大峰奥駈道、行者還岳-大普賢岳-山上ヶ岳(2005.9.19-22)

☆期日/山行形式:
2005.9.19−22  無人小屋、宿坊、民宿利用。 3泊4日

☆地形図(2万5千分1): 洞川(和歌山3号-1)、弥山(和歌山3号-2)、南日裏(和歌山3号-4)

☆まえがき
    吉野蔵王堂と熊野本宮大社を繋ぐ大峰奥駈道は、わが国山岳信仰のルーツであり、国内各地にある縦走ルートの最長老だ。
一昨年の秋、たまたま大峰の魅力の一端に触れたのが契機となり、昨年の5月から今年の5月の間に4回出かけ、ほぼ全区間を踏破した。
ただ、北奥駈道北半分のトレースを目指した、昨年9月の山行は天気の回り合わせが悪く、雨中の行動に疲れ、大普賢岳頂上から和佐又にエスケープしてしまい、その結果として、大普賢岳頂上から行者還岳、一ノ垰を経て行者還トンネル西口下降点までの間が未踏のままで残ることとなった。

  奥駈道全体から見ればほんの一部に過ぎないのだが、弥勒ヶ岳から国見岳を経て七曜岳の間には、サツマコロビや塀風横駈などの難場があって、奥駈道北部の核心部とも言える。
この部分のトレースが欠けた状態で奥駈道を完歩したと主張するのは、少少憚られた。

  例年、山上ヶ岳宿坊は9月23日の戸閉めをもって閉鎖される。
その前にこの宿題を決着させるべく、山行プランを練った。

大普賢岳頂上から北方の展望
大普賢岳頂上、北方の展望。 左から右へ、稲村ヶ岳、レンゲ辻、山上ヶ岳、竜ヶ岳。    (クリックで拡大します)


    計画のあらましは、早朝の新幹線のぞみで京都へ行って、近鉄吉野線の下市口駅へ。
バスに乗り継いで天川河合まで入り、さらにタクシーで行者還トンネル西口(1120)まで行って稜線に上がり、奥駈道(1495)に合流。
一ノ垰から pk1516、pk1472、pk1458、pk1486を経て天川辻の北にある行者還小屋(1420)まで進んで宿泊。

  二日目がこの山行の "本体" で、行者還小屋(1420)から行者還岳(1546.2)に登頂したあと、七曜岳(1584)、国見岳(1655)を経て大普賢岳(1779.9)へ縦走して未踏部のトレースを終了。
さらに、阿弥陀ヶ森(1680)肩、小笹ノ宿(1630)を経て山上ヶ岳(1719.2)まで進み、頂上直下にある宿坊のひとつ、喜蔵院(1670)に宿泊。

  三日目は山上ヶ岳(1719.2)からレンゲ辻(1515)を経て山上辻の稲村小屋(1545)へ。  天候と体調にもよるが、稲村ヶ岳(1725.9)ピストンのあと、法力峠(1217)から三ツ塚(1380)、観音峰(1347.4)、観音平(1150)から御手洗渓谷遊歩道(785)経由洞川(830)に下山するか、あるいは五葉松新道経由、直接洞川に下山し、民宿翠嶺館に宿泊。

  四日目は、何もせずに帰るか、洞川付近で観光するか、あるいは五番関から吉野まで、奥駈道北端部を歩いて帰るか、その時の天候と体調によって適宜選択することにした。

   これまでの4回の奥駈道山行ではすべて北から南へ、いわゆる "逆峯" 方向だったが、今回のみは、その逆の、順峯方向に歩くプランとした。
これは入下山時の交通の便を考慮したのと、最後の夜に洞川の翠嶺館に泊まって帰るようにしたかったからだった。

  この民宿は稲村小屋のオーナーが自宅で経営している。
一昨年の秋にふた晩泊めてもらい、山上ヶ岳と大台ヶ原から大杉谷を歩く足溜まりにした。
天気は良くなかったが雲間に見えた大普賢岳の峻険な頂稜と、それを取り巻くように深く刻み込まれた峻谷に惹きつけられたのが大峰に取り組んでみようと考えるようになった原因だった。



