-釜伏峠(8:50)-釜山神社(8:55/9:00)-登谷山(9:30/45)-皇鈴山(10:10/15)-愛宕山(10:45)-二本木峠(10:50)-粥新田峠(11:45/12:00)-大霧山(12:40/13:00)-桧平(13:20)-旧定峰峠(13:30)-定峰時計付き道標(14:10/15)-(14:30)定峰[14:26+4]=(\310)=[14:57+5]西武秩父[15:07]=東飯能=八王子=長津田=宮崎台


◆ 波久礼からアプローチする計画を変更し、駅前からタクシーに乗り、鉢形城址を見たあと秋山集落の奥の中間平緑地公園から釜伏峠に上がる事にした。
ドライバーは城址公園の中をユックリ走りながら城の説明してくれた。
荒川の崖の上に築かれた要塞で、北条氏の北関東進出の拠点だったという。
建物の復元をしたいのだが町に資金がないため僅かな塀と門構えしかできないでいるそうだ。
大きな城跡なので機会を見て出直すことにし、山に向った。


   町を出外れて、八高線の線路を渡り、家並が断続する道路を進んだ。
寺が多く、それを見て回りに来る人も多いそうだ。

  秋山は山麓のいい感じの集落だった。
集落背後の山裾の谷窪にあるサンショウウオの里で車が停まった。
研究所のような看板が出ているが鐘楼があったりしてもとは寺だったのではないかと思った。

  本当はもっと上の中間平緑地公園まで車で上がって貰おうと思っていたのだが時間は早いし希な快晴でもあったので、長目に歩くのも悪くない、と思った。

  クネクネ曲がっている車道を登って行くと中間平の山上集落があった。
梅園が花盛りで、枝垂れの紅梅を取り混ぜ美しい光景を呈していた。


  人家の間を過ぎて進んで行った先で折り返し、養蜂園の前を過ぎるとまわりが開け、左のような休憩所がある。

  野外テーブルにザックを置いて休憩。
手摺に立つと左下に寄居の市街、正面には関東平野が広がっている。
熊谷市街まで約20Km。
霞が出ていなければ真近かに眺められるだろう。


  東秩父村に通じる車道の別れ、次いで風布(フブ)への車道を見送って進んで行くと、釜伏の山上集落があり、道端に旧釜伏関所跡を示す看板が立っていた。
関所と言うより峠越えの休息所だったらしい。

  僅かで、釜伏峠に着いた。
鳥居の立つ右手の道を進むと釜山神社がある。
山中にヒッソリ立っている社だが BC100 前後の開化天皇の時代には既に存在していたと伝えられる古い神社で、近在の住民の信仰も厚いようだ。


  
参集殿の大きな建物の脇を回って釜伏峠に戻った。(左)
ここは舗装車道の三又路になっていて尾根沿いに北上して風布の方に下ってゆく道路と寄居の方から上がってきた道路とが交わっている。

  車道を歩いて登谷山に向った。
行く手の左手に武甲山らしい山影が見えた。
この方角からは整った三角形になっている。
正面は石灰採掘の崖になっている筈だが、青色の霞に隠れ、醜さが感じられない。

  しばらく進むと登谷牧場の建物群が見えてきた。
道標にしたがって左に上がり、尾根の背の舗装道を登って行くと登谷山の頂上である。

左手に視界が開け、冒頭パノラマのような広大な展望があった。
行く手には皇鈴山(ミスズ)が大きく、その背後に笠山、堂平山が連なっている。

  潅木の間の尾根道を歩いて皇鈴山に向った。
林の切れ目では右手に宝登山が真近かだった。(左)

  尾根の両側の車道が "Y" 字に交わる所で車道に出て、500m 近く進むとまた尾根に上がる。
左下の車道で削られた山腹が崩壊したようで、斜面がコンクリートで補強され、擬似木の柵が立てられている。

  柵が終わった所から緩やかに上下して行くと皇鈴山頂上広場に出る。
広濶な草原で、秩父寄りに東屋が立っている。

  とても気持ちの良いところだったので東屋のベンチにザックを下ろし暫く休憩した。

  皇鈴山から愛宕山までの間はすぐ近くを車道が並走しているが尾根道は左の様な自然林の中を通っていて気分が良い。

  一旦車道を歩き、また山に入って少し登ると愛宕山の頂上だった。
コジンマリした頂上だが頂上の肩に天体観測ドーム、その一段下にキャンプ場がある。




  愛宕山から僅か下った所が二本木峠だ。
頂稜沿いの車道と東秩父村から上がってきた車道とが "T" 字に交わっている。(下左)


  二本木峠から先はしばらく車道歩きになり、20分ほど進むと秩父高原牧場がある。
山の斜面が切り開かれ、広大な牧草地になっていた。
県立の酪農振興機関だが、展示館やバーベキュー/ミルクハウスなどもあってちょっとした行楽地にもなっている。
あいにく、月曜は休業日で、みな戸締めになっていた。

  牧場の中の車道は見晴らしが良く、歩いていて気分がよい。
行く手にこれから登る大霧山が立っていた。
地形図でイメージしていたより遥かに大きく、堂々とした山だ。

  20頭ほどの牛がいる所で尾根を乗越して山の西側に入り、また東側へ下って右手にカーブして行くと粥新田峠に着く。
かつては武蔵と秩父をつなぐメインルートだったと言われているが今は石地蔵が見守っているヒッソリした峠だ。