☆行動記録とルートの状況


9月19日
<タイムレコード>

    宮崎台=あざみ野=新横浜[6:18]=(のぞみ1号)=[8:16]京都[8:45]=(近鉄特急)=樫原神宮=[10:11]下市口[10:15]=(奈良交通バス洞川温泉行)=[11:19]天川川合(11:25)=(Taxi\4650)=(11:50)行者還トンネル西口(12:05)-水場(12:15/30)-稜線奥駆道(13:30/40)-一ノ垰避難小屋(14:10)-PK1486手前(14:35/45)-(15:25)行者還避難小屋{毛布約20枚有 水僅少}


  久し振りに4時半に起き出し、新横浜から朝一番の "のぞみ" で出発。
一週間も前だったのに指定席が取れなかったが、これは名古屋万博のせいだったようで、名古屋で大勢が降りるとそのあとは、空席が目立った。
  名古屋から京都までの短い時間に軽い食事をし、短時間ながら寝不足の埋め合わせをした。

  京都から下市口駅をへて天川川合までは、もはや通い慣れた道だったが、行者還トンネル西口に上がるタクシーではちょっとした問題があった。
連休のためか川合のタクシーは先約で塞がっていると言う。 どうしようか相談した結果、洞川の大峰タクシーを利用する事にした。

  川合の観光案内所で待っていたタクシーのドライバーは、川合のとよく似た、しわがれ声で愛想の良い日焼けした男だった。
  30分ほどで登山口に着いた。(左)
年間、極く僅かな期間しか通れない道で、今度も9月12日に開通したばかりだという。

  身支度は後でやることにし、入口の脇のポストに登山届けを入れて桟道を渡った。

  谷沿いを10分ほど歩くと左のような橋で流れを渡り、その先で尾根に上がる。

  この先には水場がなく、行者還小屋の水場もあてにならないと聞いていたので水汲みをした。
  意外に冷たい風が吹いていたので長袖シャツに着替え、スパッツを着けて出発。

  ここは百名山のひとつになっている弥山/八経ヶ岳への最短ルートのため人通りが多い。
ほとんどがディパックに布靴の軽装だ。

  山行初日で、まだ山慣れしていない身体と相談しながらボツボツ登り続ける。
やや急な小尾根が少し左に曲るようになると徐々に傾斜が緩み、やがて前方の樹間が明るくなると奥駈道の稜線は近い。

  緩やかに巻き登って奥駈道に合流した。(左)

  合流点でひと休みしたあと、弥山を背に東に向かう。
大峯のあちこちで見る暖地性の明るい林だが、林床の草原はすでに実りの秋の黄金色になっている。


  右手遠くに、北奥駈道南部、仏生ヶ岳、孔雀岳あたりの稜線が見えた。(左)
天気はあまりパッとせず、青空も僅かしか覗いていないがすぐに降り出すような気配もない。


  まわりが笹原になった。
何度来て見ても森が綺麗だ。










  論所ノ尾を伝わってトンネル東口に下りるルートの分岐に立つ道標(下左)を過ぎるとまもなく一ノ垰の避難小屋(下右)がある。
外形は崩れてはいないが入口の戸はなく、床も朽ちていて、泊まり場として利用できそうもない。

  いくつかの小ピークを越して進んで行く途中に大普賢岳が良く見える場所があった。
大峯連山ではもっとも峻険な容姿の山だ。

  真っ白な石灰岩の塊が積み重なり、その隙間を黒土が埋めている特異な地形を通過すると天川辻は近い。

  天川辻は、送電線が乗越し、その巡視路を利用した大川口への下降路が分岐している。
"通行人安全"、"電源線安全" という、近代的な字句を刻んだ石地蔵の前を通り過ぎるとすぐに行者還小屋だ。

  2003年5月に完成したログハウス式の小屋で、まだ内外ともに綺麗だ。
大峯の小屋の詳しい情報を掲出しているサイトがあるので、利用する場合はそちらで詳細を確認すると良いが、黴臭いながら毛布も20枚ほど備えられ、快適に宿泊できる。
ただし、小屋の先5分ほどの所にある水場は極めて貧弱で、 "行者雫水" と言う名の通り、"雫" が滴り落ちている程度で、小屋から持っていった2リッターペットボトルを満たすのにかなりの忍耐が必要だった。
もう一本持っていったボトルを満たすのは止め、それを利用して簡単な集水の仕掛けをした。
  ごろ石の上に置いたボトルの口にホースを差し込んだだけだから、長くはもたないだろうが、次ぐ日からの連休の間くらいは通りがかりの人達の役に立つだろう。
  小屋に戻って柿の葉寿司の夕食を食べ、夏用寝袋と備え付けの毛布で寝床を作り終えた頃、熟年単独者が入ってきた。
大阪からで、タクシーがダメだったため、朝のバスで来て、川合から狼平経由、弥山を越してきたという。

  この小屋は一階が小部屋と大部屋に区画されていた。
それぞれ分かれて場所を取ったため、はかばかしい話はしなかった。
日の暮れ時から霧が出たが風もない静かな夜がきた。
暗くなるとすぐに寝袋に入り、長い時間熟睡した。

                                                                                                        ページ先頭


月20日

<タイムレコード>

    行者還小屋(7:00)-行者還岳分岐(7:30)-無双洞/和佐又分岐(9:20/25)-七曜岳(8:30)-鎖場を抜けた稜線(9:20/30)-大普賢岳(10:40/11:00)-脇宿跡直前(11:50/12:15)-阿弥陀ヶ森(12:30)-小笹宿(13:05/20)-山上ヶ岳(14:15/25)-(14:30)喜蔵院宿坊{9/21まで}

  夜中にトイレに行った時には星が出ていたのだが明け方近くからまた霧になった。
あまり元気の出る天気ではないけれども、大普賢岳を越して山上ヶ岳まで行く今日の行程は今回の山行のメイン部分だ。
  大阪男は無双洞から和佐又に下山するということで七曜岳の分岐点まで前後して歩いた。
  小屋の横手から水場まで、ほぼ水平にトラバースし、水場の右手に木製階段で上がり、さらに続いている階段を登って行くと笹の斜面に入る。
数回折りかえして高度を稼ぐと行者還岳頂上北側の頂稜に出る。(左)
  頂上まで10分程で行けるようだがこんな濃い霧の中では意欲が湧かない。
右折して七曜岳方面に進んだ。
  霧が流れる森の中を登り続けて行くと無双洞分岐点に着いた。(左)
先着した大阪男が休んでいたのでお別れの前にしばらく話をした。

  六十歳真近かで、定年後どのくらいの間、山が歩けるか気になっていると言う。

  特別な事はしていないが、馬力と平衡能力が低下してきていることを受け入れ、実力に見合った山を選び、体調と相談しながら歩くようにすることと、山行間隔を空けすぎないよう注意しているだけで、七十歳に近付いた今でも、大峰くらいは何とか歩けていると話した。
  大阪男が降りていったあと、ひと息置いて立ち上がった。
分岐点から5分ほどで七曜岳を越すと次第に地形が険しくなった。
左下に七ツ池と思われる窪地を見て岩峰を巻いてゆくと国見岳手前の塀風横駈に掛かる。
バンド状の岩棚を利用した鎖場を伝わって岸壁をトラバースし、その先のガリー状の所にある木製階段を登って尾根の上に出る。

  小休止して一息入れ、また歩き出すとすぐにサツマコロビの難場に掛かる。
厳しい地形が続くが鎖、桟道、梯子によるルート整備が行き届いており、注意は必要にしても危険ではない。

  このような整備が行われていなかった古代にも、修験道の行者達は、ここを通っていた筈だ。
命懸けの行だったろうし、事故もよく起こっていたに違いない。

  弥勒岳まで行くと地形が緩む。
ただし、右下はすっぱり切れ落ちた断崖だ。
樹木の切れ間では視界が開け、谷越しに大普賢岳、小普賢岳が見える。

天気がもうひとつなのが残念だ。

  弥勒岳まで来れば大普賢岳頂上までひと息だと思ったが案外そうではなかった。
まだかまだかという感じで笹の林床の中を登り続けて行くと、一人、二人と降りてきた人達とすれ違った。

  皆デイパックだから、今朝和佐又を出発して大普賢岳に登り、無双洞へ回る周回ルートを歩いているようだ。

  崖っぷちの潅木の中に入り、傾斜がやや急に、露岩が増えると大普賢岳頂上は近い。
傾斜が緩むとすぐに山名板と三角点のある頂上広場に出た。
名実ともに奥駈道の踏破ができた喜びで思わず、"やったぁ" と、年甲斐もない叫び声が出た。

  登りに時間が掛かったのが幸いして霧が晴れ、青空が広がった。
360度の展望を楽しみながら長い休憩をする。

  北の方はページ冒頭のパノラマのように山上ヶ岳から稲村ヶ岳へのごつごつした稜線が横たわっている。
  東から南東に掛けては下のパノラマのように弥山から釈迦ヶ岳への奥駈道稜線が延びている。