  道端に立っている東屋の脇の日だまりで休憩した。
後から追付いてきた老ハイカーがひと言二言話して大霧山の方に登っていった。


  少し飲み食いをしたあと立ち上がった。
昨日来の疲れが溜まっている状態で約200m の標高差を消化しなければならない。
しかし、これを乗り切って大霧山に登頂してしまえば、今回山行の登りは終わり、あとは旧定峰峠から定峰へ下山するだけだ。

  覚悟を決めて登りに掛かったが思ったほどの急登はなく、ひと頑張りで緩やかな上り調子の尾根に乗った。(左)

  左右に広がって来る展望を楽しみながら進んで行くとモッコリ盛り上がった頂上が近付いてきた。
最後の登りは100m ほど、かなり急な丸太階段になっていた。
登り切って頂上広場に顔を出してみたら、ここまでのピークとは大分様子が違って、7−8人が休んでいた。
すぐ下の日だまりで粥新田峠の老ハイカーが弁当を食べており、るの横では、お父さんが連れてきた子供達にガスストーブの始末の仕方を厳しく教え込んでいた。
  この山はすこぶる景色が良い。
この2日の間歩いた範囲では最高の秀峰だと思った。
景色を眺めながら林檎を食べた。
西側の樹木が伐り払われ、秩父方面への展望が広がっていた。
霞が出て遠くが見えなかったが、奥多摩、奥秩父から両神山、双子山、御荷鉾山あたりまでは、それと見分ける事ができた。

粥新田峠の老ハイカーと話し始めたらシゴキ父さんも仲間に入ってきた。
子供に厳しいシゴキ父さんも、大人同士の話では至って温和な山好き兄さんだった。

  "馬鹿がいてねぇ、そこの看板の字をタバコで消しちゃったんだよ" と老ハイカーが言った。
言われた看板を見ると展望写真に記入された沢山の山と町の名が全て焼き消されていた。
あまりの惨状に驚き呆れ、怒りがこみ上げてきた。
"馬鹿だったらこんな酷い事は考えつかないですよ。 これは悪人ですよ" と言った。

こんな良い山に、こんな悪い事を思い着ける人間が登って来ることがあるのかと思うと、胸が悪くなる。


それはともあれ、シゴキ父さんの話では、冬の大気が澄んだ日には、八ヶ岳や日光方面まで、素晴らしい山岳展望を楽しむことができるそうだ。
お奨めにしたがい、冬晴れの日に、是非、再訪したいと思った。

大霧山頂上から北方への展望    (クリックで拡大します)

  少々疲れはしたが、今日も順調に歩け、時間的な余裕がある。
この調子なら小辺路も何とかなるだろう。
かなり良い気分でノンビリ長休みをしていたが景色も見飽きたので腰を上げた。

  旧定峰峠へのルートは、いったんやや急に下ったあとは、穏やかに上下する尾根を辿って行くようになる。
大半檜林の中を通っていて展望には恵まれないが穏やかで心落ち着く尾根道だ。

僅かに登って左折する高みは檜平。(左)

   さらに15分ほどで見覚えのある旧定峰峠に降り立った。(左)
昨日の反対側の秩父定峰への下山路に入った。

  こちらは歩く人が少ないようであまり踏み固まっていない。
要所には道標があり、ルートとしては明瞭なのだが至る所に浮石がゴロゴロ転がっていて足許には注意が必要だった。

  山小屋風の建物の横手を通ったあと舗装路を三度横切るとすぐに定峰の山上集落に入った。

  岩尾山と刻んだ標柱が立っている寺から少し行った所に左のような時計付きの道標が立ち、その向かい側に野外ベンチが設けてあった。


  峠から休まずに歩いてきているので最後の休憩をした。
奥武蔵と外秩父の境界領域にあたる山連なりで、正面は大野峠。
左側が剣ヶ峰、右手に高いのは丸山だ。
紅葉の季節にでも機会を作って歩いてみたい。

  良い休憩ができ、満足してザックを背負い上げた。
舗装車道ながら急な坂道を下って行くと定峰神社があった。
その先はさらに急坂になる。
   小刻みなヘヤピンカーブの繰り返しで高度を下げて行くと谷底の車道が見えてきた。
下の道路の向かい側の広場にバスがいてそのまわりをドライバーらしい人が歩いている。
間もなく出そうな気配を感じたので手を振りながらなかば走って行った。

  道路に飛び出したときは、発車したばかりの西武秩父行きバスが20m 手前まで来ていた。
まさに待ち時間ゼロで、予定より1時間早いバスの間に合ったのだが、後で調べて分かったのは、定刻が14:26のバスが約4分遅れて発車したばかりの所へ道路に飛び出し、ジャストインタイムで乗れたと言うことだった。

秩父の市街を通るのは久し振りだった。
盆地の中心都市だけあって賑わっていた。
西武秩父から東飯能、八王子、長津田という経路で帰ったが、全ての乗り継ぎが極く短い待ち時間の接続の連続となり、早い時間に家に帰り着いた。

                                                            この日の朝へ                               ページ先頭


☆おわりに
    冬の間宿泊山行をしていなかったので山間の旅館の泊まりと山越えを繰り返す小辺路を歩き通せるかどうか、外秩父縦走ルートと寄居町での宿泊の組み合わせでシミュレーションをして見た。

老化による足腰の性能低下は感じられたがある程度は歩けそうなことが分かり、幾分かは安心した。

  外秩父は、少し遠いが交通の便は悪くない。
大霧山や堂平山のような秀峰がある。
笠山も景色が良いと聞いた。
暑い夏はどうか分からないが、それ以外の季節ならいつでも楽しめる好ましい山域だと思った。