大普賢岳頂上から奥駈道稜線の展望。 右手に弥山、左奥手に釈迦ヶ岳。    (クリックすると拡大)

  東側の樹木の間に阿弥陀ヶ森から竜ヶ岳に掛けての尾根が見えている。(左)
手前の小普賢岳を越してしまえばそのあと、山上ヶ岳までは、緩やかな起伏をたどって行くだけだ。

  いい気分で景色を眺めていたら背後で人の気配がした。
振り返ると女性ハイカーが来ていた。
若くてなかなか格好の良い美人だ。
頂上のすぐ下ですれ違った二人組に、女性に遭わなかったかと聞かれたが、それはこの人のことだったかと思い、その旨を言うと、あまり関心なさそうな "フン" と言う感じの生返事。
ひと口ふた口、行動食を食べたあと歩いていった。

  潅木の枝が煩るさい下りが終わると和佐又への下降点だ。
去年の9月は、芳しくない天気の中での行動に疲れたのと、すばらしいサイトにある和佐又の小屋に泊まってみたいという誘惑に負けてここからエスケープしてしまったが、今日はルンルン気分で直進する。

  隣の小普賢岳頂上付近は、露岩と潅木がミックスしてゴチャゴチャしている。
そこを越して山の南側に入ってゆくと、地形が緩み、お散歩ムードになった。

  ひと下りした所に2m 程の鉄製の尺杖が立ち、すぐ脇に、"経箱石" と記した標識プレートが置いてあった。

穏やかな草原の鞍部があった。
振り返ると小普賢岳南面の崖が見えた。(左)

  すぐ先に脇宿の大岩塊が見えている所でザックを下ろした。
まわりはフカフカした苔に覆われている。
すぐ脇の倒木の上の苔はとりわけ綺麗だった。(左)




  脇宿の先から阿弥陀ヶ森への登りになる。
大した傾斜ではないが、水流で抉られたり、木の枝が落ちていたりして意外に歩き難い。


  ひと登りした所に女人結界門があった。
"宗教的伝統によりこれより先、女性は立ち入り禁止" と、和英両文で記した看板が立ち、その脇から柏木へのルートが分岐している。

  門を潜って左に向かうと間もなく尾根の上に乗る。
遊歩道のような感じの緩やかな登りを進んで行くと竜ヶ森の手前で右にまわり、頂上の北肩から派生している尾根を乗越す。
倒木を避けながら下って行き、左に曲がると間もなく前方に光を反射する水面がが見えてきた。

まもなく小笹ノ宿に着いた。
  ここには不動像、祠、石碑などが林立し、大きな祭祀場になっている。(下左)
小屋もあるがプレファブの小さいものだ。
小屋の内部は半分が土間、残りの半分が銀マットが敷かれた床になっている。
狭いのが難点だが、環境は最高だし、すぐ横手に晴らしい水場があるから混まなければ最高の泊まり場になる。
テントを担ぎこんで泊まれば最高に快適だろう。

美味しい山の水でミニパンを食べ、テルモスと水袋を詰め替えた。

  ここまで来れば終点の山上ヶ岳までワンピッチのお散歩だ。
道幅が広がり石畳になっている。
ノンビリ歩いていると日本庭園の中を逍遥しているような気分になる。


  投地蔵で阿古滝への分岐点のサインを確認し、丁目石に刻まれた数字を見ながら進んで行くと右手の谷の向うの高みの樹間に大峯山寺の屋根が見えてきた。(右)

  やや細まった鞍部を超え、緩く登って右手に曲り、崩壊地を斜上する。
視界を妨げる樹木がないお蔭で大普賢岳方面に広い視界が開ける。(下)

 露岩を乗越し、緩く登ると大峯山寺前の広場だった。


 お堂の脇の祈祷場で工事をしている。
毎年9月23日に行われる "戸締め" の儀式の準備のようだ。
  お堂に入って賽銭を上げ、無事に奥駈道の全区間を完歩できたことへの感謝を捧げるとともに、今後の山歩きの安全を祈願した。

   泊まり場の喜蔵院宿坊は僅か5分ほど下った所にある。
去年の9月に泊まって感じがよかったので今度もここにした。
ほかには客がなくひとりだったが、風呂を沸かしてくれたのがありがたかった。
  曇りで霧が出たりしていたが程ほどの風が吹いていたので風呂のあと着替えた下着の汗を濯ぎ、物干し場を借りて干した。

  夕食はあり余る量のご飯と味噌汁。
おかずは、伝統的な沢庵漬・豆昆布の甘露煮・精進揚げのほかに、"純" ポテトコロッケと刻みキャベツマヨネーズ和え、と言う "豪華メニュー" だった。
宿坊の食事が貧弱だとよく聞くし、前回も高野豆腐の煮付けくらいしか出なかったので補充用に笹蒲鉾を用意していたが、そのパックを空けることもなく満腹した。

  携帯が繋がったので洞川の翠嶺館に電話を掛け、翌日の宿泊を確認した。
急な葬儀ができたため4時くらいまで不在になるが部屋の用意をし、勝手口のドアから入れるようにしておくからどうぞ、という親切な返事だったので、いったんは押しかけるのもどうかと思ったが好意に甘える事にした。

                                                                      前日                         ページ先頭


9月21日
<タイムレコード>

    山上ヶ岳(8:00)-レンゲ辻(8:35)-念仏山先の鞍部(9:00/05)-山上辻稲村小屋(9:30/45)-法力峠(10:45/11:05)-(12:15)洞川民宿翠嶺館{\7000}

  2日間の山歩きで奥駈道全区間の完全踏破という主目的を達成できた。

  いくらか疲れもしたので観音峰まわりは止め、山上辻-法力峠経由、洞川への下山することにした。
気が向いたら稲村が岳に登って行くが、条件がよくなかったらそれも止め、次回の楽しみとって置こうと考えた。
吉野の桜の時期に来て稲村小屋に泊まり、帰りの日に洞川から吉野へ歩く、と言うプランはなかなか良さそうだ。

  朝霧の参道を登って山寺前の広場から右手に進むとお花畑に出る。(左下)
あらかた姫笹で覆われた広場だが "戸閉め" とその後に予定されている工事のためか、色々な資材が置いてあった。
左手に大普賢岳、進行方向に稲村ヶ岳が見えていた。
その先、頭が雲に隠れているのは弥山だろうか?(下右)


  お花畑が尽きた所に立っている道標の指示に従って、左の分岐に入るとすぐに、笹と潅木の急な斜面の下りになる。
露岩の部分もあるので注意が必要だ。

  背後に気配があったので振り返ると作務衣の若い男が来ていた。
宿坊に出入りしているのを見たような気がする。
"よかったらどうぞ" と声を掛けたあとちょっとしたやり取りをした。
千葉の成田からで、今は洞川に住んでいるのだと言う。

  レンゲ辻の近くの尾根上には岩峰があってかなり険阻な地形になっているが、鉄製の階段・桟道がつながっていて通行を助けている。(左)

  鞍部に降り立った所には女人結界門が立ち、阿弥陀ヶ森と同じ和英両文の掲示看板が立っていた。(左)

  鞍部の向かい側は小稲村と呼ばれる岩峰で、少し登り返した所から北側の斜面を水平に巻いて行く。
かなり急な斜面を横切って行く道で要注意だか、崩れやすい沢溝も渡りやすく手入れされている。

  ヘリの飛ぶ音が聞こえてきた。
右手の谷底にある大峰大橋あたりから飛び立ち、谷の中を螺旋に上昇して高度を上げ、山上ヶ岳頂上の方に行ってまた戻る事を繰り返している。
樹木の隙間から見ていたら長いロープで荷物を吊り下げているのが見えた。
お花畑に置いてあった資材はこの荷揚げによる物だった。
  巻き道が終わり、穏やかな鞍部に登り上げたところで休憩。

  鞍部から先は山の反対(南)側に入り、ふたたびほぼ等高に巻いてゆく。
樹木の隙間に見える稲村ヶ岳が徐々に近付いてきた。
日が上がれば霧は晴れると思っていたがそうはならず、稲村が岳の高い所に纏わりついている。
今日登るのは止め、午後は洞川で観光をする事に決めた。

  水が流れる沢溝を過ぎた所から道に沿う引き水のホースが見えるようになった。
やがて稲村小屋のある山上辻に着いた。(左)
紅葉の時期にはさぞ綺麗だろうと思われる、豊かな森に囲まれていた。

  引き水を飲んでみたいと思ったが、小屋の外に流れ出している所はなかった。
厳重に戸締りがしてあって、小屋の中を覗くこともできなかった。

  暫く休んだあとで法力峠に向った。
稲村小屋の先代オーナが開いた道は山の南側をほぼ一定の傾斜で緩やかに下っていて至って歩きやすい。
沢溝を渡る桟道、急斜面を横断する部分の鎖など、過剰といっても良いくらいに整備が行き届いている。

  一人と二人、老登山者とすれ違った。
洞川から稲村ヶ岳あたりをピストンするのだろうか?


  樹木の中を歩き続けてそろそろ飽きてきた頃、法力峠のコルが見えてきた。
この峠は杉林と自然林の間の狭苦しい鞍部だ。
高度は大分下がったが、風が涼しく、あまり汗が出ないのがありがたい。


  法力峠から先は杉林が続く。
単調な下りだったが母公堂への分岐を示す道標を過ぎたあたりから谷底の道路を走る車の音が聞こえて来たり、集落にお昼を知らせるチャイムが聞こえて来たりで、下界ムードになる。

  階段で折り返し降りた所に五葉松鍾乳洞入り口があった。
鉄の扉と錠前で閉ざされ、中には入れない。


  やがて観音堂の参道を横切ると右下に車道が見えてきて間もなく登山口に飛び出した。
左のようになっていて、道標とルートマップの看板が立っている。
洞川のバス停まで30分も掛からない場所だ。

  やや長くて単調だったが、稲村小屋まで急登が全くない楽な道だった。
早朝新横浜を発てば夕方に小屋に入るのは楽勝だろう。

  一昨年秋に歩いて様子が分かっている道をブラブラ歩いて宿に向う。
時間が早いので、洞川エコミュージアムに立ち寄ってみたが水曜日は休みで戸が閉まっていた。

人家の並びに入ると間もなく泊まり場の翠嶺館だ。
2年前の泊まった時は古めかしい木造民家だったが去年建て替えられ、大きく立派な建物になっていた。(左)
2日前に乗ったタクシーのドライバーに聞いていなかったら分からなかったかもと思うほどの変わりようだった。


  昨日宿坊から掛けた携帯で聞いた通り、横手のドアから入って2階に上がると、奥手の大部屋の戸があいていた。

  ひと休みしながらコーヒを淹れて飲んだあと、着換えを持って外に出た。
洞川は、山深い谷間の "街" だが千年以上も昔から栄えている、驚異的な所だ。
メインストーリートに沿って沢山の行者宿が軒を連ねている。

  巡礼路の終点付近に歓楽街と言うのはよくある例で、生理的欲求を解放する場所でもあったようだ。

  温泉センターも水曜で休みらしい。
手近に通りがかりの宿屋の立ち寄り湯で汗を流し、着換えをした。
足掛け3日といっても半日と一日と半日のみ、涼しい山だったのに、襟や背中に "塩の地図" ができていた。
以前はこんな風ではなかった、歳のせいで汗の成分が変わって来たのかなぁ、と思った。

  サッパリした所で観光案内所にゆき、蕎麦屋と近所の見所を教わった。
蕎麦屋は閉まっていたが並びの店で柿の葉寿司を三個買い、竜泉寺に行った。

  門の脇に立つ石柱には、"真言宗大本山 大峰山龍泉寺" と刻まれ、本堂脇の納経所には、"近畿三十五不動のうち第三十一番霊場" と記した看板が掛けてある。
  大峰山寺の里宮(寺)とでも言うべき寺(宮?)のようで、役行者が発見したと伝えられる清冽な湧水を湛えた池を囲む広大な庭がある。
池のほとりからは谷の詰めに山上ヶ岳が望める。(左)

  泉の水で柿の葉寿司を食べて落ち着いた所で近くにある村立資料館に行ってみた。
8世紀はじめに役行者が書いたと称する古文書をはじめ、大峰修験道と、奥吉野の林業に関する展示が興味深かった。
  宿に戻ると宿の主人が帰宅していた、
2年ぶりの再会である。
奥駈道の完歩を報告し、来年の春には稲村小屋に泊まりに来る積りでいる事を話した。

  時間が来て奥さんが運んできた夕食は、7000円の宿料ではもったいないような立派な物だった。
焼き魚以外は全部平らげ、早い時間に寝床に入った。

                                                                      前日                         ページ先頭


9月22日
<タイムレコード>

    翠嶺館(9:00)-(9:10)洞川温泉バス停(9:20)=(Taxi\1000)=(9:25)みたらい渓谷入口(9:30)-白倉谷分岐(9:50)-白倉出合(10:00)-北角(10:20/25)-(10:50)天川川合[11:39]=(奈良交通バス)=[12:43]下市口駅[12:48]=(近鉄特急難波行)=[13:13]樫原神宮前[13:33]=(近鉄特急京都行)=[14:25]京都[15:00]=(ひかり#376)=[17:26]新横浜=長津田=宮崎台

  身体時計が "山タイム" に切り替わっているため、夜が明けるとまもなく目が覚めた。
昨日より天気が良く、雲が少ない。
コーヒーでミニパンを食べたあと、朝の散歩に出た。
  また龍泉寺に行ってみたらもう本殿に香が焚かれていた。

  宿に戻って朝食を済ますとやることがなくなった。
時間があるので "みたらい渓谷湯歩道" を歩いて天川川合まで行ってみる事にした。
11半過ぎのバスに乗るのにアクセク歩く必要がないよう、タクシーを使って前半をスキップした。
瀞川バス停から観音峰登山口の吊橋まで1000円だった。(左)

  吊橋を渡り、右手に進んで遊歩道に入る。
まわりは濃密な濶葉樹林で、紅葉の時期には綺麗になりそうだが谷底の様子はよく分からない。
崖を横切る所に幅広の鉄製桟道が架けられているのは奥駈道と同様だ。

暫く進んで発電用取水堰堤の先で谷底に下ると、白い大岩が積み重なっている間を水が流れ落ちている。
大杉谷の超ミニ版と言った感じだ。

  大杉は、2004年の台風で大被害を受け、通行できなくなっているそうだ。(→大台町宮川総合支所)


  二段に折れ曲がった橋でミタライ淵の上を渡るとすぐ下に車道が見えてきた。
鉄製階段を下りきると、国道309号線に降り立った。
川迫川谷底のこの道路は3日前にタクシーで通ったばかりだ。

  谷の奥を見ると行者還岳付近の山が見えていた。

  予想より早くここまで来れ、大分時間がある。
ペースを落とし、川合までブラブラ歩きをした。
国道だが場所が場所だけに車はほとんど来ない。


  途中、北角の養魚場の入口で小休止し、暫く歩くと天川川合の人家が見えてきた。

  川合は山中の交通の要衝で、吉野の下市からきた道路と、大塔村・十津川村を経て熊野本宮方面に抜ける道路、行者還トンネルを抜けて上北山川村に行く道路、および洞川に行く道路が交差している。
  角から100m ほど上がった所にある観光案内所に行った。
コーヒ位はあるかと思ったが、自販機だけだったのでガッカリ。
天川村の広報誌を見たり、観光案内パンフレットを見たりして時間を潰した。

  下市口駅行きバスは11:39。
洞川の始発時間が11:25だから14分掛かる事になる。
走ってきたバスに乗っていた乗客は地元のオバァさん一人だけだった。

  市口から近鉄線の特急に乗って京都へ。
途中、樫原神宮前での乗り継ぎの待ち時間にお昼用の柿の葉寿司と土産の葛菓子を買った。

早い時間に京都に着いたので帰りの "ひかり" を3時間繰り上げ、夕食前に家に帰り着いた。

                                                                     前日                         ページ先頭


☆おわりに
    大峰は遠い山だったが、2年の間に5回通い、累計二十日以上も掛かって、吉野から熊野本宮まで、奥駈道全区間の踏破ができた。
森の綺麗な山だった。
山間に住む人達の純朴が良かった。
これからも機会を見て時々行ってみたい。

大峰の真髄は谷にあると言うが遠隔でもあって敷居が高い。
むしろ近傍の台高山域に良さそうな山がありそうだ。
紀伊半島南部にもいくつか個性的な山があるようだが首都圏に住む者にとって手軽とは言えない。
むしろ、時期を選んで、熊野古道の山っぽい所、たとえば大雲取越などへ出かけてみようか、と思う。
南紀の山の幾つかも、そのついでに、摘み食いする機会が得られるだろう。


[注記]
    大峰奥駈道、および熊野古道の登山/ハイキングコースでは、A4数十葉にもおよぶ詳細な PDF 形式のルートマップが下記アドレスに提供されていて、一連の山行で非常に役に立った。
それらの製作・掲出に関わった方々に感謝する。

  http://www.nanwa.or.jp/sekaiisan/other_pages/root/hiking.html

大方の参考になれば幸いである。